就活事情

ある活動を始めるということを、「○活」と表現する言い方がある。

これは、結婚活動、つまり「婚活」がその始まりだったように思う。
プレッシャーに押しつぶされて、婚活ノイローゼなる人々も出たと聞く。
24歳の結婚適齢期などという言葉は、もはや死語となったが、ぼんやりしていては後れをとるぞというような、人に圧力をかけ、競争させ、煽りたてるニュアンスを含んだ言葉であることは、相変わらずである。
当事者にとっては、「活」ではなく、「勝」の字を当てはめたほうがしっくりいくのではないかというほどの、気合いの入れようである。

先日、某企業の入社式に、保護者の席が設けられているというニュースが新聞に掲載されていた。
この会社では、親向けの会社説明会も同時開催されるという。
親同伴の入社式はさすがに数少ないものの、親子二人三脚の就活が今や当たり前になっているという話を聞いて、再度びっくりである。これは、昨今の就職難ゆえなのか、それとも親の過保護ぶりが増したということの表れなのか。 

わたしが大学生の時、親に就職活動に参加してもらうということは、思いつかなかった。
ぼんやりしていても、大学にいればそれなりに就職活動の情報ははいってくる。
4年の夏休みあたりからだったろうか。見よう見まねといった感じで、リクルートスーツなどを着込んで、あちらこちらの会社訪問などを始めた。
当時はバブルも崩壊しておらず、大手を狙わなければ、つまりぜいたくを言わなければ、売り手市場であった。

結果的に40数社の会社を回ったと記憶しているが、これは何も、行く先々で選考に落ちたためではない。
自分自身で、一体何がやりたいのかわからなかったからである。
一社から内定をもらっても、もっと自分にふさわしい業種、会社があるのではないかと、右往左往していたのに過ぎない。

そういう時に、自分のことをよく知っている親を就活に巻き込めば、それなりのアドバイスなどももらえて、こうしたエネルギーの浪費は防げたのかもしれないが、それも今となっては、あながち無駄だったとも思わない。

 あくせくと会社訪問などしているようでいても、悲壮感というものはなかった。
どこかイベントのように呑気でいられたのは、23年会社勤めをしたあとには、結婚という永久就職をするつもりだったからである。嫁入り前に学歴をつけておくことを、戦前は「トッピング」と呼んだそうだが、仕事をして給料をいただくのも、その延長線上のこと、社会勉強の1つに過ぎなかった。

 男女雇用機会均等法が施行された年であったが、自分とは無縁、ゆくゆくは、見送ってくれる同期が残っているうちに、花束抱えて寿退職する。それがゴールであった。他の選択肢はわたしの頭になかった。
今思えば、数十の会社を訪問するよりことよりも、この方がよほど、コワイ。自分というものを本当に知らなかったのである

さて、今や、中小企業の正社員への道のりも険しいこのご時世である。
会社訪問や大学の授業で忙しい子供の代わりに、親が会社説明会の予約をとるらしい。
大学側も、親向けの就職支援を行っているという。
 そう言う話を聞けば、時代が変わったわねなどと、ひとごとのように感心してばかりもいられない。
わたしにも大学
3年の息子がいるのである。さすがにこういうニュースを聞くと、日頃影の薄い彼の存在が、俄然視野にはいってくる。
 視野にはいってくるとはいえ、親として、ボオッとしている場合ではないと、ここで煽られるかと言うと、そういうわけでもない。
 これが、我がご子息と一緒に住んでいない者の強み。
 同じ屋根の下に住んでいれば、嫌でも、当人の行動が目にはいる。
 いつまでも寝ているけれど、今日は大学、お休みかしら。
 ラフな格好で出かけたけど、いつになったらリクルートスーツを着るのかしら。
と、一挙手一投足がついつい気になって仕方がないと思うのだが、離れているとそれがない。
一緒に住んでいないからこそ、かえって心配と言う考えもあるが、見えないものは、ないものと同じ。
 親がどうのこうのと言っても、結局は何の意味もなかったというのは、受験の時に痛感済みである。
何とかならないかもしれないし、何とかなるかもしれない。

 いずれにせよ、成人後の息子にとって、親の影響力など無いに等しいのである。

息子の浪人時代、予備校で、親向けの進学ガイダンスが行われたことがある。
気が進まないながらも、半ば義務感に駆られて、学校まで足を運んだ。
配られた分厚い資料には、大学の偏差値や、模擬試験の結果から割り出した合格率などの数字が、グラフとともに事細かくびっしりと描かれている。
 全体の傾向を分析するにはよいが、知りたいのは、本人が受かるのか受からないのか、それだけである。
当然それは神のみぞ知る、である。
持ち重りのする資料とともに帰宅したあとは、そこで教わった受験生の『保護者の心得』などもすべて忘れ去ったのであった。
結局、私ができたことと言えば、ここを受験したいといえば、銀行に走り受験料を振り込み、ここに受かったと言えば、再び銀行に走り、手付金なるものを収めたという、必要にして最低限のことであった。
その程度ではあったものの、もうそれで十分。というか、もうたくさんであった。


 無力ながらいっぱいいっぱいであったという記憶は今も鮮明である。
そうした事情があるので、親子二人三脚のニュースを聞いても、ほとんど別世界の話である。
 私自身、就活なるものは、勝手にやったという思いがある。
 さらに、永久だと思っていた就職先を失ったのと時期を同じくして、今の職場に、採用されたということもある。
 何が災いし、何が幸いするかわからない。

現在、わたしと息子との間は、疎遠である。

「保険証忘れたから送って」

というけしからんメールが唯一、彼の安否を確認できる手段になっていたりするのだ。

これでは、もはや23脚の就活以前の話。好むと好まざるとに関わらず、全面的に、息子自身に任せるほかはない。
見方を変えれば、だからこそ、過保護ママにならずにすんでいると言えなくもないのである。

 

                             2011/10