娘役割再び

 
両親と3人で、2泊3日の箱根旅行へ出かけた。
初めはひとりで行くつもりで、宿も予約していたのだが、直前になって、どういうわけか、親を誘う気になったのである。
 昔、父の会社の休みに合わせて、よく3人で旅行へ出かけた。
わたしに息子が生まれてからは、4人で出かけたが、両親への葛藤があからさまになるにつれ、わたしも息子も同行しなくなっていた。
3人で出かけるのは、わたしが結婚し現在の姓になってからは初めて、ほぼ25年ぶりである。
宿泊の割引券がちょっとばかりある程度だったのだが、“話しに乗りやすいように”と、タダ券があるなどと、景気のいいことを言って誘った。
 出発前から、母はあそこへ行こう、ここへ行こう、これ食べたいと盛りあがっていた。
期待されると張りきるたちのわたしとしては、もっと喜ばそうと完璧な計画を目指してしまい、少々気が重くなっていた。

 なぜ今回、彼らを誘う気になったのか―。
「食に関する規則は、母無きあとの母である」とは、斎藤医師の繰り返されるフレーズである。
わたしは時々ひとりで旅行へ行くのだが、どこで何を食べるかといった、食へのこだわりや計画にがんじがらめになるくらいなら、いっそのこと「現物」を連れて行った方がいいのではないかと思った。現実の親の方が、心の中にいる親よりも、よほど融通がきいて寛大な気がしたのである。
 すべてひとりで計画して、歩き回り、もそもそとひとり食事をするという、今までの生活パターンに行き詰っていたとも言える。
あら、これおいしいね、と分かち合う相手がいないのは、やはり味気ない。
そうは言っても、対人恐怖気味の身の上、他人と過ごすのは、緊張する。
気楽にいっしょにいられるのは、やはり親だけというわけだ。
「対人恐怖は、赤ちゃんかえりができるような極めて親しい間柄以外では人見知りが激しい」
とは、くだんの医師が公開カウンセリングでコメントされていたが、全くそのとおりなのである。

 以前、「老いていく親を受け入れられず、時を止めたいという願望のために、親とまともに関われなくなっている」という指摘を受けたことがあるが、生身の両親と接することで、等身大の彼らを見極めたかったのかもしれない。
同じ屋根の下で暮らしていると、当たり前の生活ができることの有難味よりも、親への疎ましい感情がうっとうしくて、つい、彼らと不自然に距離をおいてしまう。
しかし、旅先という非日常に身を置くと、普通に関わることができる。
 3月の東日本大震災の時や、父親の入院といった非日常の時がそうであった。
ありがたくない「非日常時」ではあったが、当時の連帯感や、高揚感を今でも、懐かしく思い出す。
 父が入院した時、職場近くの観光地を歩く老夫婦二人連れを見かけると、両親がああして連れだって歩く姿を、もはや見られないのではないかと、よりどころのない寂しさを感じたものだが、その後、父が退院し、夫婦そろって関西旅行へ出かけたのを見たときは、そこに自分が加わっていないことに、おいてけぼりにされたような思いを抱いた。

 そうした、あれやこれやの思いがあった末の、箱根行きである。

 今回の旅行で気付いたのは、父親が思ったよりも心もとなく、危なっかしくなっていたということである。普段、テレビの前に座っている姿だけからは、わからないことであった。
昔は、旅行へ行くとなると、切符の手配や事前の下調べは完璧で、わたしたちはただ父の後をついて行くだけでよかったものだ。
今回も一生懸命その役割をとろうとするのだが、やはり年にはかなわない。時々頭の回線が切れて、ぼんやりとするようであった。

 宿の大浴場の入り口に、小さな貴重品ロッカーがある。
そこにルームキーを預けようとしていると、その隣で、父が何と、一生懸命、バスタオルやタオルを、中にねじこもうとしている。
そこでわたしと母、女ふたりに散々呆れられ、翌日には、湿生花園の割引券をホテルに置き忘れ、そこでもまた、わたしたちにののしられる羽目になった。
そして、(こればかりは父だけを責められないが)、駅のコインロッカーに荷物を預けたのを忘れたまま、電車に乗ろうとしたというのは、こうしたことが今まで一度もなかっただけに、忘れられないエピソードである。

 いっしょに過ごす時間の多い母は、日々このように、心もとなくなっていく父を見ていて、心細いとは思う。
だからこそ、わたしは、父の代理にならないように、母親とは、心理的な距離を保っておきたい。
 父がいないと、何もできない、どこにも行けない、あと何年生きるかわからないといった、母の弱々しいセリフに、つい惑わされてしまいそうなのだ。
自分の欲求と、親の欲求の境目がわからなくなったり、娘役割に埋没したいという誘惑に駆られてしまいがちだ。
父の代わりをやらない方が、母もしっかりするかもしれない。

 出発前から、そして旅行中も、一貫して、わたしはしっかりもので頼りがいのある娘であろうとした。
しかし、どんなにしっかりしていても、どんなに頼りがいがあっても、そうすることで、彼らから承認されよう、褒められよう、そして我儘をきいてもらおうという「子供の立場」でありたいと思っていた。

 今回宿泊した宿には、プールがあった。
わたしは子供の頃は全く泳げなかったのだが、数年前にスイミングスクールに通って泳げるようになった。
よく、子供が親にほめて欲しくて、
「パパ、ママ、見てて、見てて」
と得意げに両親に見せたりするが、今回泳ぎながら、まさにそういう心境であった。
と同時に、プールで、心臓発作を起こされることもなく、年取った彼らを無事に連れて帰ってこられたという保護者的な気分もある。車のひっきりなしに走る道路を渡る時は、いつ、ふらふらと飛び出すかわからない幼児を両脇に抱えているような、ハラハラした気分であった。
 娘役割に甘んじたとはいえ、もはや、無力な子供ではいられなかったのである。

 わたしは28歳で離婚して、実家に戻った。
その時に、娘に戻ったとはいえ、当時は、2歳の息子がいたので、自分には、母親としての役割があった。
孫を連れて帰ったからとか、赤ん坊の頃に亡くなったわたしの弟の代わりを連れて帰ったから、だから受け入れてもらえたとか、どこか条件付きの思いがあった。
 そういう意味では、息子が家を出た、ここ2,3年が、純粋な娘の立場と言えなくもない。

 なぜ直前になって誘う気になったか、今も時々考える。
いつもひとりで行動することに物足りなさを感じたとか、等身大の両親と向き合うためとか、生身の人間との会話は大事だと思ったとか、いろいろ解釈の仕方はあるのだが、つまり「娘」の立場をもう一度満喫したかったのだと思う。

 こうして、2泊3日のお祭り騒ぎは終わった。
お互いに、相手の期待に沿おうと、気を使いあったという感じである。
親の期待、子の期待というけれど、こうなってくると、一体何が相手の期待かわかったものではない。
母は、たまにはこういうのもいいね、とうれしそうであった。
父は箱根湯本のパンを、またいつでも買ってくるから言ってくれ、と張り切っていた。
が、もしかして、この暑いのに旅行へ誘ってもらうよりも、たまには、風呂掃除をしてくれるほうが本当は、ありがたかったかもしれないなどと思ったりもするのである。


                                                                 2011/8