第16日

12月13日 
  

 




 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。

(マタイによる福音書2章1節〜3節)

 イスラエルの歴史は記録などにより紀元前11世紀頃栄え民族として確立していったようです。その後様々な侵略を受けたり、戦いを繰り返していました。
 
若い時のヘロデ大王
イエス・キリストの生まれた時代はローマ帝国の支配下にヘロデ王が国を治めていました。ヘロデ王は紀元前40年から西暦4年までパレスチナ地方の王として勢力を保っていました。ヘロデ王はユダヤ人ではなくエドムの出身で、母キュプロスはナバテアと言う所の王族の出身とされています。ヘロデ王は祖父の代からユダヤ教を信仰していたらしく割礼も受けていました。ヘロデの父は親ローマ派で、ローマ人たちと同じような生活様式を好んでいたようです。ヘロデ王も親ローマを受け継ぎ、 ローマでオクタウィアヌス(後のローマ皇帝アウグストゥス)によってユダヤの王位に就くことを認められたのです。ローマの内乱などで混迷をきわめる国際政治の渦中を外交手腕を発揮して巧みに切り抜け、内政でもエルサレムの神殿を始め水路、都市、貿易港カイサリア、要塞、ヘロディオンなど様々な土木建築に着手しました。
ヘロデ王時代の水道橋
パレスチナ地方カエサリアにあるもので、
30キロ離れたカルメル山から送水していた。


特に水の供給には力を入れ、各地に大きな水道橋や、細かに導水管を敷設して、降水量の少ないこの地方を潤わせたということです。ただ、政策がローマよりで、インフラ整備のために重税を課し続けた事、ユダヤ人でなかったこともあって国内の人々からの支持は低かったようです。
また、十人の妃が産んだ息子たちが、そろいもそろって野心家で、宮廷内では陰謀が渦巻いていました。ヘロデは猜疑心が強く、それらを容赦しませんでした。妹サロメの二人の夫、愛妻マリアムネ、マリアムネの母アレクサンドラの処刑、ヘロデに刃向うハスモン家の人間の殺害、2人の息子、アレクサンドロスとアリストプロスと先妻ドリスの子アンティパトロスとの勢力争いのうえの扼殺、ヘロデの弟フェロラスをアンティパトロスが毒殺など、また神殿の玄関でローマのワシの軍旗を破り捨てた二人の学者も生きながら焼き殺しました。

 三人の博士来訪
 ある時、遠いシリアの国から三人の学者(実際は三人ではなく砂漠を越えてきたのですから数十名のキャラバンを組んでいたと考えられます)が王宮を訪ねてきました。「ユダヤの王」として生まれた方を探していると言うのです。ヘロデの猜疑心はふつふつと沸きあがり、いつかその人が自分の王位を狙いに来るのではと考え、ヘロデの心は休まることがありませんでした。ヘロデは問題の「ユダヤ人の王」がベツヘレムに生まれたことをつきとめ、ベツヘレム周辺の2歳以下の男の子を皆殺しにしてしまいました。これが後世まで悪王として語りつがれていく、幼児虐殺なのです。この時、イエスとその家族は天使に促されるままにエジプトへと逃れ、ヘロデが没するまでそちらで過ごしていたといいます。

幼児虐殺
 後継者と決めていたアンティパトロスは甥や姪たちが自分に復讐してくるのを恐れヘロデの死を願ったが、その親子の確執は最終的にローマの宮廷まで巻き込んでしまいました。ヘロデはアンティパトロスのことをアウグストゥスに報告し、その結果アンティパトロスに対する一切の処断をまかせるとのローマ側の言質を得ました。ただ、アウグストゥスはヘロデと息子たちとの度重なる抗争にあきれはて、「余はヘロデのヒュイオス(息子)であるよりヘロデのヒュス(豚)になりたい」と語ったと言われています。 それとほぼ同時に、ヘロデは病に倒れました。ヘロデがこれまでにアウグストゥス神殿を造る等ユダヤの律法を逸脱することが多かったのに不満をたぎらせていた一部の人々が反乱を起こしました。これは鎮圧されたものの、ヘロデの病の苦しみは大変なもので、苦痛から逃れるために自殺をはかる有り様でした。自殺未遂の騒ぎを獄中で聞いたアンティパトロスは獄卒に金をやるから解放してくれと頼んだが、獄卒長はただちにヘロデのもとへと注進にかけつけた。ヘロデは最後の力を振り絞ってアンティパトロスの処刑を命令しました。ヘロデが死んだのはその5日後のことです。
 

サロメヘロデ・アンティパスの前で踊る

 ヘロデ大王の死後、王の残った子ども達、ヘロデ・アンティパス、アルケラオ、フィリポの三人は王国を分割統治しました。幼児虐殺を避けエジプトへ避難していたイエスの家族は、ヘロデの死後もアルケラオが支配していた為ベツレヘムには戻らず、ガリラヤに引きこもったとあります。アルケラオはあまりの悪政だったため、たまりかねた住民がローマ皇帝に訴え、治世十年目で強制退位されられたということです。ガリラヤ地方を統治したのはヘロデ・アンティパスでしたが、彼もまた残虐で、洗礼者ヨハネを逮捕、妻の連れ子サロメが踊りの報酬にヨハネの首を要求したため(といわれています)ヨハネを斬首してしまいます。また、イエスの処刑に関与したのも彼でした。
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