主に信頼することは

佐々木義夫 

  主に生かされていると感じる時とは、「願いが叶った時には感謝の気持ちを捧げるでしょうが、逆の場合は大抵何故聞かれないのか不平・不満をいうのが人間の常です。しかし、心から神を信頼し、信仰しておればそれが神の御計画だということが後のなって分かるもの」と解説書で述べられています(尤も諸兄姉には自明の事ではないかとお叱りを受けそうですが・・・)。
 思うに聖書の御言葉はある意味最大公約的な部分もあり、各人の環境、立場等で様々な解釈が可能でしょう。例えば、自分の人生に当てはめた場合、願いが叶った時とは、若い時に念願だった資格試験に三度目に合格できた時(当然感謝の祈りに参詣しましたが、その実、親や親戚が各方面に手を尽くしてくれた結果でもあります)。又、叶えられなかった最大のものは何といっても家内が若くして召されたことです。夫婦共信仰心は厚い方だと思っていましたが、神に完全に我が身を託し達観していた家内は別格として、私にとっては不満だらけでした。でもそれが後年家内への罪の意識から受洗に至ったことを考えると、そこにはやはり神の御計画を感じざるを得ません。

 

    
 前置きが随分長くなりましたが、要は目前の事象に一喜一憂するのではなく、絶えず神を信頼していれば答えは自ずとついてくるものだということ(但し、自分は家内のように信頼しきっているとは言い切れませんが・・・)、及び石橋先生は特異な考えを持つ私をじっと我慢して、私に考えさせ成長を待つ手法を採って頂いていることには感謝の気持ちで一杯です。

 同時に、受洗とは今迄の自分を再生せねばならぬことは承知していたにも拘らず、二年半を経ても遅々としてその殻を打ち破れない自分の弱さに苛立ちを覚えますが、原点に帰って気持ちを再整理し、先生の御厚意にいつまでも甘えることのないよう努力することが勤めだと考えています。
 
(みつばさNo.284 5月号より)

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