しがらみ・生きがい・食事作り
先日、民間の会社に勤めていて頃の同僚に会った。
20数年ぶりである。
彼女はいっとき、ひとり暮らしをしていたようだが、今は年老いた母親とふたり、実家で暮らしている。
「毎日、夕食を作って待ってるのよね」
と彼女。
浮かない表情である。
家に帰ったら食事ができているなんていいじゃないの!という感想を抱くのは、結婚をし、自分で築いた家庭をもつ者の立場。
毎日毎日献立に頭を悩ませ、仕事が終わったら、スーパーで慌ただしく買い物をし、家に着くと着替える間もなく、台所に立たなくてはいけない状況からすれば、なんでもいいからとにかく、飯ができていればそりゃあ、天国というものである。
私も息子が家にいる時には、便乗して母親に食事を作ってもらっていたので彼女の感じているであろう重さはわかる。
夕食を外で食べて帰ろうという時には、いちいち、母上に断りをいれなくてはいけない。
あらかじめわかっている場合はいいが、急な残業がはいって夜遅くなったら…。
帰りがけにふと、寄り道をしたくなったとしたら…。
友人との約束が、急きょ今晩に変更にならないとも限らない。
そんな時、家に電話をする。
せっかく用意しておいた食事を余らせてしまったかしら。
明日の昼間、残りもののおかずを前にひとり食事をする母の姿が目に浮かぶ…。作ってもらってこんなことを言うのはなんだが、食事によって支配されているような気にさえなってくる。
いい年をした娘が毎晩母親に食事を作ってもらっていること自体、なんだか後ろめたいのである。
その上こちらの都合で飯がいるとかいらないとか、いちいち振り回していいものだろうか。
わたしはあんたの旦那じゃないんだよ、と、いつだったか母親がキレて吐いたセリフを思い出す。
あれは些細な言い争いとも言えないようなやりとりだったが、そういう時にこそ、本音が出るものだ。
作ってもらうのも気がひけるし、断るのもなんだか悪い。
いったいどっちなんだよ、という具合である。
作って待つ身のしんどさがわかるだけに、待たれる身もそれなりにつらいのである。
信田さよ子さんが、彼女の著書の中で、娘が母親に感じる罪悪感は、必要経費だと書かれていた。
娘が母親に対して抱くこの感情は、なにもはたから見て、母親がいかにも気の毒であるとは限らない。
さほどリッチではないにせよ、明日の米に困ることもない、そりゃ毎日おさんどんばかりだけど、休日には旦那さんにあっちこっち連れて行ってもらったりして、いい目も見てる、結構楽してるよね、いい身分じゃん、などと娘にやっかまれるような立場の母親であっても、どういうわけか罪悪感となると話は別もの。
娘と言う立場そのものが、どういう因果か、すでに母親に対する罪悪感を抱くようにできているとさえ言えるのである。
「お母さんにとって、娘に食事を作ることが、張り合いになっているんじゃないんですか」と彼女に言ってみたものの、ちっとも慰めにもなっていなかっただろう。
張りあいになっているからこそ、問題はより複雑なのである。
ことわるのもタイミングが大事。
息子が進学とともに家を出たのを機会に、わたしは自分の分を自炊するようにした。
母にとっては、何で今更、と甚だ不服だったようだが、今ではそれが当たり前となっている。
支配被支配関係を脱出したような、心地の良い距離感を感じているわたしである。
2011/9