「こたつシネマ」日記
2003年5月30日

『ジム』の再上映が始まった。
しかし、お客さんの入りが悪く、劇場は渋い顔である。
下北沢での上映では、冬のレイトショーであるにも関わらず沢山の人がつめかけた。
今回の上映館の渋谷アップリンクファクトリーにしてみれば、あれ、もっとお客さんが来て
くれる筈なのに・・・ というところなのだろう。

正直なところ、チラシを作り、ポスターを街角にはり、といった普通のことを一通りやっても
お客さんは来ない。それは、短い間だが興業の世界を覗いた者の実感だ。
下北沢での上映の時は、僕は2ヶ月以上、全く仕事をしなかった。
何をしていたかといえば、草の根的な『ジム』の宣伝に、日夜歩きまわっていた。
立ち寄った喫茶店、雑誌社、スポーツ用品店、飲み屋さん、全て、チラシを置かせてもらえないか
声をかけた。
(まだまだ返事を書ききれていないが)来場した皆さんが書いてくれたアンケートに少しずつ
返事を書いた。
新聞の招待券プレゼントの応募者全員に、一言ずつお礼の言葉を書き、優待ハガキを送った。
やった方がよさそうだと思ったことは、あらかたやった。
それでも、やったらやっただけ効果があがるというものでもなかった。
でも、やらなかったら、多分僕は自分の作品にとっても寂しい思いをさせていただろう。

今回は僕は上映の前々日までヤクザVシネの現場で忙殺されていた。
自分の作品のために殆ど何もしてやれなかった。
自分の倏瓩蓮∈酩覆砲癲興業にも確実に反映し、影響を与える。
作品、或いは興業は、鏡のようなものだ。
それでも、お客さんが来てくれないのは正直寂しいし、胃にこたえる。

『ジム』の夜の回が終わり、レイト枠は今日は招待作品『ドキュメンタリーごっこ』のトークつき
上映だった。ゲストは撮影の内藤雅行さん。
幸い、この回は打って変わってなかなかの盛況だった。
内藤さんは、忙殺されている僕に代わって、今回の上映の告知ハガキを作るなど宣伝を
助けて下さった。
それだけに、僕は自分の作品よりも、内藤さんの作品の入りが心配だった。
内藤さんの製作した『ドキュメンタリーごっこ』は、僕がこれまででたった一本、号泣した作品
である。
映画は生き物であり、見るたび違った発見がある。
今夜の『ドキュメンタリーごっこ』も素晴らしかった。
以前とはまた違った見え方、でもそれはそれでとてもチャーミングな内藤作品を観ながら、
ようやく、僕は今回の上映が始まったことを実感した。

あさって、日曜日は、土本典昭監督をお迎えする。


2003年5月28日(水)

今、僕の日常は3つの柱のローテーションで動いている。
一つは『ジム』の公開をめぐる活動。
一人でも多くの方に『ジム』を観ていただくよう、上映してもらえる暗闇を探し歩いている。
(幸い、明日29日から、渋谷のアップリンクファクトリーでの上映が決まった)
一つは、次回作の模索。
遅くとも年内に、ドラマなら脚本を書く、ドキュメンタリーならカメラを回しだすなどのアクションを
起こしたいと思っている。
(が、なかなかエネルギーがそこまで回らない)
もう一つは、生活のための仕事。
『ジム』の公開にとことん付き合ったため、今年は1月から3月まで仕事ができなかった。
『ジム』公開の費用、特に宣伝費の持ち出しもかなりの額にのぼり、慌てて4月から仕事を始めた。

この3本の柱は、ひとつひとつどれをとっても大変な作業である。
恐らく、一人の人間が24時間、365日かけてやるくらいの重さが、そのひとつひとつにある。
特に、三つ目の柱、生活のための仕事ということについて、悩みは尽きない。

昨日まで、僕はヤクザVシネの現場にいた。
作品名は『侠嵐』。(こてこてや・・・)
12日間で80〜90分を2話撮ってしまうという、むちゃくちゃハードな現場で、チーフ助監督を
やっていた。
初めは気乗りがしなくて断ろうと思っていた仕事だったが、日ごろお世話になっているカメラ
マンからの依頼でもあり、また、僕自身も生活に困っていたこともあり、お引き受けすることに
した。

気乗りがしない理由はいくつかあった。
昭和20年代から50年代の話なのだが、予算、スケジュールの面から時代考証はあきらめ
ざるをえない。
何しろ、僕が合流してからインまで1週間しかないのだ。
映画の舞台にしても、九州の話なのだが全編ロケは東京近郊である。
スタッフも、街場の製作現場で経験を積んでいない若い子が多く、かつ、映画の主要パート
である美術部、製作部はいない。
イエスとは言ったものの、かなり憂鬱な気分だった。
それが正直な気持ちだった。

その現場で、一人の役者と出会った。
松田優(まつだまさる)。
『侠嵐』では、主役のヤクザ川辺を演じる。

最初、松田優に関することは何も知らなかった。
『春来る鬼』の主役オーディションで合格し、幸運な俳優デビューを飾ったことなどを、
現場で小耳にはさんだ程度だった。

『侠嵐』は、川辺というヤクザの一代記である。
松田優は、ほぼ出ずっぱりである。
スタッフがぼろぼろになる現場にはしたくなかったので、撮影は毎日0時を超えないというのが、
スケジュールをきる僕にとっての、今回のルールだった。
実際、撮影はスムースに進んだのだが、それでも松田優は家に帰ってからも台詞を覚えたり、
深夜に墨師に刺青を描いてもらったりと、睡眠2〜3時間の日が続いた。
結果、撮影序盤に風邪をひき、熱を出してしまった。

それでも泣き言ひとつ言わない彼を、撮影終了後家に送ったり、時には朝迎えに行ったりと
いうのが、途中から僕の大切な仕事の一つになった。
その道中で、少しずつ彼と話をするようになった。

最初は差しさわりのない話だったと思う。
途中、 彼が香港、台湾に何度も足を運び、向こうの映画界に積極的にアプローチしていること、
ある制作プロダクションに通いつめて、8ヶ月かかってそこを口説き落とし映画を作ったことなどを
知った。
僕も自費で作品を作り、一年半がかりで劇場にかけたことを話した。
そのあたりから、急速にお互いの距離が詰まっていくのを感じた。
あまり期待も持てなかった現場で、このような濃密な関係が生じていくのは、不思議な気分
だった。
僕は、確実に、松田優という役者のことを好きになっていた。

ひとつけちがつくと全て悪いほうに行ったりするのが物事だが、今回の現場は悪条件の
割に現場の雰囲気が最初からよかった。
それに乗せられたのか、僕もイン前の憂鬱さとは打って変わって目いっぱい仕事ができた。
結果的に、それは僕にとって幸運だった。
どんな状況でも、神様はどこかで自分を見ている。
今回は松田優が、僕にとっての神様だった。
彼は、主役ということに忙殺されながらも、その間隙からじっと現場の空気を観察していたに
違いない。
僕がもしも最初から、憂鬱な気分そのままに手抜きをしていたら、それは多分彼の目によって
見抜かれたであろうし、仮に彼といかに親しくなっても僕は彼の目を正面からは見られな
かった、そう思う。
思いがけないところで神様に出会った。
貴重な体験だった。

最終日、独房のシーンで撮影が全終了し、松田優は監督から特大の花束を贈られた。
帰りの車中、一仕事終えたすがすがしさの中で心地よさそうにしていた彼が、いかんいかんと
自分に活を入れるように大きな声を出した。
「さーあ、あしたからまた闘いだ」
この時、僕が何故松田優という存在に魅かれていったのか、わかった気がした。

明日から、僕もまた闘いだ。