大人の会話


高校時代の部活仲間と飲み会を開く。総勢
7人。
当時回していた交換ノ―トを再開したために、これにちなんで『ぐるぐるの会』と称す。(ノ―トをぐるぐると回す、という意味で)。

卒業後30年もたてば、お互いの興味関心もさまざま、たどってきた人生も異なれば、共通の話題も限られたものになってくる。
いつも、みんなの日程調整から店の手配まで、マメマメしくこなしてくれるS君。会の最中も、なんとか座を盛り上げようと、ネタを提供してくれる。
 使えるネタなら、すべて歓迎、といった意気込みである。
 話題が尽きると、それぞれの近況を聞きだして、些細なことでも、持ち上げたり、感心したり、褒めあったりといったやりとりが続く。

こうした会合を円滑に進める秘訣は、肯定的な反応を、である。
間違っても、カツをいれたり、説教を垂れたりしてはいけない。
「息子と2年以上会っていないんだあ」というわたしの発言に対しても、
「……そっか〜すごいね、自立してるんだねえ」というフォローがかえってくる。すごいという言葉も使い方次第なのである。
 要するに、ひとごとに対して責任がないということなのであるが、そうしたつっこみはさておき、それぞれのやり方と価値感でこれまでやってきたのである。良い悪いはさておき、互いの来し方行く末を尊重しあうのは、年に12回のこの場を、快適に過ごすル―ルともいえるのである。

さて、なけなしの共通の話題のひとつに、自分の子供の話というのがある。語り口調の特徴としては、“愚痴を言いつつも、自慢する”である。
 一浪してはいった大学の偏差値が低かっただの、金がかかるだの、20歳になって今だ頼りないだのという話が、実例付きで語られる。周囲の者は、それを真に受けて、そりゃあひどいね、心配だね、もうおしまいだよ、などと言ってはいけない。
 どんな状況にも、必ずやひとつふたつのいいことはあるものだ。そこを目ざとく見つけて、即座にフォローしなくてはならない。
 逆に、うらやましいなあ、いいなあ、と羨望の対象になったのなら、そこで気をよくして自慢話を続けてはいけない。
 さりげなく、謙遜。

 そこで、あんまりこきおろし過ぎるのも、嫌味なので、あくまでもさりげなくである。
 あげたり、さげたり……。微妙なバランスから成り立っている。
自分たち自身のことならば、
「ばっかだなあ」
と、笑い話ですむことも、事、ご子息のこととなると、状況は微妙なものになってくるのである。

本音を言えば自慢したいのは山々なんだけど、親の自分がそこまで褒めちゃったら、何だか、ハシタナイ……親バカと思われたくないし。ここは少しへりくだっておいて、周りの人たちに、その分を持ちあげてもらって、収支を合わそう……というような心境なのではないか。

奥ゆかしいのだか、まどろこしいのだかわからない。

高校生当時のキャラクターは、皆、今も健在だが、長年の間には、こうした世間並みの暗黙の了解だとか、気配りとやらを、それなりに身につけてきているのである。

                           2011/8