主に生かされて




   契約の虹、足、教会 




          匿   名


 前回みつばさに投稿させていただいた時に行数が少ないのでもう少したくさん書かせて欲しいと石橋先生にお願いしたところ、お前にはまだ早いと言われてしまいました。
 なので、今回再び自分が考えている事を書く機会を与えていただけてとっても嬉しいです。
 さて、今回は何を書こうかとつらつら考えていると、もうすぐ受洗してから一年がたとうとしている事に気がつきました。
 そこで受洗前と後で何か変わった事があるのか考えをめぐらせてみましたが驚いた事に何も浮かびませんでした。
 洗礼を受けようと決意した理由は多々ありましたがその一つに、僕という人間を形成していく上で大きなピースとなっている教会ないしキリスト教というものを外側からではなく内側から見定めてみようというなんとも生意気な腹づもりがありました。
 そして一年弱、ひとつ気がつきました。ああ、僕は「虹の足」の中にいたのだという事に。
 「虹の足」とは吉野弘という人の作品です。
 本来ならば聖書を引用するべきなのかもしれませんが、あえて僕の好きな詩人の言葉を引用させていただきます。
 山道を登るバスの中から虹のアーチがかかる瞬間を見た。小さな村といくつかの家は虹の色に染まっているのにもかかわらず、そこに住む人達は家を飛び出して虹の足にさわろうとはしない、自分の家に虹がかかっている事に気がつかないから。
 僕にとっての教会は僕が意識しないところで僕を暖かなベールで包みこんでいてくれた。これが僕が洗礼を受けて気づかされた事であり、自分は初めから教会の中に居たのだなぁと分かった事が受洗後の一番の変化なのかもしれません。
 猫が愛するお日様の匂いを一杯蓄えたタオルの様な心地の良い場所を与えられている事に、素直な感謝の気持ちが芽生えます。
 普段気がつかないところで自分を支えてくれている幸せに気がつく事が出来る、今年度はそんな一年にしたいです。
 桜が一足早く咲いたのと同じく、五月病を先取りしている中で幸福が見つかる事を願って青空を見上げる今日この頃です。                              
                            
(みつばさ No.339 2013年5月号より)



           


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