12月10日



 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者も信仰によって義としてくださるのです。
(ローマの信徒への手紙3章29節〜30節)



 日本にキリスト教が伝来したのは、良く知られている1549年のことですが、その3年後には日本最初のクリスマスミサが祝われています。
 1552年12月25日(日本の暦では天文2年12月10日)、ザビエルのあとをうけて山口で布教活動をしていた宣教師コメス・デ・トルレスらが、山口の司祭館に日本人信徒を招いてクリスマスを祝ったといいます。その後、豊後府内(現在の大分県)に移ったトルレスたちは、1560年にはクリスマスの聖劇を上演していたということです。
 なんとも革新的なことに、1566年には「クリスマス休戦」まで実施されました。この年、三好三人衆と松永久秀の軍勢が堺付近でにらみ合っていましたが、当時堺に住んでいたイエズス会宣教師ルイス・フロイスの誘いで、両陣営のキリシタン武士約70名が、12月24日の晩と翌日正午のミサに共にあずかったという記録が残っています。敵味方のキリシタン武士は、参会した信者と共に懺悔し、ミサを行った後互いに料理を持ち寄り、ご馳走を食べたと伝えられています。

 ただしその後、ご存じのようにキリスト教は禁制となります。もちろん潜伏キリシタンたちは密かにクリスマスのミサを守っていたでしょうし、長崎の出島でもオランダ人たちが「阿蘭陀正月」と呼ばれるクリスマスを祝っていたことが記録されていますが、表面上、日本国内におけるクリスマスの歴史は二百数十年間中断します。
 開国とともに日本のクリスマスも復活しました。
最初は日本に赴任した外国人の間だけで祝われたもので、1860(万延元)年、プロイセン公使オイレンブルク伯爵が芝赤羽の宿舎で各国公使を招いてクリスマスパーティを開いたという記録があります。この時、宿舎の柱に杉の葉をまきつけ、チョウチンや砂糖菓子で飾りつけた、日本最初のクリスマスツリーが出現しています。
 初めての日本人主催によるクリスマスは、キリスト教禁制が解かれた翌年の1874(明治7)年に開催されたようです。
 東京第一長老教会でその年の10月18日に洗礼を受けた、原女学校(現在の女子学院の前身のひとつ)の創立者.原胤昭が、感謝の意をこめて、宣教師カロゾルスの指導のもとにクリスマス会をセッティングしました。しかしなにぶん現在のようにクリスマス文化が浸透していない時代、飾り付けから何からどうすればいいのか手探り状態で準備されたこのクリスマス会は、ミカンで飾られた十字架を天井からぶら下げ(これは“それはカトリックのすることだ”と下見に来たアメリカ公使館員によって撤去させられましたが)たり、造花を飾ろうと浅草蔵前から仲見世あたりの花かんざし屋で買い集めて、ツリーのように飾り付けたりと、きわめて独特のスタイルで挙行されたそうです。その飾りを始まる前から見せてはいけないということで、今度は、新富座へ交渉して、芝居の落とし幕を借りることを思いつき、そういうことをしてたら、にぎやかなことが好きな座付きの若い者たちが、わいわい騒いで、提灯をつけて手伝いにやって来るというような騒ぎにまでなったそうです。
 日本最初のサンタクロースもこのクリスマス会で登場しましたが、これがどういうわけか裃姿、腰にに大小の刀を差し、ちょんまげのカツラをつけた、殿様風のものすごい格好だったとのこと。世界中の内で一番、サンタクロースらしくない格好だったのでしょうね。
 翌年には原女学校でもクリスマス会が開かれましたが、この時の混乱で培ったキリスト教の知識が生かされたものになったことでしょう。
 この原胤昭は江戸南町奉行所最後の与力でありましたが、明治維新を経て日本最初のキリスト教書籍店開業、同じくキリスト教女学校の創設。自由民権運動弾劾に反対して自らが石川島監獄(旧人足寄場)に投獄されましたが、出獄後は獄内の惨めな処遇に、監獄改良と免囚事業に生涯をかける決心をして、これまた日本初のキリスト者教誨師になりました。その後も出獄者保護所を設置するなど活動を続け、救援された者は1万人を超えるといいます。昭和17(1942)年太平洋戦争のさなか、90歳で生涯を閉じたそうです。
 明治31年(1897年)には、進藤信義が日曜学校の子供向き教材として『さんたくろう』という本を教文館より刊行しました。あらすじは「笠地蔵」のようなもので、サンタクロースが北国の老爺三田九郎と言う日本名で登場します。この本の扉絵には、ロバを従え、クリスマスツリーを持ったサンタクロースが描かれていたそうです。
 民間にクリスマスが広まったのは、1880年代に丸善がクリスマス用品を輸入した頃からだと言われています。日本の急激な西洋化に伴って、19世紀も終わり頃には、クリスマスはちょうど端午の節句のような年中行事のひとつとして、キリスト教徒でない人たちにも受け入れられていました。
 教会ではこの当時から、クリスマスがキリスト教と関係のないお祭りになってしまったことを憂う声が挙がっていますが、その一方でしっかり「クリスマス献金」の呼びかけも始まっています。また明治29年(1896年)には、正岡子規が句集『寒山落木』の中で俳句の季語に初めて「クリスマス」を使用しています。『八人の 子供むつまじ クリスマス』もちろん冬の季語です。その後も子規は、クリスマスを題材にした句を数多く発表しています。
 大正デモクラシー時代にはダンスホールでのダンスパーティやホテル主催のクリスマスパーティが盛んに開かれ、デパートも派手に店内を飾り立てて庶民の消費意欲をあおりました。この頃から現代とあまり変わらない状況になっていたようです。
 やがて日本が軍国主義に傾き、1937(昭和12)年日中戦争に突入すると、クリスマス商戦やドンチャン騒ぎは「時局を鑑みて」一気に自粛されました。さらにアメリカやイギリスとも開戦するに至り、キリスト教自体が国家の監視下に置かれます。すでにキリスト教と関係のなくなったはずのクリスマスも、やはり舶来の敵性風習ということで規制を受けました。でもドイツとイタリアは同盟国だったのですから、ドイツ風にツリーを飾ってシュトレンを食べたり、クリブを飾るイタリア風のクリスマスなら祝ってもよかったんじゃないかとも思いますが。
 戦後クリスマスはふたたび息を吹き返しましたが、 もちろん敗戦直後の庶民はみんな食べるのに精一杯で、GHQの将兵や一部の恵まれた人たち以外はまだクリスマスどころじゃありませんでした。 1948年のイブにはA級戦犯19人が釈放され、翌49年のクリスマスには終身刑以下の戦犯を減刑する特赦令が発表されています。 GHQは国語の教科書にクリスマスのお話を載せさせるなど積極的に「日本の再クリスマス化」を画策していたフシがありますが、 この恩赦もクリスマスと関連づけたものかどうかは不明です。
 1951年には神戸にクリスマス雑貨を扱う業者の組合が設立されましたが、 庶民はまだクリスマスの飾り付けをするほどの余裕はなく、これも当初は輸出が主でした。日本製クリスマスオーナメントは海外で好評を博し、 復興期の日本に貴重な外貨をもたらしてくれました。現在でも日本に流通するクリスマス雑貨の7割が神戸で作られているそうです。
 日本経済がめざましい復興を見せはじめ、 庶民の生活にも少しずつ余裕が出てきた50年代には、歓楽街でハメを外すお父さんたちの姿がよく見られました。 これが60年代に入ると、住宅事情の改善などのおかげで日本のクリスマスも家庭中心となり、お父さんたちもイブの夜はさっさと帰宅し、 家で家族といっしょにケーキやローストチキンを食べるようになりました。
 こうして現在に至っては、クリスマスを祝うのは習慣の一つ、 季節行事の一つと考えられるようになり、クリスマスと名うってのイベントが全国各地であたりまえのように行われているのです。
 このアドヴェントカレンダーは日本の人々に、クリスマスの本当の意味を知り、 本当の意味のクリスマスをお祝いして頂きたいという気持ちを込めているのです。

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参照サイト:
イエズス会
ザビエル上陸450周年記念 ホームページ
九州大学デジタルアーカイブ