主に生かされて





イエスをとおして

         小菅 昌子


自筆のゆりの絵
 私の実家は、三島明神を祭る伊予の海賊、河野水軍の末裔。
 十二年前の父の葬儀も、今年卯年の年明けに急死した、あこがれだった叔母の式も「神道」。「死んで神となり、私たちを護ってくださる」。
 神主の言葉に、残された家族は涙し、式場は、清々とした空気が漂っていた。
 やおよろずの神・・・常々私は、大きな樹を見ると、そこに精霊が宿り、神様がそこにいるような気がしてくる。山々にも感じる。

 何故、私はイエスに出会ったのだろう。
時折、私のイエスと他の人のイエスが違うのではないかと思うことがある。
 わたしのイエスは、遠くにいる天の神様ではなく、わたしの中にいる。
 人間である私自身が、御子イエスを十字架に架けたのだと気付いた日、私は声を上げて泣いた。夕暮の帰り道、涙が止まらなくなった。ごめんなさい、ごめんなさい、と謝り続けていた。
 その日から、わたしの中にちいさな灯りがともっているのを感じるようになった。
それはすべての人にも灯っているのだと思う。人と人が繋がり合っていて、どんな出来事にも意味がある。そのことに注意深くなるようにと。

 大自然の形あるもの無いものに宿る精霊。
人間はあまりに自然とかけ離れているので、精霊は住むことができない。
 そのかわりに神様は、イエスを通して人間に聖霊を与えたのだ。
 どうぞ、イエスからいただいた聖霊を感じるこころを鈍らせない私でいることができますように。
ごめんなさい イエス。 
ありがとう イエス。
(こすげ まさこ)
(みつばさ No.314 2011年2月号より)