音楽の余韻
演奏会巡りの 予定 と 感想 などです
1月 8日 9日 10日 17日 23日 27日 29日 30日
10月 7日 8日 12日 14日 18日 21日 24日 28日
11月 5日 8日 10日 11日 13日 14日 26日 27日
1月8日(土) 東京文化会館
プラハ国立劇場 日本公演 (指揮:リハルド・ハイン)
ヨハン・シュトラウスU 喜歌劇 「こうもり」
大々的な海外オペラの引越し公演が続く中で、ヨーロッパの歴史あるオペラ劇場の「普段着」のオペラ上演という感じで、とても爽やかな印象。確かに、アデーレにメラニー・ホリデイを起用して、現地での通常の上演に「一輪のよそ行きの華」を添えてはいたけれど、全体としては、舞台装置も質素で、演奏もどちらかと言えばあっさりした感じに淡々と進められていく。しかし、演出のテンポ感の良さ、8型の小ぶりの編成のオケの(決してうまいとは言えないけれど)音楽を慈しむような演奏、そして何よりこの歌劇場の歌い手たちの「役を手中にした」歌と演技には、このオペレッタの洒落た大人の楽しみを味わわせる何とも言えない力がある。歴史の中で洗練された「節度」「品の良さ」「安心感」、そういう印象を残した好演だった。
1月9日(日) Bunkamuraオーチャードホール
NHK交響楽団 第8回 オーチャード定期 (指揮:アッシャー・フィッシュ)
ヨハン・シュトラウスU の 楽曲 (ソプラノ:鮫島 有美子)
ジーツィンスキー わが夢の街ウィーン (ソプラノ:鮫島 有美子)
ドヴォルザーク スラブ舞曲第1集
1曲目の「ジプシー男爵」序曲の出だしを聴いて驚いた。昨夜のプラハ国立劇場の音を聴いたばかりの耳に飛び込んできたのは、14型のオケのシンフォニックな音。それが、昨夜とは対照的な意味で、実にすばらしい音。シンフォニー・オーケストラの演奏会なのだから当然といえば当然なのだが、その内容を、その音だけで、実に劇的に鮮明に表現していく。N響って本当にいい音を出すんだ、とあらためて感じる。この日のN響の音は、世界の一流オケの中でも特上の部類に入ることは間違いない。フィッシュは、昨年6月にウィーン・フォルクスオーパーの指揮者としてやって来たときに「チャールダシュの女王」を聴いて以来2度目だが、この日も音楽の表情づけ、オケの統率の両面で見事な棒さばきだったように思う。今月下旬の新国立劇場「ドン・ジョバンニ」の指揮への期待が高まる。
それから、鮫島有美子さん、僕は初めてナマで聴きましたが、歌に詩情を吹き込めるとても良い歌い手だと思いました。
1月10日(祝) 東京文化会館
プラハ国立劇場 日本公演 (指揮:リハルド・ハイン)
モーツアルト 歌劇「魔笛」
成人の日の上野駅周辺、駐車場探しに手間取って、第1幕を入り口付近の通路に座って見る羽目に。しかし、惹き込まれるように、あっという間に1幕が終わってしまう。基本的な印象は、一昨日の「こうもり」と同じで、特筆すべきはやはり演出のテンポ感の良さ。何ら贅沢なつくりはないのだけれど、実に歯切れ良く劇が展開されていく。ただ第2幕の前半、ここは心理劇の何本かの糸が交錯(場面転換)しながら描かれていくところで、魅力的なアリアが次々と出てくるところなのだが、ここだけは少し展開が早すぎて、一つの思いが醒めやらぬうちにまた次へ行くような唐突な感じを残していたように思う。オケは相変わらず音を慈しむような演奏ぶりで自然な流れを作り出していた。弦楽器の表情ある響きの上に、木管楽器の調べを浮き立たせるように重ねあわせていく。この指揮者のハインという人、まだ若そうだけれど、この劇場の良き伝統を受け継いだ「職人」を感じさせる。ただ、ここでも第2幕になって、しばしば縦の線が合わなくなっていたのだけが残念だったけれど。
劇場の歌い手達も、皆高いレベルだと思ったけれど、忘れてならないのはこの日の「一輪のよそ行きの華」(大輪の花、というべきか)、夜の女王を歌ったエリザベス・カーター。特に第2幕のアリアは素晴らしく、これまで僕が聴いた夜の女王の中では、(録音で聴いただけだけど)エディタ・グルベローヴァに次ぐ素晴らしさではないかしら。いや、第2幕だけなら、その威容さの表現という点でそれ以上かもしれない。
やはり、「魔笛」というのは珠玉のような歌に満ち々々た、宝石箱のようなオペラなのだ。
1月17日(月) サントリーホール
東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 ニューイヤーコンサート (指揮:飯守 泰次郎)
ワーグナー 歌劇「ローエングリン」第3幕への前奏曲
モーツアルト ピアノ協奏曲 第25番 (ピアノ:三輪 郁)
R・シュトラウス 歌劇「ばらの騎士」 組曲
予定にはなかった演奏会だけれども、夕刻ふと思い立って、ふらりとサントリー・ホールに出かけてみた。シティ・フィルをナマで聴くのは初めてだが、昨年は飯守泰次郎とのコンビでいい演奏をしている、との評判を聞いていたし、ドイツ音楽に真価を発揮すると聞いている飯守の指揮も楽しみだった。そして何より、モーツアルトのハ長調の協奏曲、「ばらの騎士」組曲という曲目は何とも魅力的。
...なのだが、その期待は裏切られた。「ローエングリン」前奏曲の出だしの強奏音から、特に弦楽器群の音が、濁って、というより汚く聞こえる。何と言えばいいのだろう。金属を擦るような音。管楽器も元気良く吹いているが、一向に一つの音楽になって聞こえてこない。「おもちゃ箱をひっくり返したような演奏」とでも言ったらいいのだろうか。正直なところ、「帰ろうか」と思った。指揮者のせいか、オケのせいか? 次のモーツアルトでは、飯守泰次郎が実にモーツアルトに相応しい(上品だけどたっぷり歌う)フレージングで序奏部を聞かせ、良い出だし、と感じた。しかし、緩徐楽章や終楽章では、オケがその意図する繊細な表現にまったく応えきれない。ピアノの三輪郁は初めて聴くピアニストで、一つ一つの打鍵を丁寧に弾いていくところには感心したが、モーツアルトの詩情を表現する力が全く感じられない。なぜだろう、と思いながら聴いていたが、この人のピアノ、「音色」の違いがなく、「単色」なのだ。休憩時間にも帰ろうかと思ったが、「ばらの騎士」に期待して踏み留まる。しかし...冒頭の「ローエングリン」と同じ。ワルツのテンポなど飯守の指揮には少し感心する部分もあったけれど、全体としてはやはり「おもちゃ箱を...」。 終演後は、ブーイングも飛んでいた。ニューイヤーコンサートなのでアンコールもあったのかもしれないが、すぐにそそくさと引き上げてきてしまったのでその後のことは知りません。今晩のシティ・フィルの演奏は、プロの演奏としてはあまりにもレベルが低い。こういう演奏をしていたのでは、この楽団、もう何年ももたないのではないだろうか。
六本木通りに出てタクシーをひろったら、FM放送でベートーヴェンの弦楽四重奏の録音が流れていた。誰の演奏だかわからないが、実に素晴らしい演奏。こちらを聴いていた方がよかった。こんなにも違うものなんですね、音楽の力は、演奏によって。
1月23日(日) 新国立劇場オペラ劇場
新国立劇場 公演 (指揮:アッシャー・フィッシュ、東京交響楽団)
モーツアルト 歌劇 「ドン・ジョバンニ」
桂君が、亡くなった。 雲間に青さが覗く空なのに、細かく冷たい雨粒が、散るように舞って頬を打つ。 初台に来てみると、一昨年6月元気な頃の桂君と一緒に、オペラシティ・コンサートホールで、マーラーの第7交響曲「夜の歌」を聴いた晩を思い出す。「こうして、ナマのオーケストラの演奏を聞くのは初めてだ」と言っていた。そして、「いいもんっすね」とも。あの日の、サイモン・ラトル指揮バーミンガム市交響楽団の演奏は凄演だった。熱演という意味ではない。一音一音の緊張感と集中力の高さという意味において。その後、ラトルはベルリン・フィルの次のシェフに指名された。その夜は、初めて二人で一杯やった。その後飲む機会は多かったけれど、音楽会の方は、「また、連れてってくださいよっ」と桂君は言っていたのに、そのままになってしまった。
この日の「ドン・ジョバンニ」、聴いていたつもりだけれど、断片的でよく憶い出せない。フィッシュはこのオペラの底に流れる劇性を紡ぎ出そうとしていたけれど、東京交響楽団がそれに十分応えきれていないような気がした。でもそれは、聴いている僕自身のせいかもしれない。
昨年の3月の初め、精密検査と最初の化学治療を終えて一時退院しその報告にやってきた桂君は、「やっぱり、『死ぬ』って、怖いっすね」と言っていた。2月は「自分の死」の可能性という現実に初めて向き合い、苦悶と混沌と整理の一ヶ月であったに違いない。「死と向き合う」とはどういうことであるか、自分であったらどういうことになるか、しかし、生きている限り人はいつも死と隣り合わせだ。
考えてみれば、いつも音楽とは「死と向き合う」ことであったのだ。偏執的なまでに「死」を恐れ、「人間は死んだらどこへ行くのか」が通底するテーマであったマーラーの音楽も、そしてモーツアルトの音楽も。小林秀雄はその「モオツアルト」の中でゲオンの言葉を借りて、ト短調の交響曲や弦楽五重奏曲の、捕まえようとした途端に駆け抜けてしまう「疾走する悲しみ」(tristtesse allante)を語った。それは、生きることのありようそのものであるに違いない。だから、それ以上にモーツアルトの長調の曲たちは、どんなにあっけらかんとしても悲しく、華麗であっても静謐であり続けた。「死」を知らない音楽表現は「生命力」を持たない。死ぬことは生きることであり、生きることは死ぬことである。そのことをモーツアルトは「僕は『死』と友達だ」と言った。二人で演奏旅行中だった母をパリで亡くした失意の中で書かれたあの深く悲しい K.304のバイオリン・ソナタを経て、「人は死ぬから生きている」という当たり前すぎる事実を、当たり前に超えていたのだ。いま耳にしている「ドン・ジョバンニ」の音楽も、「放蕩な男の放蕩の果ての地獄落ち」という勧善懲悪の筋立てを借りながら、「死」によってしか定義されようのない危うい「生」の、そしてそれを知ることによって静かに「死」から自立しようとする「生」の、そのありようを響かせているように思われてならない。
1月27日(木) 東京芸術劇場
キーロフ歌劇場管弦楽団 演奏会 (指揮:ワレリー・ギルギエフ)
マーラー 交響曲 第2番 「復活」
あまりにも苛烈な「復活」であった。低弦は地響きのように軋みをあげ、金管楽器は空間を切り裂くように咆哮する。木管楽器は、はるか地平線のかなたから射す曙光のように響く。整然とした演奏からはほど遠い。オーケストラの技術も高いとは言えない。特に、管楽器群は連日の公演の疲れからか最初のうち不安定さを感じさせずにはおかない。しかし、ギルゲエフの表現意思が隅々まで一分の隙なく透徹し、手兵のキーロフ・オペラ管がそれに煽られるように弾きまくる。その意味で、これはマーラーの「復活」である以上に、ギルギエフの「復活」だ。
この曲に出会い熱中した中学生の頃から、いったいどれだけの数のこの曲の演奏を聞いてきたか、おそらく実演と録音をあわせ30種類に近いと思うが、これほどに凄まじい演奏は初めてだ。ゆっくりしたテンポでじっくりと歌いたいことをすべて歌っていくような演奏(通常80分のこの曲が90分を要した)。それが、弾きすぎにならず、また全体としてのまとまりを失わず、心の底を震わせるような説得力をもっているのは見事としか言いようがない。合唱団の音程がやや不揃いで音が濁っていたのは残念だが、二人の独唱者(マリーナ・シャグチとラリッサ・シャジコーワ、シャジコーワは当初予定のゴルチャコーワの代役)はギルギエフの表現に沿ったたっぷりとした濃密な歌唱だ。
3年くらい前(だったと思う)、NHK交響楽団に客演したギルギエフを聞いたときの「展覧会の絵」などは、同様に自分の表現意思を通す志向は強いもののそれがただの「ドンチャカ騒ぎ」に終わっている気がしたものだが、この「復活」はすばらしい。ヨーロッパへの演奏旅行でも取り上げたらしいので、自信作なのだろう。「作品に忠実に」ということの意味を取り違えた折り目正しいだけの演奏が多い中で、「自分の音楽をやっている」という意味で目を離せない(耳を離せない?)指揮者の一人だと思う。
1月29日(土) (NHK衛星第2放送 放映)
クラインドボーン音楽祭 1998
ヘンデル 歌劇「ロデリンダ」
ウィリアム・クリスティー指揮
エイジ・オブ・エンライトゥンメント・オーケストラ
土曜日の夜(日曜日の未明)にテレビの深夜放送で見たのだが、これがあまりに素晴らしかったので記憶のためにここに載せておく。ヘンデルのオペラは初めてだが、実に面白く、吸い込まれるように3時間半聴かされてしまった。バロック期のオペラとは言え、ドラマの展開はロマン派以上にリアルで迫真性がある。
そして、クリスティーが率いるこの古楽器のオーケストラの演奏のなんと瑞々しく躍動感に満ちていること。歌手陣もみな素晴らしい。古典派以降にはほとんど登場しないカストラートの役もたっぷり聴ける。舞台・演出の上品で洒落た出来も含め、イギリスのこの伝統的な(草の根?)音楽祭のレベルの高さを思い知らされた。日本の新国立劇場も、早くこのようなレベルに到達することを願いたいものだ。
1月30日(日) サントリーホール
東京交響楽団 第466回 定期演奏会 (指揮:飯森 範親)
ドヴォルザーク 序曲「フス教徒」
ドヴォルザーク チェロ協奏曲 (チェロ:アンリ・ドゥマルケット)
ベルリオーズ 幻想交響曲
チェロのアンリ・ドゥマルケットが素晴らしかった。こういう思わぬ出会いがあるから、コンサート通いはやめられない。
フル・オーケストラをバックに回して、これだけの音量と音質で向こうを張れるチェリストは、意外に少ない。日本で人気のミーシャ・マイスキーなどは、か細くて全然駄目だ(以前、エルガーの協奏曲でがっかりしたことがある)。ドゥマルケットという人、これまでまったく知らなかったが、1970年生まれで、ソリストとしてだけでなく室内楽も得意とすると書かれている。ひょっとすると内向的でアンサンブル重視のおとなしい音楽をする人なのかな、と思っていたら、さにあらず。実に朗々と、堂々と、巨匠の風格でこのチェロ協奏曲の名曲を弾いている。音の伸びやかさでは、ヨーヨー・マにも負けないと思った。是非また聴いてみたい人だ。
ただ、飯森範親指揮の東京交響楽団の演奏は、3曲を通じて感心しない。全体にリズムが鈍重で、音色に変化がない。冒頭のドヴォルザークの序曲からそう感じたが、幻想交響曲に至っては、まるでブラームスの第1交響曲でも弾くような感じでやっている(ブラームスに失礼か)。この曲のもつ色彩感が表出されず、軽やかさ、繊細さといった要素も皆無。単調なフォルテッシモがこのように繰り返されては、すぐに夢から醒めて飛び起きてしまうだろう。昨年同じ組み合わせで聴いたヴェルディのレクイエムでも同様のことを少し感じたのだが、今回はその欠点が正面に出てしまったように思う。東京交響楽団も、どうしてしまったのだろう。先日の新国立劇場のドン・ジョバンニといい、今日の演奏といい、生彩が感じられない。
2月1日(火) 東京文化会館
キーロフ歌劇場 日本公演 (指揮:ワレリー・ギルギエフ)
チャイコフスキー 歌劇 「スペードの女王」
冒頭の前奏から実に鬼気迫る演奏が展開される。第1幕は曲のせいもあって少し飽きさせるところもあるが、第2幕、第3幕と進むに従って、息もつかせない。ギルゲエフという人は、先日の「復活」の演奏もそうだが、音楽の一つ一つの表情を実に丹念に描いていく。これだけ濃密に表情をつけていくとどうしても音楽の流れが損なわれてしまいそうなものだが、そうならないところが素晴らしい。オペラの指揮ではこの長所が良く生きる。
演奏に先立って劇場の支配人(?)から、リーザ役のゴルチャコーワの降板(事故で歯が欠けてその治療が終わっていないとか)が発表され、知らなかった人からは落胆の声が上がっていた。代役のイリーナ・ゴルディは、91年ベラルーシ国立音楽学院卒業とあるからまだ若い歌い手で、声質は別としても、歌の表現力という点ではまだかなり未熟という感じ。ゴルチャコーワを楽しみにしてきた人は本当にがっかりだっただろう。ただ、ゲルマンを歌ったウラジーミル・ガルージンは伸びのある声でゲルマンの「狂気」を伝えて見事な歌唱。伯爵夫人のラリッサ・ジャジコーワも不気味な老婆の感じを良く出していたし、脇役の歌手達も含めて、この劇場の歌手陣の全体的なレベルの高さは強く印象に残った。また、複数の幕(というかカーテンというか)を使った演出も、ストーリーの持つ明と暗、聖と俗の両義性を表現し、また機敏な場面転換を実現して見事なものだった。
そう、このような訳で、この劇場の手の内に入っているといって良い「スペードの女王」という作品で、ゴルチャコーワの降板を除いては実によく出来た公演であったことに違いはないのだが、不思議に、いいオペラを見た帰り道のあの楽しい気分にはならない。プーシキン原作のこのオペラ、そしてチャイコフスキーのつけている音楽、どちらもいいんだけど、でもやっぱり、救いようがなく暗いよなぁ。イタリア・オペラになぜ人気があるのかが、よくわかる。
2月9日(水) サントリーホール
マルタ・アルゲリッチ ピアノ・リサイタル
〜
アルトゥーロ・ベネデッティ=ミケランジェリに捧げるコンサート
〜
アルゲリッチの風邪により演奏会キャンセル。前日、音楽事務所から連絡が入った。「まあ、アルゲリッチだから、仕方ないか」と納得しながらも、やはり残念。実現すれば、本当に久しぶりの(おそらく20年ぶりくらいの)日本でのソロ・リサイタルだった。
「キャンセル魔」という風評は日本に限っては当たらず、アルゲリッチの日本での演奏会キャンセルは、30年近く前、当時夫だったシャルル・デュトワと夫婦喧嘩して帰国してしまった時だけで、その後は一度もない...なんて言ってたのは誰?
2月11日(祝) NHKホール
NHK交響楽団 第1400回定期演奏会 (指揮:レナード・スラトキン)
アイブス(W.シューマン編) アメリカ変奏曲
バーバー ヴァイオリン協奏曲 (ヴァイオリン:パメラ・フランク)
コープランド 交響曲第3番
当日券がかなり出るということであったので、建国記念日の夕刻、NHKホールに散歩がてら出かけてみた。アメリカ音楽3曲という、僕にはあまりなじみのないプログラムだけれど、三連休の初日で、たまにはそういうのもいいかな、という気分だった。当日券売場の女性が「一番前の『かぶりつき』の席はどうですか?」というので、「クラシックの演奏会でも『かぶりつき』って言うのか…」と感心(?)しながら、「たまには」ついでに勧めにのってみた。センターの1列目で指揮者と独奏者を至近距離に見上げるような席。普段の席では見えない演奏者の表情が見えたり、弦楽器群のフォア・シュピーラーの人たちの音が分離して浮き出て聞こえたりして、弦楽四重奏を聴いているような感じで結構面白い。特に、協奏曲は独奏者を一人占めして聴いているようで、こういう楽しみ方もあったのか、という感じ。しかしさすがに交響曲となると、前列の弦楽器の音以外は壁の向こう側から出て頭の上を通りすぎていってしまうようで、バランスが悪くて全体としてどういう音の響きになっているのか、さっぱりわからない。
というわけで、今日の演奏についてははっきりしたことは言えないが...。ただ、バーバーのメロディアスな協奏曲も、コープランドの「陽気なショスタコーヴィッチ」(?)のような交響曲も、それぞれに僕としては楽しめた。スラトキンは、随分前にセントルイス交響楽団を率いて来たときに聴いたのと同じ印象で、曲の美点を引き出しながら音楽をきっちりとまとめていたようには思う。音楽に対してとても「真面目で」「合理的な」人なのだろう。ただ、「選曲」以外にこの人の「個性」を聴く面白さはあまりない。パメラ・フランクは、音楽にソリストらしい「華」があるタイプではない(容姿には華があります)。しかし、節度をもちながらじっくりと弾き込んでいて、若さに似合わず「渋い味わい」(と言ったら言い過ぎかもしれないけど)のある演奏をしていたように思う。室内楽などで真価を発揮するタイプではないだろうか。
プログラム・パンフレットをもらって気がついたのだが、N響の定期演奏会は今回でちょうど第1400回になっている。ことさら何も触れられていないけど、すごいですよね、これ。
2月12日(土) 東京国際フォーラム ホールC
ハンガリー国立ブタペスト・オペレッタ劇場 日本公演
カールマン 喜歌劇「チャールダーシュの女王」
前日に引き続き、天候の良さにも誘われて出かけてみた。1時間前に当日券の発売に並んで3階席の最前列の座席をゲット。
昨年この劇場の前回の日本公演(演目は今日と同じ)をテレビの録画で見た時に驚いた覚えがある。何せ本当に楽しいのだ。歌あり、踊りあり、演技あり、セリフあり、ジョークあり、でオペレッタって何て楽しいんだろうと思わせる力がある。
そして今日の公演も、本当に楽しかった。この劇場の上演を見ていると、ここに現代のミュージカルに脈々とつながる源流があることがよくわかる。オペレッタの持つあらゆる側面を生かして見る人聴く人を楽しませることに徹している。脱帽。女性指揮者のヴァラディという人も、音楽だけでなく劇進行全体のこぎみよい流れを作り出す職人。歌い手達も「歌手」という範疇に収まらない「総合演技者」達だ(残念ながら、何人か、風邪気味のように思ったけど)。
ただ...有楽町の旧都庁の跡地に作られたこのホールはひどい。3年くらい前にオーケストラの演奏会で一度来た(この時は1階席)ときにはあまり気付かなかったけれど、音が天井に抜けていってしまうようで、せっかくの熱演が十分に響いてこない。さらにロビーやホワイエがやたらに狭い。3階などは、まるで屋根裏通路のようで、休憩時間が休憩にならない。また、ロビーから3階席に行くのに、エレベーターを使わなくてはいけない...などなど、いったい、誰が設計したのだろう? 税金を使って作った新しいホールなのに、あまり使われていない(他のホールが埋まっていてやむを得ないときだけ?)のもよくわかる。
2月26日(土) 東京文化会館
二期会 オペラ 公演 (指揮:天沼 裕子、新星日本交響楽団)
モーツアルト 歌劇 「魔笛」
日本のオペラ界の裾野、というか足腰の充実を肌で感じさせる公演。よその国の文化、よその国の作品を「模倣」しているという「よそよそしさ」を抜け出て、「魔笛」という作品をほぼ「手中」にし、のびのびと「料理」して、それが不自然さを感じさせない。そういう意味で、これはもう「輸入品」ではなく「国産」であり、それも並みの「輸入品」よりはずっと上等である。
実相寺昭雄の演出は、この作品の「歌芝居」(Singspiel)としての性格を生かして自由奔放。セリフの内容も、ジョーク(というよりギャグ)を取り入れて自由に書きかえ、本物の「爆竹」(? 結構、煙が出て火薬臭もした)を使ったり、動物の代わりに怪獣(バルタン星人、ピグモンなど)を登場させたり、客席から舞台に向けて鳥(の人形)を飛ばせたり、3人の童子をゴンドラに乗せて高いところで歌わせたり(これは、海外のオペラでもよくやるが)、パパゲーノが首吊りをする「木」に人を入れて主体的に動かせたり...と、少しやり過ぎと感じさせるところもないではないが、でも全体としてはこれはこれで大成功と思う。ここまでやれば、歌は原語(ドイツ語)で、セリフは日本語というのも、とても説得力がある。
歌手では、パミーナを歌った佐々木典子が素晴らしい。陰翳を含んだ歌の表現力と質感で一頭地抜けていて、この人が出てくると舞台の雰囲気と緊張感が変わる。夜の女王の亀田眞由美も難曲をしっかりした声で歌いきって健闘。男声陣では、弁者の大島幾雄がさすがに貫禄を見せていた。ただ、タミーノの藤川泰彰は、尻上がりに調子を上げていたものの、特に前半は高音の伸びと声量が不足して、今一つ力がない。ザラストロの大沢建も、低音の力がいかにも弱い。また、重唱ではしばしばアンサンブルに乱れがあったのも残念。
前から5列目の座席だったために、オケの音は歌に負けてしまって、どうだったのか判然としない。天沼裕子の指揮はゆっくりしたテンポで(ショルティやカラヤンではなくベームのようなテンポで)モーツアルトの調べを歌わせようという意図が見えて好感が持てたが、やはりところどころ緩みが出て間延びしてしまう(第2幕のパパゲーノのアリアなど)のは...仕方がないのかな。
3月1日(水) Bunkamuraオーチャードホール
NHK交響楽団 第9回 オーチャード定期 (指揮:マイケル・スターン)
ロッシーニ 歌劇「アルジェのイタリア女」序曲
シベリウス バイオリン協奏曲 (バイオリン:渡辺 玲子)
ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」
渡辺玲子が鮮やかにシベリウスを弾いた。確かまだ30歳くらいだと思うのだが、自分の意思のびくともしない表現、一音一音の力強さと粒立ち、輝かしい音色、確固たるテンポ感、等の点で、既に世界の超一流と比べて勝るとも劣らない実力と思った。僕の近いところの記憶では、昨年聴いたギドン・クレメル(ヤンソンス指揮ピッツバーグ交響楽団)の同曲の名演に劣らない。細密な表現やその濃淡などの点で不満を言う人もあるかもしれないが、「演奏の背骨」が揺るぎなく通っているので、こうした点はじきに自然に解決されてしまうに違いない。僕も圧倒されたが、スターン指揮のN響も、渡辺玲子に何とか「一生懸命つけて行く」という演奏になっていた。
マイケル・スターンはこれまで全然知らない指揮者だったが、パンフレットを読むと、あのアイザック・スターンの息子だということだ。個々の場面場面では明快で瑞々しい音楽表現に感心させられるところもあったが、楽曲全体としてのメッセージの把捉が弱く、聴後に感銘が残らない。ロッシーニもあのクレッッシェンドの快活さが表現しきれていないし、シベリウスでは渡辺玲子に付けていくのがやっとという感じ。ベートーヴェンでは、英雄(ヒロイズム)の「若々しい」側面は感じさせても反面の「哀愁」はまったく漂ってこない。それは彼の意図であるのかもしれないが、そうであるとしても成功しているとは思えない。リズムの「叩き」が明確でないのだろうか、N響のメンバーも弾きにくそうに見えた。それでも、特にベートーヴェンがまとまった演奏になったのは、N響の実力というべきだろう。オーボエを吹いた北島さん、ホルンの樋口さんの音が、この曲の「ヒロイズム」を響かせて印象に残った。
3月2日(木) 紀尾井ホール
マルク=アンドレ・アムラン ピアノ リサイタル
J・S・バッハ フランス組曲 第5番 ト長調
バッハ(ブゾーニ編) シャコンヌ
リスト バッハの主題に基づく幻想曲とフーガ
レーガー バッハの主題による変奏曲とフーガ
驚くべきピアニストだ。ピアノという楽器が、これほどまでに多様性を持っていることにあらためて気付かされ、驚愕させられる。僕はそれほどピアノ曲を聴く方ではないのでフランス組曲とシャコンヌ(ヴァイオリンの原曲の方)以外は初聴だが、「あっけにとられて」いるうちに終わってしまった。機械のような精巧さで、どのような早く複雑なパッセージでも弾き切ってしまう。しかも、どの音も強靭、というか「揺るぎない」確かなタッチである。かと言って、決して「機械的な」演奏ではない。ただ、「繊細」とか「華麗」とか何とか、特定の形容をすることも難しい。「自在さ」、と言えばいいのだろうか。技術は勿論飛びぬけてすばらしいのだろうけど、それだけではなくて、それがピアノという楽器の表現の可能性やこの人の表現意思と見事に一体となった「自在さ」で、聴き手を圧倒してしまうピアニストだ。ただ、ただ、感嘆。
3月4日(土) サントリーホール
東京交響楽団 第467回 定期演奏会 (指揮:秋山 和慶)
ラッヘマン 歌劇(場面付音楽?) 「マッチ売りの少女」 (演奏会形式、日本初演)
凡人の理解を超えた作品。座席が奥の方だったので帰ることもできず、途中から寝ることにした。「演奏会形式」でなかったならば、まだ少しは違ったかもしれないが、僕の貧弱な感覚では、ただこの不可解な音の羅列(すみません!)の中に110分間身を置くのは苦痛である。
パンフレットの解説によれば、「ラッヘマンの創作は、常にすでに制度に馴化された<耳>への反逆によって成り立っており、慣れない演奏法や聴き慣れない音を、どのように聴くかという問いかけとして行われている。(中略)その具体的な作業は、従来の楽器の音をどのように<異化>するかという一点にかかっている。あらゆる楽器の音は、作曲史や聴く習慣のなかですでに歴史的な意味を帯びているから、それを異化するためには、もともとの歴史的文脈に精通していなければならない。」とある。確かに、音楽とは、たとえば<形式>という枠組の中での表現、言い換えれば<形式>からの差異による表現であると言うこともできるだろう。その意味では、内部の論理構造自体が表現そのものであり、その内部からの逸脱や内部構造の破壊が音楽表現の進化の源であるということもまた真実ということになる。しかし、根源的・始源的にも、音楽は宙に浮いた<形式>として、そこにあったのだろうか? 初めて音を聞いた人間の感官の機能自体が、既にある種の<感覚形式>の下にあったのだろうか? それは、「なぜ、そこに音楽があるか?」という問いに答えを与えうるものなのだろうか?
3月6日(月) サントリーホール
読売日本交響楽団 第381回 定期演奏会 (指揮:スタニスラフ・スクロバチェフスキ)
モーツアルト ピアノ協奏曲 第23番 (ピアノ:マルク・ラフォレ)
ブルックナー 交響曲 第9番
ブルックナーの最後の(未完の)交響曲である第9番は、僕の一番好きな曲の一つだ。今年はこの曲の演奏が多く、7月までに今日を含めて3回分もチケットを買ってしまった。スクロバチェフスキのブルックナーは何曲かCDで聴いて感心し、去年の1月NHK交響楽団に客演して第7交響曲をやるのを聴きに出かけた。雄大さと繊細さを兼ね備えた実に魅力的なブルックナーだと思った。
今日の第9番の演奏を聴いても基本的な印象は変わらない。出だしから「ただ流している」ように感じられるところが微塵もなく、テンポや音の表情づけに、彼自身の表現意思が隙間なく感じられる。それでいて、それが実にブルックナーの音楽にマッチしているのがすばらしい。たとえばブルックナー特有のゆっくりした旋律をたっぷりとメロディアスに歌わせても、それは上品な美しさを持って響き、決して過剰になることがない。基本的に音が明るいのも、この人のブルックナーの特徴だろう。弦楽器と管楽器の音量のバランスが、他の人よりも、やや弦楽器に寄っているようにも感じる。結果として、とても透明感のある響きがつくられる。その意味では「軽量級」のブルックナーということになるのかもしれないが、決して音楽として「軽く」はならず、瑞々しさがほとばしりながらも節度ある清潔な音楽が紡ぎ出されていく。それがこの人独特のブルックナーの表現となる。
しかし、こうした長所は昨年のN響との第7の時の方が、もっとよく表われていた気がした。第7と第9という曲の性格の違いにもよるのかもしれないが、今日のスクロバチェフスキのテンポの動かし方やメロディの歌わせ方には、僅かな違和感がないではない。そう、第7では程よく「美しい」と感じさせた音の響きも、第9だと「豊饒」に感じてしまうところがある。個人的な好みかもしれないが、第9ではもう少し「厚く重い響き」や「白い音色」が欲しいと感じるのは、僕だけだろうか。金管楽器がミスが目立ち、ヨタヨタする場面が多かったのも、こうした印象の原因かもしれないが。
前半のモーツアルトは、ラフォレ自身の繊細な表現意欲に彼の指がついていっていないように思われた。この人の音は、ツィメルマンやミケランジェリのようにとても輝きのあるきれいな音だ。しかし、彼が意図して微妙で繊細な表現をしようとした(と見えた)途端に、残念ながらその響きが失われる。今日は調子が万全ではなかったのかもしれないが...。ただ、スクロバチェフスキ=読響のバックは、とてもよかった。ブルックナーだけでなく、スクロバチェフスキのモーツアルトの交響曲も是非一度聴いてみたいものだ。(スクロバチェフスキは、今年の年末、N響でベートーヴェンの第9を振ることが発表されている。これも楽しみ。)
3月18日(土) 東京文化会館
藤原歌劇団 公演 (指揮:アラン・ギンガル、東京フィルハーモニー交響楽団)
ヴェルディ 歌劇 「椿姫」
マリエッラ・デヴィーアの歌唱が光る。ピアニッシモの美しい声と繊細な表現が見事。彼女のヴィオレッタは、薔薇のようなヴィオレッタではなく、まさにすみれのような清楚なヴィオレッタだ。アラン・ギンガル指揮の東京フィルも、弦楽器と木管楽器群を中心に、ほんとうに柔らかく透き通った美しい響きだ。この両者が相俟って、この「椿姫」は、外面のドラマティックな展開よりも、内面の心理劇としてむしろ淡々と描かれていく感じを与える。それが終幕のヴィオレッタの死の場面に至り、その死の瞬間が、外から(アルフレートや、観客である我々の視点から)見た死ではなく彼女の内面の世界から描かれるという、見事な演出効果に帰結していく。そうしてみると、このオペラ全体が、出来事の展開というよりも、彼女の心の中の一塊の想念であるのかもしれないと思わされる。それが、デヴィーアを中心としたこの日の演奏のゆえか、ヴェルディの意図そのものであったのか ? いずれにせよ「悲しみ」や「涙」ではなく、透明で清らかな聴後感を残す演奏となった。それにしても、一点の濁りもない、なんと美しい透明な音楽なのだろう。「椿姫」って、こんな音楽だったかな、と驚いたのは僕だけだろうか。
アルフレートを歌ったオクタヴィオ・アレーヴァロは、これはという大きな不満は感じさせないが、小さくまとまって、もう一人の主役という存在感は薄い。一方、ジェロモンの折江忠道(風邪でキャンセルのダヴィデ・ダミアーニの代役)の、感情を強く出しすぎないその落ち着いた歌唱は、結果的になにか劇進行のナレーターとでも言えるような役割を果たしたと感じたのだが...。してみるとそれらが、意図してか意図せずしてか、今日の上演の性格をかなり決定付けたと言えなくもないか。
脇役の中では、アンニーナを歌った竹村佳子の声質・演技(スザンナやデスピーナが似合いそう)が印象に残った。
3月31日(金) サントリーホール
東京交響楽団 第468回 定期演奏会 (指揮:ダニエル・オーレン)
メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲 (ヴァイオリン:コー・ガブリエル・カメダ)
マーラー 交響曲 第1番 「巨人」
4月6日(木) NHKホール
NHK交響楽団 第1403回 定期演奏会 (指揮:エリアフ・インバル)
マーラー 交響曲 第2番 「復活」
インバルの「復活」は、僕の音楽との出会いの曲の一つだ。1974年のフランクフルト放送交響楽団との「復活」がNHK-FMで放送されたのを聞いたときの衝撃は今でも忘れられない。中学2年生の夏休み、それに明け暮れ、粗末なカセット・テープは擦り切れた。
1980年代からインバルはしばしば来日し、特に東京都交響楽団を指揮してマーラーの全曲演奏を行ったり、NHK交響楽団でも何曲かマーラーを指揮したのを聴いてきた。この人のマーラーは、(たとえば同じユダヤ人であるバーンスタインのそれと比較して)しばしば理知的・現代的と言われる。確かに仔細な研究を踏まえた音楽解釈の確かさや斬新さは、この人のマーラー演奏の評価を高めた要因であるに違いない。しかし、それにも増して僕はこの人のマーラーに、マーラー独特の「ふし」が染み込んでいるのを覚える。それは、マーラー特有のあの旋律の歌いまわしだけに留まらない。笑っていたものが突然泣き出し、まじめに考えているかと思うと突如おどけてみせる、というような分裂病的な(と言われる)マーラーの音楽の展開そのものの「ふしまわし」が、自然に染込んでいるのだ。バーンスタインやテンシュテットのマーラーには、局面ごとの表現には鬼気迫るものがあっても、全体としてみたときにどうしても凹凸や濃淡ができる。その意味では、どうしても演奏者がマーラーの一歩前に出てしまうような気がするのだ。が、インバルのマーラーは、その展開そのものの「ふしまわし」を、鮮明に自然に聴かせる。これが、ただ理知的・現代的なマーラー(たとえばアバドのそれ)とインバルのマーラーを明確に隔てる点だと思う。従って(と思うのだが)、インバルのマーラーが他に比べて飛びぬけてすばらしいのが、この第2番と第3番(もう一曲加えるとしたら第5番)だ。マーラーが、書きたいことがたくさんあって一曲の中にそれがなかなかうまく詰め込めなかった頃のこれらの巨大な作品は、後期の作品群のような安定的な座りの良い構造を持っていない。そのために、部分的にマーラーらしくあっても、それが自然に全体としてマーラーらしくあることにはならないのだ。それがインバルの手にかかると、曲全体の「ふしまわし」に「マーラー」が聞こえる。マーラーの歓喜や憧憬や畏敬や苦悩や諦念や畏怖やら、それらが一体となったマーラーが聞こえてくる。
今日の演奏を聴きながら、インバルの「復活」もこの25年の間に変わったと思った。以前に比べると、劇的な展開は後退し、慈しむような歌が聞こえる。第1楽章のテンポなどは、かなりゆっくりしたものになったのではないかと感じる。結果として、静謐さと激震のコントラストは拡大した。そして、2楽章から3楽章にかけての表現は、馥郁としたものになった。それは、結果的にマーラーの哀歓をたっぷりと表現する。4楽章を経て長大な5楽章の終曲に至るプロセスは、以前に比べればそっけないと感じさせるほど、淡々とした展開になった。しかし、そこには静かな「祈り」が聞こえるような気がする。全体を通してみると、相変わらずそこには「マーラー」を聞かせるインバルの「ふし」は健在だ。ただ、若い頃からマーラーを振って理知的・現代的と言われてきたこの指揮者も60才代半ばになり、彼自身のマーラーへの個人的な愛着や共感が、ふっと行間に滲み出した、そんな演奏になった気がした。
4月8日(土) 東京芸術劇場
東京都交響楽団 「作曲家の肖像」vol.34 (指揮:ガリー・ベルティーニ)
メンデルスゾーン 劇音楽「真夏の夜の夢」(半田美和子Sp. 林美智子Ms.)
メンデルスゾーン 交響曲第4番「イタリア」
東京都交響楽団が間違いなく日本最高のオーケストラの一つであることを示す、見事な演奏。ベルティーニが音楽監督に就任してちょうど二年。その成果を顕著に示したものと言えると思う。
前半の「真夏の夜の夢」の出だしから、弦楽器・管楽器共にほんとうに柔らかくしなやかな音で、メルヘンの世界にすっと吸い込まれる。オケの編成は(後半の「イタリア」までずっと)14型で、アンサンブルにほとんど乱れがなく、実に繊細な表現がそこから紡ぎ出される。何と言えばいいだろうか。音楽がほんとうに軽やかに自由に宙を舞っているようだ。それも平均台の上を舞うような微妙な均整を保った舞だ。その微妙さがまた、「夢」ゆえの危うさを感じさせる。この曲を演奏するに際してのベルティーニの狙いが貫徹され、それが見事に成功している。前半終了時に、珍しく圧倒的な「ブラヴォー」が飛び交う。
後半の「イタリア」も、(特に2楽章以降の)引き締まった演奏が見事。この曲の性格が「明るい」とか「開放的」とか言う通常の形容を超えて、弱冠20才のメンデルスゾーンの初めてのイタリアへの旅が、実はメルヘンの旅であったことに気付かされる。ここにも、ベルティーニの今晩のプログラム・ビルディングの密かな狙いが窺われる。桜舞う春の夜に、心にくいばかりの「夢」の演出であるように思った。
4月16日(日) 新国立劇場オペラ劇場
新国立劇場 公演 (指揮:若杉 弘、新星日本交響楽団)
R・シュトラウス 楽劇 「サロメ」 (Bキャスト)
「サロメ」を劇場で観るのは2回目だ。小沢征爾と新日本フィルが、ヘネシー・オペラ・シリーズで取り上げたのを観てから、もう10年くらいになるだろうか。あの時のサロメはエヴァ・マルトンで、堂々たる歌唱だった記憶はあるものの、上演全体としてはあまり感銘を残すものではなかったように思う。
しかし今回は、この作品の真価に触れたような気がした。この一幕もののオペラ、ストーリーの構成は簡潔であるのだが、その中にまるで「間奏曲を挟む4楽章の交響曲」のような引き締まった構造で、ドラマティックな場面の変転が収められていることが浮き彫りにされる。あるいは、この作品は実はシュトラウスの交響詩群の延長線上にあるのではないかと思わされてしまう。若杉弘指揮の新星日本交響楽団は、新国立劇場ではこれまで見たことのないような大編成(よく数えてみなかったが、おそらく14型)で、歌手の伴奏に回るといった感じがなく、シュトラウスの精緻な管弦楽をホールいっぱいに響かせる。サロメ役の緑川まりをはじめ、歌手たちもオーケストラに負けない歌いっぷりで、両者が相俟ってシュトラウスの音の饗宴を現出させる。故エヴァーディング演出の舞台も、その変転を描くに十分なまとまりと柔軟性を兼ね備えたものだ。
オール日本人キャストの歌手陣も実力を発揮して見事。特に緑川まりは、声量、安定感、そして何よりサロメの(狂気というよりは)「女の思慕と情念」を表出して、正統派ソプラノとしての豊かな才能を示していたと思う。「踊り」も含めて相当な苦労と緊張だったのだろう、カーテンコールに出てきた際に、思わず涙を拭う姿が見られた。ヨハナーンの小森輝彦は張りと伸びのある声で立派な歌唱、ヘロディアスの小山由美、ナラボートの井ノ上了吏、小姓の杉野麻美、それぞれに好演だったと思う。ヘロデ役の田口興輔だけは、やや枯れた声で不似合いに思ったけれど。そして、指揮の若杉弘も、緑川まりと並んで、この日の最大の「ブラヴォー」を浴びていた。
4月17日(月) 新国立劇場オペラ劇場
新国立劇場 公演 (指揮:若杉 弘、新星日本交響楽団)
R・シュトラウス 楽劇 「サロメ」 (Aキャスト)
前日に続いて、海外から招聘した歌手を中心としたAキャストを観に出かけた。同じ舞台、演出、指揮者、オーケストラではあるが、印象は、かなり変わるものだ。印象をがらりと変えたサロメ役を別とすれば、ヘロデ役(ヨーゼフ・ホプファーヴィーザー)を除いて、すべて歌唱の点では昨日のBキャストが優っていたし、音楽の全体的な出来で言っても昨日の方がよかったように思う。
そのサロメ役だが、シンシア・マークリスは、この役が十八番であちこちの歌劇場でかなり歌っているらしく、「堂に入った」歌と演技だ。緑川まりと比べると、前半ははるかに緑川の方が良く、期待外れに思っていたら、後半、ヨハナーンの首をねだり、さらに首を落として以降の迫真の歌と演技は、完全に手の内に入ったすばらしいものだった。マークリスの歌唱も演技も、全てその頂点に向かって計算されていたことがわかる。緑川の歌がサロメの「女の心の中に潜むもの」を心の内から表現しようとしているとすれば、マークリスは「心の中に潜むもの」を「異物」として取り出して聴かせる歌であるように思った。どちらもすばらしい歌唱だが、それにしても随分と違ったサロメ像になってしまうものだ。
劇としてみれば、マークリスの方が容姿もサロメに相応しく、演技の点でもサロメになりきっていて、こちらの方が普通に想起されるサロメ像に近いのだろう。「七つのヴェールの踊り」では台本通り、すべてのヴェールを脱いでいって本当に裸になってしまった。それが話題になってスポーツ新聞にまで取り上げられたらしい。舞台のスナップは、新国立劇場のHPでも見ることができる。
http://www.nntt.jac.go.jp/frecord/opera/1999~2000/sarome.html
4月18日(火) サントリーホール
東京交響楽団 第469回 定期演奏会 (指揮:飯森 範親)
マーラー 交響曲 第3番
飯森範親の熱演。この人も、マーラーに並々ならぬ共感を抱いているらしいことがよくわかる。前半は、細部に思い入れが入り過ぎて曲の流れが分断されるところが多かったが、後半になるに従い、それと曲想が一致していい演奏になっていったように思う。特に、第3楽章があれだけ生命力に満ちていきいきと表現された演奏はこれまで聴いたことがなかったし、何と言ってもマーラーが書いた最も美しく感動的な楽章の一つである第6楽章は、繊細な表情の線を丁寧に折り重ねて見事な表現になっていた。こういう演奏になると、この楽章は涙なしには聴けない。
ただやはり、このコンビの演奏でいつも感じることだが、音のダイナミクスが大きい方に偏り過ぎているように思う。「これでもか、これでもか」と重くなり過ぎて単調になり、コントラストの妙が生きてこないのだ。これだけは、やはり残念だ。
第4楽章はマルタ・ヴェニチャコヴァの歌唱が独特の「土臭さ」を感じさせるような声質と表現で、これも新鮮な印象を受けた。「天の神」ではなく「地の神」のような、こういう表現が、本来この曲には相応しいのかもしれない。
4月23日(日) サントリーホール
東京都交響楽団 第284回 プロムナード・コンサート (指揮:ガリー・ベルティーニ)
ブラームス ハンガリア舞曲 第1,5番
ショパン ピアノ協奏曲 第2番 (ピアノ:梯 剛之)
ブラームス 交響曲 第2番
春のとても爽やかな日曜の午後、演奏もそれに相応しい爽快なものだった。ベルティーニの指揮する都響を今月2回聴いたが、ほんとうにこのコンビの充実ぶりを示して余りあるものだ。
このコンビの作り出す音楽の最大の美点は、緊密なアンサンブルとそこから生まれる鮮度の高く引き締まった響きだ。ブラームスをやっても、決して音が重くなり過ぎることがない。重厚さを好むブラームス好きの人からすれば不満が残るのかもしれないが、ブラームスが書いた各声部の魅力が余すところなく、そして過不足なく表現され、それらが室内楽的な緊密さで結びついて軽快な響きがつくられていくのは実に見事だ。そう、切ったら水滴がほとばしり出る若草のような、そんな新鮮な響きがする。ブラームスの4曲の交響曲の中でも、この第2番がそんな表現にもっとも相応しい曲であるに違いない。
盲目のピアニスト、梯剛之は、いつものように「危うさ」と背中合わせのような繊細なピアニズムで、「静かな独白」のようなショパンを弾いて、喝采を浴びた。その悠揚たるテンポと自由なテクスチュアは、協奏曲というより独奏曲を弾くような表現だったが、ベルティーニと都響が、それを優しく包み込んでつけていくような、そんな演奏になった。
5月7日(日) NHKホール
NHK交響楽団 特別演奏会 (指揮:チョン・ミュンフン)
ビゼー 歌劇「カルメン」より前奏曲
サン・サーンス 序奏とロンド・カブリチオーソ (ヴァイオリン:樫本大進)
ブルッフ 「コル・ニドライ」 (チェロ:ジャン・ワン)
ヴェルディ 歌劇「椿姫」より「ああ、そはかの人か」 (ソプラノ:スミ・ジョー)
マーラー 交響曲第1番「巨人」
大型連休の最終日、少々お祭り的な演奏会である。NHK放送75周年事業の一つとして、出演者はアジア人だけで固められた。21世紀は、音楽界も「アジアの時代」だ、というメッセージらしい。しかし、指揮者のチョンをはじめ、出演のソリストはみな既に国際的な名声をヨーロッパで得た人たちばかりで、それをもって「アジアからの風」と題されているのも何か違和感がなくはない。
いずれにしても、前半に登場した3人のソリストたちは、それぞれに実力と個性を示した。樫本大進は、伸び伸びとした演奏表現が将来の大器を予感させるし、ジャン・ワンもとても叙情性豊かな音色を響かせた。そして、何と言っても、スミ・ジョーの歌唱は、完成したコロラトゥーラ・ソプラノの技巧と安定感が見事だ。
期待のチョン・ミュンフンの指揮は、半分期待通り、半分期待外れ、と言ったところだろうか。とても個性的なマーラーで、音量の振れ幅も、テンポの振れ幅も、ともにたいへん大きい。ところどころ、大きくテンポを落として、たっぷりとメロディアスに歌わせたりする。ここまでやると、ちょっと入れ込み過ぎで過剰な表現になりがちなものだか、そうならずにそれぞれの場面が大変魅力的な表現になるのは、チョンの美点だろう。ただ、マーラーの音楽とはそぐわず、部分としての面白さは感じさせても、全体としての把捉力が弱いように思った。これは、以前彼の指揮でブラームスの第1交響曲を聴いた時にも抱いた印象だ。
N響もコンサートマスターを二人重ねた18型の編成で臨んではいたが、一方でホルンとトランペットでは首席奏者を欠いていて、大事なところで音の安定感が感じられない。幕の内弁当のようなプログラミングのせいもあるだろうが、顔見せ/お披露目公演のような印象が終始拭えず、音楽を聴く感動をもたらす演奏会とはならなかった。
5月12日(金) 新国立劇場オペラ劇場
新国立劇場 公演 (指揮:アラン・ギンガル、新星日本交響楽団)
マスネ 歌劇 「ドン・キショット」
ブラヴォーとブーイングが半々に飛び交う、賛否両論の公演となった。僕自身も同様の感想で、それには楽曲と演奏の両面にわたって、幾つかの要因があると思う。
全曲版は日本初演と謳われているマスネのこのオペラ、ストーリー自体は「ドン・キホーテ」(ドン・キショットは、フランス語読みらしいです)のおなじみの話だけれど、マスネの付けている音楽は全曲を通してとても叙情的で繊細なメロディの音楽だ。出だしのチェロの独奏からして、その魅力的な旋律に惹きつけられる。しかし、そうした基調は結果的に最後まで変わらずに続くことになる。全5幕で演奏時間が約2時間(今回の公演では、2幕と3幕の間に休憩が挟まれた)という構成も、話を要約し要所要所だけ取り出してセンチメンタルに聴かされるような、そんな性格を強めているのではないだろうか。終わってみれば、確かに第4幕から終幕にかけて感動的なのだけれど、何か「さあ、感動しなさい」と(計算された)メロドラマを見せられたような、そんな印象を残さないではない。オペラの組み立てなんてみんなそんなもの、と言われてしまえばそれまでだが、それにしても何かいかにも「仕立てられた筋書き」のようで、この話が持っているはずの感情と想念(パトスとエトス)の起伏が十分に伝わってこないように思うのだ。
このオペラを得意にしているというルッジェーロ・ライモンディの演技と歌唱も、そのように感じさせる大きな要因だったかもしれない。堂に入った落ち着いた歌唱なのだが、ドン・キホーテの夢想、狂信などの側面が伝わってこないために、特に前半では、ドン・キホーテがただの「人の良いおじさん」にしか見えない(聞こえない)。さすがに第4〜5幕での威厳ある表現は見事なのだが、そこに至る変転が聞こえなければ、このオペラ、面白くないのではないだろうか。
ピエロ・ファッジョーニの演出も1982年にヴェネツィアで初演されたものというから、名舞台とされているものなのだろうが、舞台上の劇(14世紀末)を鑑賞している人々(19世紀末?)が更に舞台上の後方上部に配されており、「劇中劇」のような設定になっているのだろうが、このあたりの意図はよく理解できないままだった。
一方、ドゥルシネを歌ったマルタ・センはすばらしい歌唱で、役の個性と情念とをよく表現していたし、サンチョ・パンサを歌ったミッシェル・トランポンも声はいまひとつに思ったがやはり役づくりはとても巧み。そして、何よりアラン・ギンガルの指揮は3月の「椿姫」に続いて曲の魅力をたっぷりと、しかし自然に引き出して見事。この人は本当に透明感のある音づくりをする人だ。新星日本交響楽団もよくついていっていたと思う。ただ、そうして部分部分が美しく表現されるだけ、全体を聞き終えたときに単調な印象が残ってしまうのは、やはり、ヴェルディとマスネの曲の差なのだろうか。
5月13日(土) サントリーホール
東京都交響楽団 第285回 プロムナード・コンサート (指揮:ジャン・フルネ)
ビゼー 交響曲第1番 ハ長調
ファリャ 交響的印象「スペインの庭の夜」 (ピアノ:熊本マリ)
ファリャ バレエ組曲「三角帽子」第2番
フルネという指揮者は、もう随分前からしばしば来日して日本のオケを指揮してきたという記憶があるが、なぜか僕自身はこれまで一度も聴かずに来てしまった。しかし今日は、そのことを、とても後悔させられた。ほんとうに「音楽性」のある人というのは、こういう人のことを言うのだろう。全体的に悠揚たる(しかし遅く重たいわけではない)テンポで端正で自然な表現、無理をするところがなく曲に歌わせるという感じ。そう、普通にやっている(ように感じられる)だけなのに、音楽の隅々まで生命力があふれる。
前半のビゼーが白眉。若き(17歳の)ビゼーのこの曲が、これほど魅力的な曲であることに腰を抜かすほど驚いた。やはり若い頃のモーツアルトの天衣無縫な快活さに共通するところが感じられる。後半のファリャの曲は、個人的には好きにはなれないけれど、やはり演奏はすばらしかったように思う。
ただ、熊本マリのピアノは、いかにも弱い。CDなどで独奏曲を聴くと魅力的な表現や音色で楽しませてくれるのだが、舞台でオケをバックにとなると、表現のレンジがとても狭く感じる。曲のせいもあるのだろうが、オケの中の一楽器(パート)という域を出ない。以前ガーシュインを聴いた時と同じ印象だ。
5月21日(日) 東京オペラシティ コンサートホール
東京フィルハーモニー交響楽団 「大町のブルックナー vol.1」(指揮:大町陽一郎)
ブルックナー 交響曲 第4番「ロマンティック」
前半にパイプ・オルガン演奏によるバッハの「トッカータとフーガ」が置かれ、後半の演奏前に大町陽一郎自身による曲目の解説が(オケに実際に音を鳴らせながら)行われた、珍しい演奏会。全曲中の各場面が何を表現しているのか、という解説はそれなりに面白かったのだが、このようなややオタク的(?)な設定の演奏会にやってくる聴衆は、かなりの部分が「ブルックナー好き」の人たちであることを考えると、そもそもこうした解説が必要なのかどうかには疑問が残る。
演奏はかなり早めのテンポ、全体として明るく快活な基調で、大町が(自身の解説の通り)この曲を南ドイツの森林の情景描写による「標題音楽」的なものとして解釈していることがよく分かる。それにしても、ずいぶんとさっぱり、あっさりしたブルックナーである。しかし、それが過ぎる、というのが正直な感想だ。この人のブルックナーの音には、ブルックナーが自然の中に見ていたであろう「神」が感じられない。ブルックナーは風景を描いていた訳ではなくて、それを通してそこに宿る「神」(あるいはそれを前にした人間の畏怖と敬虔な心情)を音化しようとしていたはずだ。この演奏には、それを感じさせる(決定的な)「何か」がない。
今日は第4番だからこういう解釈だったのだろうか? 7月に予定されるシリーズ第2回の第5番には、「標題音楽」的な要素は全くなく、そういう意味ではもっと抽象的な音楽だ。大町にとってブルックナーはどういう音楽であるのか、7月を聴いてみるのが、楽しみでもあり不安でもある。まさか、第5番は「教会の情景を描いた」なんて、言わないでしょうね??
5月25日(木) NHKホール
NHK交響楽団 第1408回 定期演奏会 (指揮:朝比奈 隆)
ブルックナー 交響曲 第9番
朝比奈隆のブルックナーを(実演で)聴くのは、もう20回目くらいかもしれない。この9番だけでも(記憶しているだけで)3回目だと思う。最初に聴いたのは20年くらい前、大学生の時だった。朝比奈のブルックナーと言えば、ファンの間では言葉を要しない。92歳、今や世界最長老の指揮者。普通なら70分に及ぶこの大曲を、立って指揮しているというだけで驚異的だ。では、演奏は? いいとか悪いとか、テンポや音色がどうだとか、そういうものを超えた世界だ...今やそう言わなければならないのだろう。
この日の演奏がどうだったのか? これも何とも言えない。音の鳴らせ方、これはいかにも「がさつ」だ。テンポも重たい。オーケストラも戸惑い気味だ。だがしかし、その中にほんとうに(この人でなければ聴けない)ブルックナーらしい表情も随所に顔を出す。「これがブルックナーだ」と思わされる。第1楽章の出だしは、今まで以上にゆっくりしたテンポで始まる。まさに霧のような静寂の中から音楽が現れる。「このままこのテンポで?」と思っていると、意外にダイナミックにそれを変化させていく。第2楽章のスケルツォはいつも通り無骨な表現だ。第3楽章のアダージョは、一つ一つの楽節をゆっくりと丹念に音楽の構造通りに再現するようなやり方で、これもいつもながら「解体」ぎりぎりの微妙な線上での表現に感じられる。
聴き終わってみて、過去の記憶に焼き付けられたこの曲の(朝比奈の)演奏のパレットの上に今日奏でられた音の絵の具を一つ一つ載せるように聴き通した自分に気付く。今日の演奏が、新しいパレットを記憶に刻み付ける演奏にならなかったのは、演奏のせいか、僕のせいか? いずれにしても、僕にとって新しい感銘を受ける演奏ではなかったと言わなければならない。朝比奈のブルックナーを初めて聴く耳には、今日の演奏はどのように響いたのか? それは、定かではない。
5月28日(日) サントリーホール
東京交響楽団 第470回 定期演奏会 (指揮:秋山 和慶)
エルガー 弦楽セレナーデ
ヴォーン・ウィリアムズ バス・テューバと管弦楽の協奏曲
ウォルトン オラトリオ 「ベルシャザールの饗宴」
5月31日(水) Bunkamuraオーチャードホール
NHK交響楽団 第10回 オーチャード定期 (指揮:アラン・ギルバート)
武満 徹 弦楽のためのレクイエム
シューマン ピアノ協奏曲 (ピアノ:伊藤 恵)
ブラームス 交響曲 第4番
6月1日(木) 神奈川県民ホール
小沢征爾 オペラ・プロジェクト T
モーツアルト 歌劇 「フィガロの結婚」(小沢征爾音楽塾オーケストラ/合唱団)
小沢征爾を聴くのは、何年ぶりになるだろう。今日しばらくぶりに聴いて、小沢征爾の音楽もずいぶん変わったな、と思った。どう、変わったか? 音楽の上で、ほんとうにやりたいことをやるようになった、そう感じたのだがどうだろうか? 小沢征爾は、僕にとっては、実演で感銘を受けることが少ない指揮者だった。彼の作り出す音楽は、いつも活き活きとしていて新鮮だった。躍動感に満ちていた。それが、ヨーロッパやアメリカで彼の音楽が評価を受けた一つの大きな理由だっただろうと思う。ただ、そうした彼の表現の中心に、何かぽっかり穴の空いたような、空洞があるような、そんな印象を受け続けてきた。小沢征爾というひとりの人間の「魂」とその「音楽表現」とが、何か一致していないような、ズレがあるような、そんな感じ、と言い換えてもいいかもしれない。
今日の小沢は「フィガロ」の快活な音楽を、どちらかといえばしっとりとした落ち着いたテンポで鳴らせ、そして一人ひとりの登場人物の心情を綿々と、切々と描いていく。小沢自身がこの「音楽塾」の狙いを「若い演奏家たちに、音楽の技術の先にあるものを伝えたい」と語っていたけれども、一方いつだったか、それこそ10年以上前に、ピアニストのアルゲリッチのことを取り上げて「あの自由奔放な表現の裏には、他の人の何倍にも及ぶ練習による技術的な裏付けがある」という主旨のことを語っていた時との、心境の対照にふと思い当たる。今日がこのシリーズの初日ということもあってか、出だしこそ少しばかり堅さが残って音楽の足取りが重く感じられたところもあったが、第2幕の中盤以降は登場人物たちの心理とその交錯に深く分け入った表現が際立ち、息もつかせないような展開になった。第3幕の伯爵と伯爵夫人のそれぞれのアリアはその白眉であったろう。男と女の、他愛なくも永遠に繰り返される関係の機微が、かくも慈しみ深く切なく描かれるその表現は人の経験の奥底のところを共鳴させる。しかし(それでも)、これは「オペラ・ブッファ」だ。笑いの中に人間の本質的な悲しみがほろりと滲み出る。他愛なきけれども大切なこと、この両義性の谷間にある人間の思いの深さ、そしてそれへの愛着。30歳を過ぎたばかりのモーツアルトがこれだけの音楽的洞察力を備えていたことには今更ながら驚かされるが、今日の小沢はその表現意思の根っこにおいて、そのモーツアルトの洞察から足し算も引き算も必要としない場所に立っていたと僕は思った。
歌手陣は、それぞれの個性を示しながら全体的に高水準を保って見事。オラフ・ベーア(伯爵)、クリスティン・ゴーキー(伯爵夫人)、ジェラルド・フィンリー(フィガロ)は、それぞれ役の心理を過不足なく表現していたと思うし、ヌッチア・フォチレ(スザンナ)は、ほんとうに「賢くて少し慌てんぼうで愛らしい」スザンナだ。彼女なら伯爵でなくたってあらぬ気を起こしてしまうだろう…と思わされてしまう(個人的好みかな?)。ルクサンドラ・ドノーゼ(ケルビーノ)も役柄としてはピッタリだが、発音が不明瞭なためか、翳みがかかったようなのっぺりした歌唱に聞こえてしまうのが残念。また、サリ・グルーバー(バルバリーナ)は出番は少ないが、次はスザンナを歌うのを聴いてみたい歌手だと思った。「音楽塾オーケストラ」の方は若い演奏家たちによって編成されていたようだが、みなそれぞれ腕達者であるのだろう。ところどころ(特にケルビーノの歌のところで)アンサンブルが危うくなるところがないではなかったのと、弦楽器の音がやや曇った音になるのが気にはなったが、全体としてはとても臨時編成とは思えない演奏を聴かせていた。中でも、それぞれコーチ役で出演して吹いていたオーボエの宮本文昭、フルートの工藤重典の二人の音は、オケの中から薫立つような調べを競って聴かせてすばらしかった。
来年(コシ・ファン・トゥッテ)、再来年(ドン=ジョバンニ)と続くこのプロジェクト、ほんとうに楽しみだ。
6月8日(木) NHKホール
NHK交響楽団 第1409回 定期演奏会 (指揮:アラン・ギルバート)
北爪道夫 始まりの海から〜オーケストラのための
ステンハンマル セレナード へ長調
ベートーヴェン ピアノ協奏曲 第3番 (ピアノ:アンドレ・ワッツ)
1曲目の北爪の曲と次のステンハンマルの曲は初めて聴く曲(北爪の曲は昨年書かれた新作だから当然)だけれども、どちらの曲もとても親近感の持てる曲。北爪の「始まりの海から」は、現代作品によくある「音による抽象画」といった雰囲気ではあるけど、音の断片の集まりという印象ではなくそれを貫くロマン的な叙情性を香り立たせる。いいとか悪いとか、批評する力は僕にはないが、好感を持てる作品だ。今世紀初頭に作曲されたステンハンマルのセレナードの方は、ドヴォルザークやエルガーのセレナードと共通するような面(哀愁に満ちた旋律が、そこここに散ればめられているところ)を持ちながら、一方で古典的な形式感も感じさせる曲だ。
アラン・ギルバートの指揮を聴くのは、2年くらい前東京交響楽団でシューマンの交響曲(確か3番)などをやるのを聴いて以来2回目だ。その時は、骨格のしっかりした音楽を作る一方で、やや粗削りのところも残る印象だったが、今回を聴くとそういう風に感じさせるところはほとんど無くなっている。相変わらず細かいところの精密さ(音色の統一など)に神経を使うよりも、音楽全体の「かたち」を大切にした演奏ではあり、休憩後のベートーヴェンの協奏曲などは、その堂々たる造形力に感心させられる。こういうベートーヴェンをやれる人は、若い世代では少ないのではないだろうか。その指揮ぶりも音楽も、33歳とは思えない堂々たる風格だ。先週の演奏会は仕事の都合で聴けなくなってしまったが、シューマンの協奏曲やブラームスの第4交響曲はどんな演奏になったのだろう。こうなると、聴けなかったのがとても残念に思われる。
近年、モーツアルトやベートーヴェンをよく弾くようになっているというアンドレ・ワッツも巨匠風の演奏。ただ、ミスタッチが多く、少し指がついていっていないように感じたのだが...。11日の「皇帝」の演奏はどうなるだろう。
アート・オブ・ブラス・ウィーン
J.S.バッハ 前奏曲、カンタータ「目覚めよ、と呼ぶ声あり」、フーガの技法より、
J.シュトラウスU ピチカート・ポルカ、トリッチ・トラッチ・ポルカ
エヴァルド 5声部の金管合奏のための交響曲第1番変ロ短調
ガーシュイン 2つの前奏曲
ピアソラ リベルタンゴ、サイト・タンゴ 他
上記の他に、ジャズも含めた多彩なプログラムで、金管クインテットの魅力を満喫させる演奏会。ブラスだけの編成、ということで当然音のパレットには限界がある訳だが、そのなかでこれだけ、切れの良い音と柔らかい音、威容さと諧謔、輝かしい響きと繊細なリズム、などの表現の幅があることに驚かされる。中には、動物の声帯模写(これは、楽器ではなくて、肉声)なども織り交ぜられ、「お座敷芸」(?)のような楽しみも。金管って、どこかユーモラスで、ほっとさせるところがある。
6月11日(日) サントリーホール
東京交響楽団 第471回 定期演奏会 (指揮:大友 直人)
ベートーヴェン ピアノ協奏曲 第5番 「皇帝」 (ピアノ:アンドレ・ワッツ)
ショスタコーヴィッチ 交響曲 第5番 「革命」
ダブル・ヘッダーの第2試合(?)。先ほど紀尾井ホールの舞台にいたアート・オブ・ブラス・ウィーンのホルン奏者が、こんどはサントリーホールの客席に見える。
一曲目の「皇帝」。出だしから、オケが思いっきり音を鳴らしている。ワッツも堂々たる弾きっぷりでそれに応える。この曲には、こういう演奏が似合うと思う。先日のNHK交響楽団との第3番よりも、随分のびのびと弾いていていい演奏だと思ったが、相変わらずタッチのミスは少し気になる。まだ指が衰えるのには早い年齢だと思うのだけど...。大友の指揮は外連みのないのはいいのだけれど、少しリズムが重たく躍動感に欠ける。これは、先日のアラン・ギルバートのバックの方が優っている。
後半の「革命」でも、第1楽章ではその「重さ」が引き続き気になる。一拍目の入りが、引っ張りすぎてなんとなく「浪花節」っぽいのだ。この曲本来の怒涛のような流れが分断されて聞こえる。第2楽章以降は尻上がりにいい演奏になって、特に第3楽章のアダージョは、哀愁とぞくっとするような冷たさが見事に同居する表現に感心したが、今日の演奏全体を通してみても、やはり相変わらず大友直人という指揮者は、いまひとつ何がやりたいのか僕にはわかりにくい指揮者の一人だ。
6月13日(火) 新国立劇場オペラ劇場
新国立劇場 公演
ヴェルディ 歌劇 「リゴレット」 (指揮:レナート・パルンボ、新星日本交響楽団)
「リゴレット」という作品の筋立ては、タイトル・ロールである父親(リゴレット)が家族(一人娘ジルダ)のために自我をひたすら押し殺して「道化」として奉公する先の主人(マントヴァ公爵)に、自分の愛娘を凌辱され、主人に復讐しようと試みるも誤ってその愛娘を殺してしまう、という何ともやりきれない話だ。こうした設定自体は、何やら、現代社会にも通じるものがあるような、そんな気がする(というのは考え過ぎか?)。いずれにしても、「愛憎」のストーリーの裏に、もう一本ある種の「社会批判」性を内包した作品であるには違いない。だが、そこはオペラ。リゴレットの娘ジルダに対する愛情も真実ならば、甘言に乗せられたとわかっても身代わりになって死んだジルダのマントヴァ公爵に対する思いも真実だし、早々に次の女を口説いて「女心は...」と有名なアリアを誇らしげに歌うマントヴァ公爵もこれはこれで真実だし、公爵をおびき寄せるための「口説かれ役」を演じていたはずのマッダレーナが最後は公爵に情を寄せてしまうのもまた真実だ。かくして、一本の筋立てが、それぞれの真実の「思い」から描き出された「多面鏡」になる。
この日の上演は、こうした「多面鏡」の表現としては...ある部分成功してはいたものの、一方ではかなり不満も残したように思う。原因は、主役を歌ったアガーケの歌と演技、演出、オーケストラの音楽、それぞれにあるのでは、と思う。アレクサンドル・アガーケは当初予定されたレオ・ヌッチの代役だったが、声量たっぷりの堂々たる歌いっぷり。しかし残念ながら、歌も演技もやや一本調子の面が否めず、終幕に向けて直線的に設計された演出と相俟って、場面場面の迫真性に欠けたまま「結論を急いだ」展開という印象を全体に残した。指揮のパルンボは、全体を通じて劇的な表現を志向しているように感じたが、場面ごとの音楽の色彩の描き分けが十分でないために、これも単調な感じを拭い切れない。新星日本交響楽団の演奏も、(雨続きの湿気のせいだろうか?)特に弦楽器の音に艶がなく、何かカサカサした乾いた音であるように思った。
主役同様に急遽代役となったマントヴァ公爵役のティート・ベルトランは伸びのあるテノールで、役の個性を表現。ジルダを歌った天羽明恵もしっかりした情感あふれる歌で可憐な役柄にふさわしく素晴らしいと思ったが、高音域の強音が潤いに欠けていて「金切り声」のように聞こえるのがやや残念ではあった。
6月27日(火) カザルスホール
オーギュスタン・デュメイ(vn)&小山実稚恵(p) デュオ・リサイタル
プロコフィエフ ヴァイオリン・ソナタ第1番
フォーレ ヴァイオリン・ソナタ第1番
ベートーヴェン ヴァイオリン・ソナタ第9番「クロイツェル」
デュメイのヴァイオリンの音は、相変わらず、ほんとうに「なつかしい」音だ。繊細でいて、かつ太く、暖かく、そして仄かな悲しさや憂愁を漂わせる。「バイオリンの音色(ねいろ)」という時に典型的にイメージされる「なつかしさ」が、この人の音にはある。しかし、たとえば、イツァーク・パールマンの音色とは、何かが決定的に違う。そう、「なつかしい」と言っても、デュメイの音はただ「ほのぼのと優しい」音ではなく、どこか「悲しみの棘」があるのだ。決して、華やかに派手にはならない。僕は、このデュメイの音が、好きだ。2メートル近いと思われる長身。「博士」を思わせる風貌。人の心の中に住む「憂愁」を見つめ、音にする求道者(?)のように見える。
この日に演奏された3曲のソナタ、どれもすばらしい。フォーレは、どちらかと言えば聴きなれた(デュメイの)スタイルの延長にある曲だが、プロコフィエフとベートーヴェンは、どのようになるのだろうと思って聴いていた。どちらも鋭角的にならず、やはりデュメイのスタイルになっていく。しかしそれでいて、それぞれの曲のもつ想念の起伏は、虹色の変化のように柔らかくかつ鮮明に描き出される。「眩暈」を覚えさせるような変色だ。特に、「クロイツェル・ソナタ」は、これまでモノクロで見ていたフィルムをカラーで見せられたような、そんな気になった。
小山実稚恵も、とっても丁寧につけていた。聴きなれたパートナーのピリスのような透明感はないが、特にベートーヴェンでの両者の絡みは、呼吸が合って見事。これから、いいペアになっていくのではないだろうか。
7月2日(日) サントリーホール
東京都交響楽団 第286回 プロムナード・コンサート (指揮:佐渡 裕)
モーツァルト 歌劇 「フィガロの結婚」序曲
モーツァルト クラリネット協奏曲 (クラリネット:ディミトリ・アシュケナージ)
ショスタコーヴィチ 交響曲 第5番 「革命」
休憩後の「革命」が、佐渡裕、渾身の名演。佐渡と言えば、その指揮姿はいつも「熱」演なのだが、今日の演奏はただの「熱」演ではない。この曲が持つ情念の「熱さ」と、凍りつくような「冷たさ」をこれほどまでに見事に表現し、描き尽くした演奏をこれまで聴いたことがない。佐渡がこの曲に持っている「音像」は全体観から細部に至るまで極めて明確で、それを都響が精緻に「音化」していく。佐渡がこれほどまでに、この曲を深く自分のものにしていることに驚かされる。その点で、先月の大友=東響による同曲の演奏との比較で言えば、こちらの圧勝だろうと思う(東響も決して悪くはなかったのだが)。この曲の真価を再認識させる、ほんとうに、すばらしい演奏だ。
前半のアシュケナージのクラリネットは、かなり硬質の音だ。この曲をウィーン風の柔らかい音のクラリネットで聴きなれた耳からすると違和感を感じないでもないが、反面とても新鮮に響く。技術も高いように思われたし、頻繁に挟まれるアドリブも含めてそこここのパッセージで聴かせるペイソスは魅力的だ。伝統的なモーツアルト像を踏襲するでもなく、かと言ってモーツアルトらしさを破壊するでもなく、現代の個性とモーツアルトのこの曲の新しい出会いを思わせる表現となった。アンコールで吹かれた、コバーチュの「ファリャへのオマージュ」の方は、よりこの奏者の個性と曲想がストレートに一致して、その意味ではモーツアルトより自然な演奏だったと思う。ただ、モーツアルトでは、バックの都響の弦楽器の音のざらつきが気になった。
また、最後にアンコールで演奏された、ショスタコーヴィッチ編曲という「ふたりでお茶を」。へえぇ、ショスタコーヴィッチがこんな曲を、と思わせるほんとにチャーミングな曲で、驚かされてしまいました。
7月6日(木) 紀尾井ホール
シャロン・カム(cl)&仲道郁代(p) デュオ・リサイタル
ドビュッシー クラリネットとピアノのための第1狂詩曲
シューマン クラリネットとピアノのための幻想小曲集
田中カレン Always in my heart
プーランク クラリネットとピアノのためのソナタ
ブラームス クラリネットとピアノのためのソナタ第1番
シャロン・カムを聴いたのは初めてだけれど、若々しく伸びやかな音、隅々まで丁寧に歌われる表情の豊かさと音色の幅の広さ、に驚かされた。すばらしいクラリネットだ。特に、シューマン、田中(なかなかの佳作)、プーランクが、カムの音色にマッチしてみごとな演奏。目を閉じて聴いていると、夢に誘われるようだ。ぜひ、また聴いてみたいと思う。そう、先週末の都響のモーツアルトの協奏曲も、彼女のクラリネットで聴いてみたかった。
それから、仲道郁代の伴奏も特筆すべきもの。4〜5年ぶりだと思うけど、以前に比べてずっと肩の力が抜けた感じで、詩情がとっても自然に慈しみ深く表現される演奏になった。上品な輝きに満ちた音。フィリア・ホールでは、ベートーヴェンのソナタ全曲演奏をシリーズでやっているらしい。どんなベートーヴェンを弾いているのだろう?
7月7日(金) 三櫂屋 江戸芸能の夕べ
上妻宏光の津軽三味線
金曜日の夜、三味線を聴きに出かけたというよりは、一杯やりに出かけたと言う方が正確なのだけれど、思わず惹き込まれ圧倒されてしまった。彼を聴くのは、ここで2回目だが、わずかな期間で驚くほど磨きがかかっている(前回のときは、風邪で発熱していると言っていたので、ほんとうはその時からこれだけの実力だったのかもしれないが...)。
26歳の茶髪の青年。イタリア風のソフト・スーツを着て津軽三味線を弾いている。なかなかの好青年だから、「おっかけ」のおばさんまで何人かお見えだ。和太鼓や尺八などの日本古来の楽器にギター、ベース、ドラムスなどを加えてロック・バンドもやっていると言う。始終海外にも行っていて、先月もまたアメリカに行っていたらしい。そのアメリカでの発見を語る。
「はじめてアメリカに行ったとき、津軽三味線は日本のジャズだと言われていたので、ニューヨークを楽しみにしていたら、その前に立ち寄ったニューオリンズでブルースのミュージシャンたちに出会った。ブルースの音階が、ほとんど津軽三味線の音階と同じだと言う。確かに一音を除いて、使っている音が全く同じなんです。そうかっ、津軽三味線は日本のブルースだったんだ、と。」
「彼らは、僕の演奏を聴いて、次は俺と一緒にやろう、と言って声をかけてくる。僕が、どこの誰であるかなんて、彼らには関係ない。音を聴いて、一緒に音楽してみたいと思うだけ。毎日、重い楽器をかついで、音楽する場所に出かけてくる」
「楽器の演奏には、奏者の『人間』が出る。三味線も同じ。優しい人が弾けば優しい音が出るし、ねっとりした性格の人が弾けばねっとりした音が出る。どんなに技術的に上手くったって、『いいね』って言われるだけ。『いいねっ〜!
一緒にやろうよ』とは言ってもらえない。彼らの中にいるとそういうことを強く感じるんです。」
演奏の合間に、実際に音を例示しながらこうして淡々と語る彼の言葉に、「確かさ」とでも言うべきものを感じる。まだ若いけれど、彼が音楽をするときに立っている足場の「確かさ」、それが彼の音楽を「リアル」なものにしているに違いない。自分の音楽が「生きることの糧」であると同時に、自分が生きることが「音楽の糧」である、(そしてそれ以上でも以下でもない)ということを感覚としてよく知っているのだ。そう、若くして、「音楽を生きる」ということに近い地点に、きっと彼は立っている。
津軽三味線だけでなく、日本の伝統的な楽器を芸術として受け継ぐ系脈は、きわめて細くなっていると言わざるを得ないのが現状だろう。音楽を志す若い人にとって、今は西洋の楽器を手にすることこそが「メジャーである」に違いない。でも、そうしたことの結果、それに取り組むその時点において、すでに音楽を「憧憬」や「評判」や「競争」や「名誉」やといった「社会性」の付着したものにしてしまうことも否定できない。もちろん、伝統楽器はそれ以上に「歴史的」「社会的」なものだとも言えよう。けれど、それはもはや、日本人である僕たちの体内にその音やふしやリズムが染み込んでいる、という意味においてでしかなくなりつつあるのではないか。若い彼にとって、三味線を弾く伝統的・社会的「意味」などは早々に風化し、ただ感覚の中の音(と言うより、血の中の音)としてそこにあるだけだったのだ。そう考えてみれば、上妻青年が「三味線を弾く自分」をこれほど早くしかも確かに見出している(ざるを得なかった)ことは驚くに当たらないのかもしれない。
彼が最後に弾いた「よされ節」は、そうした彼の音楽の今のありようを如実に表出したものだと僕は思った。「よされ節」というものにそれほどなじみがある訳ではないけれど、これはもはや僕たち日本人が身体で知っている普通の「よされ節」ではないことはよくわかる。しかし、そうかと言ってそれは、奇を衒って弾かれた、つまり新しいよそ行きの着物を着せられた演奏というのでは決してない。彼は、「よされ節」という音楽の(形式の)内側からそれをやってみせるのだ。曲の後半、聴きなれた節が高揚の頂点に達して、音がもうこれ以上行き場を失ってさ迷うように、短い同じ音型がトレモロ(と言うのかどうか、知らないけれど)で繰り返される個所に到る。彼はここを、極度の緊張と不安のカオスとして表現した後、音楽はここから一挙に開放されて終曲に向かう。「よされ節」が新しく生まれたばかりの音楽として生成する過程を、この曲がそもそも持っていた音とふしとリズムが自ら有機的に再生していくかのように鮮明に描いてみせたのだ。それは、彼自身が自分と自分の音楽を一体化するための格闘の軌跡でもあったろう。このような表現を獲得した彼が、さらにこうした地点も超えて淡々と自分の音楽を描くようになったら、どうような世界になるのだろう? この人の5年後10年後もぜひ聴いてみたい...そんなことを思いながらこの日の演奏を聴いていた。
7月9日(日) 紀尾井ホール
エミリー・ベイノン(fl)&安楽真理子(hp) デュオ・リサイタル
ドップラー/ザマラ カシルダ幻想曲
ドビュッシー 小舟/夢/亜麻色の髪の乙女/月の光
ニーノ・ロータ フルートとハープのためのソナタ
武満徹 海へ 〜アルト・フルートとハープのための〜
ラヴェル 亡き王女のためのパヴァーヌ
フォーレ シチリアーノ
ビゼー アルルの女より「メヌエット」/カルメン幻想曲(ボーン編)
フルートとハープという馴染みある組合せだが、その素晴らしさと可能性を再発見させられる見事なデュオ。ベイノンはアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、安楽はメトロポリタン歌劇場管弦楽団と、それぞれ超一流のオケにポストを持つこの二人の演奏は、これまで僕が持っていたフルートとハープの音楽の表現の幅を大きく超えている。とてもポジティブで、どんな音楽だってこの二つの楽器で表現してくれそうな、そんな気にさせる。その意味で、とても現代的だと思う。だが、それでいて、曲の持つ「歌」や「詩情」は実に豊かに朗々と聞こえて来る。これが美点だ。どの曲もほんとうによかったけど、白眉は、武満徹の「海へ」。アルト・フルートは、その奏法も含めて「尺八」がイメージされていることがよく分かるが、それをベイノンは見事な技巧で再現し、技巧を技巧と感じさせずに武満そのものの世界を描き出す。武満作品の演奏として、これは特上中の特上なのではないだろうか。少なくとも僕はそう感じた。
しかし、このデュオの本当の素晴らしさは、安楽のハープにあるように思う。彼女のハープは、いつもオーケストラの中で聴いているハープとはまるで違う楽器のようだ。彼女で聴くと、ハープは、まるでピアノのように総合的表現力を備えた楽器になる。カルメン幻想曲のようなオーケストラ原曲の曲だって、こんなに豊かに、上品に、繊細に、自在に表現ができるものなのだ。いっぺんにファンになってしまった。いつまでもこのまま聴いていたい、そんな気にさせるデュオだ。
7月16日(日) 紀尾井ホール
徳江尚子(vn)菅野博文(vc)野平一郎(p) ピアノ・トリオの夕べ
ショスタコーヴィッチ ピアノ三重奏曲第2番
チャイコフスキー ピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の思い出に」
チケットを頂いて、聴きに出かけたのだが、たいへん見事なアンサンブルに出会って驚かされた。特に、チェロの菅野の繊細で美しい音、ピアノの野平の表情の幅が広くかつ構築的な演奏がすばらしい。徳江のヴァイオリンは、やや線が細いのと、下げ弓の時に音がカサつくのが気になったが、このアンサンブル全体としては、「中年の味」(失礼)というべき節度ある哀歓の表現を聴かせて見事。特に、前半のショスタコーヴィッチは名演。
7月22日(土) サントリーホール
東京交響楽団 第472回 定期演奏会 (指揮:ユベール・スダーン)
團伊玖磨 祝典序曲
モーツアルト ヴァイオリン協奏曲第5番「トルコ風」 (ヴァイオリン:庄司 紗矢香)
ブルックナー 交響曲第9番
庄司沙矢香のヴァイオリンがすばらしい。音量が大きい訳ではないのに、実によく通る音。どんなフレーズでも、すべての音を活かして完全に弾き切るからだろう。そして、彼女の音は決して濁らない。細いけれども弱々しくなく、繊細に張り詰めた美音。モーツアルトでもアンコールで弾いたパガニーニでも、素直にのびのびとした音楽性が、高度な技巧の裏付けを得て、音楽そのものの楽しさを発散させる。聴きなれた曲の、これまで気付かなかった音の楽しみを、再発見させてくれる。ほんとうに、楽しみなヴァイオリニストが出てきた。
冒頭の団伊玖磨の曲も、初めて聴いたけど、佳作と思った。日本の「祭り」がイメージされた響き。
ただ、後半のブルックナーの演奏が、ひどい。こういう解釈が、ヨーロッパで罷り通るのだろうか? フレーズの端々に「ため」が利かされ、テンポは揺れ動き、表情には品のない濃厚な化粧が施され、音量のコントロールはされずに旋律の山場ごとに鳴らし放題、結果としてブルックナーの音楽のフォルムは完全に木端微塵だ。指揮者の勝手な思い入れだけが、メロディアスに、ロマンティックに歌われる。しかし、ブルックナーの音楽は、そんな蜂蜜のようなセンチな音楽ではないのだ。こういうブルックナーは、お金をもらっても聞きたくない。ブルックナーは...なかでもこの第9番は、「恋愛小説」ではない。
7月23日(日) 東京オペラシティ コンサートホール
東京フィルハーモニー交響楽団 「大町のブルックナー vol.2」(指揮:大町陽一郎)
ブルックナー 交響曲 第5番
言葉がない。今年聴いた中で、いや、過去に実演で聴いた中でも、最高のブルックナーのひとつかもしれない。圧倒的な感動。終曲の後でも涙が止まらず、腰が抜けたようにしばらく席から立ちあがれなくて恥ずかしい思いをした。
5月の第4番の時には想像できなかった、すばらしい出来。金管も、木管も、弦も、輝かしく透明な響き、精妙なテクスチュア。大町は、この曲を完全に手のうちに入れている。最もブルックナーらしい曲であり、下手をするとまとまりなくなってしまいやすいこの曲を、見事な緊張感と、明快な一本の線で貫く。「生と死」をテーマにした静謐で強靭な祈りの音楽。人間の魂の中の「神」の発見。
言葉がない。最高の音楽、最高の演奏。
8月6日(日) Bunkamuraオーチャードホール
東京二期会 オペラ劇場 (指揮:若杉弘、東京フィルハーモニー室内管弦楽団)
ブリテン 歌劇「真夏の夜の夢」 (シェイクスピア原作、訳詞上演→原語上演に変更)
真夏の炎暑のなか、一服の清涼剤になるような洒落た舞台。メルヘンの森の背景の前に、オーケストラ・ピットの上に張り出すように半円状の白い小径が作られていたりして、空間が実にうまく使われている。舞台装置も演出も、ほんとに洒落ていて、けれども決して押し付けがましくはなく、その点で二期会の高い実力を示すものだと思った。
シェイクスピアの「真夏の夜の夢」は、音楽家の創作意欲を随分と刺激する作品であるには違いないのだろう。ただ、ブリテンのこの曲は、メンデルスゾーンなどに比べるとどうも全篇通じて単調に聞こえる。この曲を初めて聴く僕の耳のせいかもしれないが、とても精妙に書かれているんだろうことは感じるのだけど、劇性に欠けるために退屈してしまう。劇中劇の部分なども、やや冗長の感あり。こういうコンセプトならば、全体にもう少し短くまとまっていて欲しいと思うのは僕だけだろうか?
歌手では、タイタニアを歌った森麻季がなんとも魅力的。華奢に見えるけれど、よく通る透き通った声を、オーチャードホールいっぱいに響かせる。彼女の歌だけなら、もっと長い時間でも聴いていたいと思ったのだけれど...。
8月20日(日) Bunkamuraオーチャードホール
東京フィルハーモニー交響楽団 オペラコンチェルタンテ・シリーズ (指揮:大野和士)
ヴェルディ 歌劇「オテロ」
大野和士と東京フィルの演奏が光った演奏会。十年来のこのコンビを、今まで僕はほとんど聴いてこなかったのだけれど、とても充実した音楽作りをやってきたに違いないことが、今日の演奏を聴いてもよくわかる。大野の表現は基本的には端正で上品で過剰さを排し、それでいてその中に微妙で繊細な表情づけを密度濃くおこなっていくスタイルのように思うのだが、そうした表現意図を見事に実現していくだけの実力を、このコンビはこれまでの協働の経験と鍛練によって、十全に手中にしているのだ。画素数が一段階多い、そんな演奏力を持っているように思う。それが、清澄さの中に激しいドラマを表現することを可能にしている。
反面、歌手陣は、ヤーゴを歌った福島明也を除いてあまり印象に残らなかった。4月の「サロメ」をすばらしく表現した緑川まりも、この日は不調だったのかもしれないが高音部に潤いも張りも感じられず、第4幕の「柳の歌」でその片鱗を覗かせた程度に終わった。タイトル・ロールのジョン・カイズも、のびのびしたいい声ではあるが、オテロの激情を十分に表現するには至らない。福島だけが、複雑で清濁の感情を併せ持った役どころを、ひとり歌いきっていたように思う。
8月27日(日) 鎌倉芸術館 オーケストラ・シリーズ2000-U
東京フィルハーモニー交響楽団 演奏会 (指揮:大野和士)
ブラームス 交響曲第2番
ブラームス 交響曲第4番
先週の「オテロ」の演奏がすばらしかったので、どうしても聴いてみたくなって大船まで出かけてみた。1960年生まれの大野は、僕自身と同世代だ。その彼が、どんなブラームスをやるのか、そういう興味もあった。
そして、ほんとに来てみてよかった。すばらしい演奏であるし、それ以上に、僕の好きなブラームスだ。
ブラームスの曲は、演奏者によっては容易に、男臭くなったり、女々しくなったり、してしまうところがある。それは、ブラームスの音楽自体が色濃く情念の「衣」を纏っているからに他ならない。奏者がその「衣」に感情移入してしまうと、その感情を映して「衣」が明彩な色を放つ。とても人間臭く、男の色にも、女の色にも、光って変色する。そんな気がする。
しかし、大野のブラームスはそういうことをほとんど感じさせない。ブラームスの音楽の繊細な織り目が、もとの織地のまま、丁寧に表現されていく。硝子のような繊細さと、たゆたうような危うさ、がそのまま提示される。それは、ある種の中性的な響きであり、別の言い方をすれば、明晰な構造の上に組み立てられたものだ。こういうブラームスを描いていけるのは、やはり、「オテロ」の時に感じたのと同じ、大野と東京フィルの画素数の多い演奏力の賜物に違いない。見事な演奏である。
9月7日(木) Bunkamuraオーチャードホール
東京フィルハーモニー交響楽団 第419回定期演奏会
(指揮:ウラディーミル・フェドセーエフ → 大町陽一郎に変更)
武満徹 夢の時 → ウェーバー 歌劇『魔弾の射手』序曲 に変更
リスト ピアノ協奏曲第1番 → シューマン ピアノ協奏曲 に変更 (ピアノ:小山実稚恵)
チャイコフスキー 交響曲第6番「悲愴」
「予定しておりました指揮者ウラディミール・フェドセーエフは、諸手続きの都合により来日することが不可能となりました。」という不可解な理由で、大町陽一郎が代役に。パスポートでも切れてたんすかねぇ?? ソ連時代ではないんだから、「不埒モノは、出国相成らん」なんてこともないでしょうに...。
そんなこんなで、僕は欠席。フェドセーエフの「悲愴」を聴いてみたかった。15日のスヴェトラーノフの「悲愴」との聴き比べを楽しみにしてたのになぁ。
9月9日(土) 新国立劇場オペラ劇場
新国立劇場 公演 (指揮:ヴィクトル・フェドートフ、東京フィルハーモニー交響楽団)
チャイコフスキー バレエ 「白鳥の湖」
あまりバレエを見ることはないので、この曲の舞台を見るのも、全曲を通して聴くのも、考えてみたら初めてだ。とてもシンプルなストーリーのメルヘンだが、やはりチャイコフスキーの音楽が魅力的で、休憩を入れて3時間近くの舞台だが飽きることがない。踊りの善し悪しはほとんどわからないのだけれど、素人目に見ても主役オデットを踊ったエカテリーナ・ベレージナが出色。清楚さ、はかなさ、おびえ、よろこび、などを、ほんとうに繊細に、かつ豊かに表現していて驚かされた。王子との出会いの場面で、足の震えで表現していた「憧れ」と「怯え」の入混じった感情の表現は絶美。
振り返ってみたら、7月の終わりから聴いているオケはすべて東京フィルなのだが、この日のフェドートフ指揮による演奏もすばらしい。東京のオーケストラの中で、もっとも透明感のある音を出せるオーケストラなのではなかろうか。「白鳥の湖」のような曲では、こうした美点がよく生きる。
9月15日(金・祝) Bunkamuraオーチャードホール
NHK交響楽団 第11回 オーチャード定期 (指揮:エフゲーニ・スヴェトラーノフ)
チャイコフスキー 歌劇「エフゲーニ・オネーギン」よりポロネーズ
チャイコフスキー 弦楽セレナーデ
チャイコフスキー 交響曲第6番「悲愴」
スヴェトラーノフの芸術の質の高さを示す名演。彼とN響との出会いは、ほんとうに希有で、他に代え難いものになってきている気がする。前回の来日のマーラーの第六交響曲もすばらしかったけど、今回の5つのプログラムも楽しみなものばかり。なんとか時間を見つけて、聴きに行きたいものばかりだ。
開始の低弦楽器のピアニッシモの中から現れるファゴットの響きが、これまで聴いたこともないような柔らかく郷愁に満ちた音で奏された「悲愴交響曲」は、終楽章のコーダに至って凍え震えるような、息をのむような緊張感で結ばれるまで、強靭な造形力と滲み出るような高い音楽性で貫かれた演奏。「悲愴交響曲」が、「語り」としてではなく、引き締まった、しかしそれでいて多様な色合いを帯びた一塊の「構築物」として提示される。スヴェトラーノフが、この曲を「鷲掴み」にしていることがよくわかる。
前半の弦楽セレナーデも素晴らしい演奏だと思ったが、N響の弦に、もう一歩、やわらかな艶があったらなぁ...と感じた。贅沢かもしれないけれど。
9月17日(日) サントリーホール
東京都交響楽団 第287回 プロムナード・コンサート
(指揮:デヴィッド・シャローン → 大友直人 に変更)
ラヴェル 道化師の朝の歌
モーツァルト 交響曲第40番
サン=サーンス ヴァイオリン協奏曲第3番 (ヴァイオリン:矢部 達哉)
ラヴェル ボレロ
シャローンが同じ都響を振って(13日)演奏されたショスタコーヴィッチの第7交響曲が素晴らしかった、との批評を2,3日前に読んでいた。そのシャローンが、16日の早朝、慶応病院で気管支喘息のため急逝したという。49歳。呆然としたまま席につく。冒頭、指揮者なしでバッハの管弦楽組曲第3番からアリアが演奏された。冥福を祈るよりない。
この日の演奏は、モーツアルトと矢部達哉がソロを弾いたサン=サーンスがよかった。大友直人がモーツアルトをやるのは初めて聴いたが、これがとっても瑞々しい演奏ですばらしい。大友の形式観とバランス感覚が活かされていて、普段聴いているロマン派の大曲よりもずっといい。そう言えば、いつか聴いたベートーヴェンのエロイカもいい演奏だったと記憶する。古典派の曲を、もっとやったらいいのに、と思う。サン=サーンスの協奏曲は、聴いていてとてもなつかしい気分になった。この曲を繰り返し聴いていたのは、いつ、誰の演奏によってだったろう? 奇妙なことに、それがまったく思い出せない。ただ、ほんとうになつかしい響き。楽章毎に、いつだかもわからない昔の心象が、抽象画のように蘇る。矢部達哉のヴァイオリンの高音部に、もう少し力強さと伸びがあったら、もっと素晴らしかっただろう。
ただ、両端のラヴェルは、感心しない。リズムが鈍重、響きが大味で、ラヴェルらしい色彩も洒脱も表現されない。こういう要素が抜け落ちてしまうと、ボレロだって、ただの拡大する音の行進曲になってしまう。練習時間が取れなかったせいもあるんだろうけど、どうも大友はこの種の音楽は向いてないような気がしてならない。10月の東響とのドビュッシー・プログラムは大丈夫だろうかと心配になる。
9月24日(日) 新国立劇場オペラ劇場
新国立劇場 公演 (指揮:マルチェッロ・ヴィオッティ、東京フィルハーモニー交響楽団)
プッチーニ 歌劇 「トスカ」
新国立劇場も、気がついてみると早4シーズン目。バレエでは先日の「白鳥の湖」、そしてオペラではこの「トスカ」がシーズン幕開けの演目となる。
このトスカは、とてもよくできていると思った。僕が聴いてきた範囲で言えば、おそらくこれまでこの劇場で上演されてきた中で、最高の出来だったのではないだろうか。最初から終わりまで、このオペラの世界に没入させる、そんなまとまりと安定感のある上演だった。
中でも素晴らしかったのが、カバラドッシを歌った佐野成宏だ。張りのある声質、声量ともに、日本人離れ(そういう言い方もヘンだけど)したところがある。3大テノールにだって負けない実力(あるいは、才能)なのではないだろうか? また、シルヴィ・ヴァレルも、声そのものはどうということがないかんじなのだけど、役作りがうまく、魅力的なトスカを演じた。直野資のスカルピアも好演で、この「悪役」の円熟した技がなかったら、ドラマとしての魅力が半減していたに違いない。更に、ヴィオッティ指揮の東京フィルは劇的かつ繊細な音楽作りが見事。いつもながら東京フィルの透明な音には感心させられる。演出も舞台装置も、とても自然なものだ。
このように書くと、「難なくまとまった」上演だったように感じられるかもしれないが、オペラの上演でこうして五拍子も六拍子も揃って一定の水準を満たすということは、なかなか簡単なことではない。そして、実際にこうして五拍子も六拍子も揃ってみると、音楽を楽しむとか、歌を楽しむとか、舞台や衣装を楽しむとか、そういう個別の楽しみを越えて、上演全体の魅力が何倍にもなることに改めて気づく。部分的にいいものが寄せ集まればいいというものでもない。当たり前のことだけど、なるだけ高い確率でそれが達成できる力、それがオペラ劇場の「底力」というものなのかもしれない。
いずれにしても、4年目にはいった新国立劇場のこれから発売されるチケットを、「やっぱり買わなくては」と思わせる幕開け公演になったのは、嬉しいような困ったような...。
9月30日(土) サントリーホール
東京交響楽団 第473回 定期演奏会 (指揮:飯森 範親)
ベートーヴェン ミサ・ソレムニス
(佐藤しのぶ S、永井和子 Ms、錦織健 T、シャオリン・リー Bs、東響コーラス)
10月7日(土) NHKホール
NHK交響楽団 第1414回定期演奏会 (指揮:エフゲーニ・スヴェトラーノフ)
チャイコフスキー バレエ音楽「くるみ割人形」より
チャイコフスキー バレエ組曲「白鳥の湖」より
チャイコフスキー バレエ組曲「眠りの森の美女」より
土曜日の午後の公演。当日券があるようだったので、スヴェトラーノフを聴いてみたいと思って、散歩がてら出かけてみた。
前週に行われたA定期のマーラーの第5交響曲の演奏の録画を衛星放送で見ていたら、冒頭から第1楽章のあまりにゆっくりしたテンポに驚かされた。しかし、それがこの曲の第1部を形成する第1楽章と第2楽章の緩―急のコントラストをかつて聴いたことがないほど明確にしている。その結果、(それが中間の第2部=第3楽章を挟んで)第3部を形成する第4楽章と第5楽章の緩―急と、シンメトリーの構造にあることに気づかされて、もう一回驚いた。この人は、このように音楽を「鷲掴み」する。だから、それが決して作為的にならない。音楽の細部というよりは、その音楽の全体のイメージが聴き手にごそっと叩き込まれる。そういう音楽性を持った人だ。
この日の演奏も、チャイコフスキーのバレエ音楽の名場面集のようなプログラムではあるが、どの曲も叙情的というよりは、豪快でシンフォニックな演奏。「バレエ音楽」らしくはないけれど、そういうスヴェトラーノフの音楽作りを感じさせる演奏だった。
10月8日(日) 東京オペラシティ コンサートホール
イングリッシュ・コンサート 演奏会 (指揮:トレヴァー・ピノック)
J.S.バッハ マタイ受難曲
トレヴァー・ピノックも、歳をとったなぁ。颯爽とした青年音楽家、っていう感じだったのに、この日舞台に登場した彼は、いつのまにか初老の紳士という風貌に近づいている。
この「マタイ受難曲」の演奏は、「才気煥発」という感じの演奏を聴かせてきた彼から、「静かな情熱」を感じさせる演奏となった。相変わらず、たいへんな「才能」の持ち主に違いない。彼の「才能」は、素人が聴いたって「あっ、この人は...」とすぐにわかるような、そんな「才能」なのだ。「努力」とか「熟練」とか、そういうことを感じさせない「才能」(もちろん、ほんとうは、大変な努力をしているに違いないのだろうけれど)。その彼が、祈るように情熱を注いでいる。この日耳にしたのは、そういう音楽だ。
イエスと福音史家以外は独唱者を置かず、合唱団の中からかわるがわる登場してそれぞれの役を歌うという、珍しいスタイル。しかし、それが、この曲のドラマとしての性格(まるで、オペラのような)をとても鮮明に浮き立たせる。そのドラマが、情熱と愛情を持って描かれる。とても人間的な「マタイ受難曲」。ピノックをはじめとする演奏者たちが、このようにこの曲を愛し慈しんでいるんだな、というのがよく分かる。こういう「マタイ受難曲」もすばらしい。
10月12日(木) サントリーホール
NHK交響楽団 特別コンサート (指揮:エフゲーニ・スヴェトラーノフ)
モーツアルト ヴァイオリン協奏曲第5番「トルコ風」 (ヴァイオリン:堀 正文)
ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」
今回のスヴェトラーノフの来日の最後のプログラムだが、またまた、驚かされた。「英雄」の第2楽章の葬送行進曲の極度に遅いテンポ。しかし、緩まない。この葬送行進曲の中に、まだ知らなかったこんなに多くのドラマの表現が残されていたことに気づかされて、震えるような気になる。これまで聴いてきた演奏のテンポが、逆になぜあんなに急いでいたんだろうと感じてしまう。ここに、こんな世界があったのに、なぜ駆け足で通り過ぎていたんだろうかと...。
堀正文とのモーツアルトの協奏曲は、とても「大人の」演奏。これは、堀の持ち味によるものだろう。この人は、よい意味でも悪い意味でも、とてもシャイな音楽をする人だ。音、表現、両面において控えめな演奏はいつも通りだが、程よい「遊び」と品のよさを感じさせて、とても上質なモーツアルトになった気がした。
スヴェトラーノフは、来年ロシア・ナショナル・フィルを率いて来日するらしい。どんな音楽を聴かせてくれるのか、とても楽しみだ。
10月14日(土) 新国立劇場オペラ劇場
新国立劇場 公演 (指揮:村中 大祐、東京フィルハーモニー交響楽団)
モーツアルト 歌劇 「魔笛」
一昨年の5月のプロダクションの再演。演出の細かいところが一部変わっていた気がするけれど、基本的には同じ舞台で、そういう意味では(おそらくやる方も、観る方も)こなれた気分。
一番感心したのは、村中大祐。おそらくまだ30歳くらいなのだろうけど、実に落ち着いたいいモーツアルトをやる。東京フィルから、すばらしい音楽を引き出していた。拍手。
歌手は、すべて日本人キャストで、「これは」っていう目立った歌手はいなかったけれど、夜の女王を歌った新人の福田玲子の第2幕のアリアはすばらしかった(第1幕の方は、なぜあんなにテンポを落として、よたった歌い方になってしまったのか...残念だけれど)。青戸知のパパゲーノが、個人的にはあまり好きになれず、そういう意味ではあまり楽しめなかった。まぁ、でもそれは、ほんとに個人的な好みだけれど...。
10月18日(水) サントリーホール
バンベルク交響楽団 演奏会 (指揮:ミッコ・フランク)
ベートーヴェン ピアノ協奏曲第4番 (ピアノ:田部京子)
マーラー 交響曲第1番「巨人」
ミッコ・フランクを初めて聴いた。驚くべき20歳だ。仕事の都合で前半のベートーヴェンが聴けず残念だったけど、後半のマーラーを聴く限り、この人の才能は桁外れだ。
何よりも、音楽が驚くほど「明晰」。一点の曇りもない。マーラーの複雑な音楽のテクスチュアを、揺るぎない確かさで表現していく。オケからそういう音楽を引き出す彼の「棒」の明晰さは、客席から見ていてもよくわかる。そして「明晰」である結果、音楽の詩情が失われてしまうかというと、まったく逆だ。彼は、その「明晰」さでもって、彼のやりたい表現を自由に「しまくって」いる。「明晰」で「自在」なのだ。マーラーのこの曲が、これほどに演奏者の手の内に入った形で演奏されたのを、これまで聴いたことがない。バンベルク交響楽団も、この楽団特有の比較的音量の小さい、しかし渋味のある音で始まったが、終楽章に至ったときには大変な力演。椅子に腰掛けて指揮していたフランク(足でも悪いのだろうか?)も、コーダの部分では立ち上って指揮台から飛び降りて指揮していた。
若干二十歳の顎鬚をはやしたフィンランドの青年(おそらく、このドイツの練達オーケストラの奏者の誰よりも若い)が、文句ないほど明晰な棒を振り、それにベテラン奏者たちが必死でついて弾く光景と、そこから生まれてくる生命力ある音楽は、ひょっとすると時代を画すものと言っても言い過ぎではないかもしれない。そんな驚きの一夜。今年のベストワンに挙げたい演奏。
フランクは来年2月に東京交響楽団の定期に客演する。どんなチャイコフスキーになるのだろう?
10月21日(土) サントリーホール
東京交響楽団 第474回 定期演奏会 (指揮:大友 直人)
オール・ドビュッシー プログラム
夜想曲〜「雲」「祭り」、ピアノと管弦楽のための幻想曲、牧神の午後への前奏曲
小組曲(ビュセール編)、舞踊詩「遊戯」
10月24日(火) Bunkamuraオーチャードホール
東京フィルハーモニー交響楽団 第420回定期演奏会 (指揮:大町陽一郎)
R.シュトラウス 交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」
R.シュトラウス ブルレスク (ピアノ:ミシェル・ベロフ)
R.シュトラウス 歌劇「ばらの騎士」よりワルツ
10月28日(土) 東京オペラシティ コンサートホール
マキシム・ヴェンゲーロフ 協奏曲の夕べ
(指揮:現田茂夫→ヴァグ・パピアンに変更、新日本フィルハーモニー交響楽団)
モーツアルト 歌劇「フィガロの結婚」序曲 → 交響曲第39番 に変更
モーツアルト ヴァイオリン協奏曲 第4番 → サン=サーンス 序曲とロンド・カプリチオーソに変更
ベートーヴェン ヴァイオリン協奏曲
「ヴェンゲーロフ自身の強い要望」ということで、曲目(それは、よくあることだけど)のみならず指揮者まで変更になってしまった演奏会。事前に通知があったんで知っていたけれど、要は、リサイタルの伴奏者として連れてきた気の合ったパピアン(ピアニスト・指揮者)に、協奏曲の方の指揮も任せたい、ということらしい。
その意図は、演奏を聴いてよく分かった。ヴェンゲーロフのヴァイオリンは、技術的な安定感と、明確かつロマン的な表情を際立たせるもの。僕の印象では、とても「健康的な」音楽作りをやる人だ。パピアンがそれに付けていく音楽も、とても輪郭のはっきりした、また強弱や緩急のコントラストも明確にしていく志向のものだ。この点で、二人の音楽は寄り添っている。ヴェンゲーロフがパピアンを起用したがった訳もよくわかる。
ただ、こういう音楽作りは、どうもベートーヴェンにはなじまない気がする。少なくとも僕は好きになれない。この日のヴェンゲーロフの演奏は、部分部分のたっぷりとした表現の美しさ、速いパッセージを快速で駆け抜ける見事さには感服するけれども、全体として、ベートーヴェンのこの名曲がもつ暖かい明るさや叙情が結局伝わってこない。ヴァイオリン演奏の名場面集?を聴かされたような感じなのだ。この曲、僕には、学生の頃、ゲアハルト・ヘッツェル(事故死してしまったウィーン・フィルのコンサートマスター)がやってきて弾いた名演が忘れられない。あそこには、懐かしく優しい心の鼓動を伝えるベートーヴェンの音楽があった。それがこの日のようにヴィルトゥオーゾ的にロマン派の華麗な大協奏曲のように弾かれてしまうと、残念ながら消し飛んでしまう。そういう意味では、前半に弾かれたサン=サーンスの曲は、ずっと彼ら二人の表現が馴染むものだったように思う。
新日本フィルは、久しぶりに聴いたけど、モーツアルトの交響曲から全体に音が不揃いで、弦楽器の音の艶にも欠けるように感じた。ただ、それは指揮者パピアンのせいであるかもしれない。全体に合わせにくそうで、コンサートマスターの豊嶋さんの奮闘ぶり(苦労ぶり?)が少し気の毒なように目に映った。
11月5日(日) NHKホール
ウィーン国立歌劇場 日本公演 (指揮:ブルーノ・カンパネッラ)
ドニゼッティ 歌劇「シャモニーのリンダ」
11月8日(水) 新国立劇場オペラ劇場
新国立劇場 公演 (指揮:ステファノ・ランザーニ、東京フィルハーモニー交響楽団)
チャイコフスキー 歌劇 「エウゲニ・オネーギン」
11月10日(金) Bunkamuraオーチャードホール
東京フィルハーモニー交響楽団 第421回定期演奏会 (指揮:井上道義)
ショスタコーヴィッチ ヴァイオリン協奏曲第2番 (ヴァイオリン:荒井英治)
ショスタコーヴィッチ 交響曲第15番
11月11日(土) サントリーホール
東京交響楽団 第475回 定期演奏会 (指揮:パーヴォ・ヤルヴィ)
ヒンデミット ウェーバーの主題による交響的変容
モーツアルト フルート協奏曲 第1番 (フルート:エマニュエル・パユ)
ショスタコーヴィッチ 交響曲 第6番
ショスタコーヴィッチの交響曲が、パーヴォ・ヤルヴィの実力を示すたいへんな凄演・快演。この、ちょっと風変わりな構造を持った交響曲の魅力を鮮烈に描き切っていて、驚かされた。腰が抜けるような圧倒的な表現。
11月13日(月) Bunkamuraオーチャードホール
NHK交響楽団 第12回 オーチャード定期 (指揮:デイヴィッド・ジンマン)
モーツアルト 交響曲第35番「ハフナー」
ロドリーゴ アランフェス協奏曲 (ギター:村治佳織)
ドヴォルザーク 交響曲第8番
11月14日(火) 東京オペラシティ コンサートホール
ハンブルク北ドイツ放送交響楽団 日本公演 (指揮:ギュンター・ヴァント)
シューベルト 交響曲第8番「未完成」
ブルックナー 交響曲第9番
11月26日(日) サントリーホール
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 日本公演 (指揮:マリス・ヤンソンス)
ウェーバー 歌劇「オベロン」序曲
ショスタコーヴィッチ ヴァイオリン協奏曲第1番(ヴァイオリン:ヒラリー・ハーン)
ドヴォルザーク 交響曲第8番
11月27日(月) 新国立劇場中劇場
新国立劇場 公演 (指揮:飯守泰次郎、新星日本交響楽団)
バルトーク 歌劇 「青ひげ公の城」
12月2日(土) 新国立劇場オペラ劇場
新国立劇場 公演 (指揮:増田宏昭、東京フィルハーモニー交響楽団)
團伊玖磨 歌劇 「夕鶴」
12月3日(日) サントリーホール
東京都交響楽団 第288回 プロムナード・コンサート (指揮:ガリー・ベルティーニ)
ベルリオーズ 序曲「ローマの謝肉祭」
ラロ ヴァイオリン協奏曲第2番「スペイン交響曲」 (ヴァイオリン:竹澤 恭子)
サン=サーンス 交響曲第3番「オルガン付」
12月9日(土) サントリーホール
東京交響楽団 第476回 定期演奏会 (指揮:秋山 和慶)
ヤナーチェク 歌劇 「カーチャ・カバノヴァー」 (原語による日本初演、セミ・ステージ形式)
12月16日(土) サントリーホール
東京フィルハーモニー交響楽団 2000「第九」特別演奏会 (指揮:沼尻 竜典)
モーツアルト アヴェ・ヴェルム・コルプス
J.S.バッハ 主よ、人の望みの喜びよ
ベートーヴェン 交響曲第9番「合唱付」
12月19日(火) Bunkamuraオーチャードホール
東京フィルハーモニー交響楽団 第422回定期演奏会 (指揮:大野和士)
マーラー 交響曲第9番
12月23日(土・祝) 新国立劇場オペラ劇場
新国立劇場 公演 (指揮:渡邊一正、東京フィルハーモニー交響楽団)
チャイコフスキー バレエ 「くるみ割り人形」
12月24日(日) NHKホール
NHK交響楽団 「第九」特別演奏会 (指揮:スタニスラフ・スクロヴァチェフスキー)
ベートーヴェン 交響曲第9番「合唱付」