年齢信仰

母は、年齢をひどく気にする人だった。
往年の女優や歌手が年をとり、首のあたりに衰えが見えたり、高い声音が出なくなってきたりすると、
「なあんだ、みんな年をとるのは、一緒だわ。安心した」とうれしそうだった。

なにか大きな事件や事故が起き、被害者の名前や性別、年齢がニュースで報道される。すると彼女は、
「年がばれちゃうじゃないの。いやだねえ」
と言っていた。ばれるといっても、いったい誰に? それがどんな差しさわりになるというのだろうか。例えば何かのアンケートで、過去に年齢をサバ読んだことがあったとしても、そのことが、あとあと何かスクープになるとでも? とにかく彼女にとって、事故に巻き込まれて死ぬことよりも、年齢が公になるということの方が、重大事件らしかった。
 「あんたのいいところは、若いというそれだけなのよ」
 わたしが20代半ばの頃だったろうか。ほかに取柄はなんにもないんだから、結婚するなら今のうちよ、母は、暗にそう言っているのだった。
 こうした言葉の持つ棘の影響は、思いのほか大きいとつくづく思う。言われた時は、確かにそのご意見はごもっとも、という気がして、反論のしようがないのだが、あとで、徐々に回ってくる毒気のようなもの。それはからだにできた痣やこぶ、傷のように目に見えるものではなく、わたしが自分に対して向ける内なる声として、他人からわたしへの評価として、いつのまにか心の奥深くまで染み込んでいる。
 そのせいだろうか。
 老けて見える20代と、若く見える50代と、どちらがいいかと聞かれたら、迷わず老け顔の20代を選ぶ。年は誰でもとるのだから、若い時ぐらいそれ相応に見えたほうがいいに決まっているじゃないの、という気もしないではない。が、どんなに若く見えても、婆あは婆あじゃないのさ。そういう声が心の奥から聞こえてくる。
 アンケート用紙や美容院のお客様カードに記入する年齢も、30代後半の時は32,3歳に設定。40歳を超えてからは、38,9歳に、と年々妥協年齢も、実年齢に比例してひきあがってはいるのだが、それが、実年齢と一致することがない。
 20代の時に仰ぎ見た40代は、もう救いようもないほどの年増だと思っていた。そもそも、中年、という言葉の響き自体、味もそっけもなく、なにやら自虐気味ではないか。
 アンチエイジング―。そういう言葉が聞かれるようになったのは何年ぐらい前からだろう。クリームを毎日塗り続ければ、あるいはこの飲み物を毎日飲み続ければ、ほーらこのとおり、変身後の女性の拡大写真と実年齢の載った広告を見かけるようになったのは最近のことだ。それとも、わたしのアンテナに引っかかるようになったのが最近ということなのかどうか。とにかくよく見かけるようになったのだ。
 お母さんどうしたの? と息子には驚かれ、「わたしも飲んでみよう」と娘に言われ、これからは娘がライバルですとの誇らしげなコメント付き。
 確かにこれが68歳とは、とても思えない。あまりの現実離れというか人間離れの変身ぶりに、羨望を超えて感心するのみ。ここまでくると異星人。もしも、同年代の友人が、こんなふうに若返ったら、一緒に歩きたくないなあと思われるような見事なアンチぶりである。
 生来、無精者なので、こうした広告を鵜呑みにしないまでも、マメなスキンケアに励むかといえばそうでもない。そうかと言って、年齢からくるお肌その他の衰えに無頓着というわけでも、受け入れているわけでも、開き直っているわけでもない。見て見ないふりをしているだけだから、心の奥底にひそんでいる引け目のようなものは、ちょいちょい顔を出している。
 ああ、年甲斐もなくはしゃぎ過ぎちゃったと、自己嫌悪に陥るのは、序の口。ただでさえ間が持たない宴会の席で、昔はニコニコと相槌のひとつでも打ちながら座っていれば、なんとか形になったが、40も超えれば、年長者としての気配り心遣い、しゃれた会話のひとつもないと、気のきかないおばはん、壁の花というより、ただの壁のシミ、と気遅れも甚だしい。最近流行の洋服というのが、ひらひらふわふわ型(チュニックというらしいのだが)。さすがにこれは着れないなあと、ファッションコーナーに近寄らなくなって久しい。 代わりに、20年前に買ったスカートだのを眺めては、まだまだ十分着られるよね、これ。デザインもオーソドックスだし。サイズも変わってない、むしろぶかぶかなくらい。などと自己満足に浸りきる。さおだけ屋のさおの値段ではないが、10年前どころか、20年前のサイズと同じであることに、ひそかな喜びを感じながら……。
「30代でもまだいけますよ」などという同僚の気使いの声を、
「そお?そんなこと言っておだてても、褒美はでないわよ」などと、軽く聞き流しながらも、内心まんざらではない。

わたしが10代の頃にアイドルだった人々も、40代50代を迎え始めた。最近のこの年代は、歌って踊ってまだまだ元気だ。頬がこけたり、眼尻にしわがよったり、全体にふっくらしたりと、それなりに年を経てはいるけれど、若い時にはなかった垢ぬけた感じというのか、別の魅力が備わっている人も多い。当時のノリそのままでステージに上がり、昔の愛称で呼ばれても、なんら違和感もない。彼らと一緒に年をとったファンが、子供連れで、客席から声援を送っていたりする。
 舞台の上で、スポットライトを浴びどんなに華やかな人生を送っても結局いきつくところは同じなのよね。母親のつぶやきの意味は、そういうことだろう。あきらめと安堵と、そして自分と同じ位置にまでひきずりおろしたい願望と……といったら言い過ぎだろうか。
 かくしてわたしは、
「行きつく果ては同じように見えても、途中経過はぜーんぜん違うよね、むしろそっちの方が大事なんじゃないの」と母の毒気混じりの安堵に対して、これまた毒を含んだ水を差したくなる。

 
 年齢には、あらがえない。見せかけはある程度小細工できるものの、実年齢を引き下げることはできない。どんな不本意な1年をおくったとしても、誕生日がくれば、確実にひとつ年をとる。待ったなし、コントロール不可能である。かつて、ブラウスひとつ買うのにも、横浜の東口と西口、両方のデパートを何往復し、念入りに物色してもへいちゃらだったのに、ここ数年、両方をはしごしただけでへとへとになる。東西をつなぐコンコースはいつも人通りが多い。人ゴミをかき分けながら歩くのは、それだけで疲れるのだ。からだが1番の正直者である。
 その点、体重やサイズは、固い意志とちょっとの我慢で、20代のころの体型を維持することは可能だ。就寝前3時間は、飲み食いしてはいけない。9時以降は飲食してはいけない―。夕食の準備があるわけでもないのに、なぜにかくもせかせかと帰宅するのかと、我ながら不思議に思っていたのだが、このルールのためである。早寝のたちなので、食後3時間というと、どうしたって夕食は、早いうちにさっさと済まさなくてはならないのだ。
 まさに毎日が健康診断前夜。
 元アイドル歌手の映像に、ああ、まだまだこれから、と励まされるのは確かだが、それも今のうち。なんだかんだ言ったって、こちらもまだ、働き盛りの40代、一応健康、持病なしだからこそ。これが70代になったらどうだろう。彼らの顔を食い入るように眺めては、小じわの数を数えて、安堵のため息をついていたりして……。
 そう考えると、なかなかどうして、母の年齢信仰を嘲笑うことはできない。それが彼女の影響によるものだとしても、反発を覚えながらわたしがこだわっているのは、サイズや体重ではなく、まさに年齢なのかもしれない。
              
                                                      2008/8