おひとり様ようこそ
おひとり参加限定の旅に参加する。
行先は、九州、高千穂、阿蘇、耶馬渓をめぐる旅である。
新しく開通した九州新幹線にも乗れるらしい。
この旅のキャッチフレーズは、「一期一会を楽しむ」である。
初対面またはそれに準じる人々に対しては、ある程度ごまかしやとりつくろいが効く。
明るい人、面白い人というのを演じることも可能だ。
段々と愛想のよさで補いきれなくなり、他人と一緒にいることが苦痛になってくる性分のわたしとしては、この、
「その場限り」という旅行形態が、うってつけのように思われた。
これまでも、気ままに自由に過ごしたいと、何度かひとりで旅行に出かけたが、自分のたてた計画に縛られ、かえって不自由。いつも、次はどこへ、次は何を食べるかなどとあれこれ考えをめぐらしてばかりなので、目の前の景色を見ていないということにもなった。
地方だと、都心のように、頻繁に電車やバスがくるわけではない。乗り継ぎの時間が中途半端に余ったり、
ついついタクシーを使ったりと、エネルギー的にも経済的にも、のんびりと旅と楽しむといったイメージとは程遠い結果になることが多かったのだ。
それならば、いっそのことそうした面倒なことは、あらかじめ組まれた日程表やツアーディレクターにお任せしたほうが、かえって気が楽なのではないかと思ったのだ。
さらの食事の問題もある。
昼間はともかく、夕食に郷土料理など食べたいとなると、ひとりでは敷居が高い。無理やり入っても、味わう余裕などなくガツガツ食べておいとまするということにもなるのだ。
何かを食べたり見たり、感じたりした時に、あれこれ美味しいわねだの、
「あの添乗員さん、ちょっと要領悪いわね」だのといった会話をしたい時がある。
そういう時に、話す相手がいないというのはやはりさびしいものだ。
経験を共有する、共感する、ということの大事さがこういうときにわかる。
独りきりだとガイドブックとの対話になる。
そこに書いてあるように、味わおう見ようとするのだが、どうもそれほどでもない。
同行者がいれば、そこで、「意外においしくないね」という意見の一致を見ることもあるかもしれないが、ガイドブックは、一貫として「うまい、うまい」と譲らないのである。
生身の人との関わりがあると、その中でうまれるエピソードの中に、自分の話したこと、思ったことなどが位置づけられ、誰のものでもない、自分の経験として、記憶されると思う。
そうかと言って朝から晩まで特定の人と行動を供にするのはつらい。
これは、相手が友人知人でも同じ。
特に、夕方宿に戻ってからは、荷物をそこらへんにとっちらかしたまま、テレビでも見ながらボーッと過ごしたいもの。
そういう意味では、都合のいい部分だけを“いいとこどり”したというのが、この旅行の特色であろう。
都合のいいところだけといえば、2日目が今回のメイン、高千穂峡散策であった。ボートに乗る時間もあるという。
バスで隣り合わせた女性がボートに乗りたいと言う。
わたしもせっかくなら乗りたい。が、ふたりともボートはこげない。
そこで、ボートに乗るぞ!と張り切っているおじさまをふたりでキープ。
女性陣のお役に立ちたいといった感じの、サービス精神旺盛の男性が、こうしたグループには、大抵ひとりふたりは、いるものである。
こんなことは、一般のツアーでは、まずありえないだろう。
一緒に行った友人知人が誰もボートをこげなければ、断念するしかない。
個と個との関わりあい、その場に応じた流動的なつながりといったらいいのか。
片や、地図片手にひとり散策しても良し、特定の誰かと歩調をあわせなくても、行きたくもない店につきあったりしなくてもよし。
時間厳守、人に迷惑をかけなければ、しがらみなどないのである。
それにしても、女性というのは、グループを作るのが得意である。
皆、最初は初対面…のはずなのだが、熊本に着くころには、そこかしこで、話しがはずんでいる。
一体いつ、知り合ったのか。まるで旧知のような雰囲気を醸し出していて、一般のツアーに自分ひとりだけ紛れ込んだような気さえする。
学校という世界は、どこかのグループに属していないと、とても居心地が悪い。
お弁当の時間はいうまでもなく、何かイベントがあるたびに、「好きな人同士」でグループを作る。
気付くとわたしはひとり取り残され、人数が足りないグループにお情けでいれてもらっていた。
あのいたたまれなさの記憶が、蘇ってきそうになった。
最終日の朝食の時間、いつも3人でグループ行動していた女性のひとりに聞いてみた。
「一体、いつ、あなたたちは親しくなったのですか」と。
すると、行きがけの新幹線の中、たまたま隣どうしだった3人組なのだそうだ。
東京から熊本まで6時間余り。その間ず〜っとおしゃべりしていたのだとか。
なるほど、である。
わたしならば、それだけの縁で、3日の間、ずっと一緒というのは、ご勘弁願いたいと思うのだが、お互い写真を撮りあったり、方向感覚の優れた人がいっしょならば、道に迷わずに済んだりと、ともに行動するメリットも、確かにあるのだろう。
多少わずらわしくとも、話し相手や便利さをとるか、それともさびしくとも気ままさをとるか、といったところだろうか。
さきほどの3人組の例ではないが、旅行会社が組んだ座席のめぐりあわせもまた、旅の印象を大きく左右させる要因である。今回のツアーは、44名の大所帯。見渡したところ、わたしが一番若いようである。
乗り物の座席は、おおよそ、同性、同世代の組み合わせになっている。
いわゆるお話し好きなおばちゃんタイプだったらうっとうしいかも…と気をもんだのだが、行きがけの新幹線でのお隣さんは静かそうな一面、とっつきにくそうな女性であったので、かえって、黙っててもいいかな……と、適当に本を読んだりウォークマンを聞いたりして過ごした。
真ん中のB席がずっと空席であったのも、隣人との距離感としては、ちょうどよいようであった。
3日目にバスで隣り合わせた女性は、いわゆるおしゃべり好きなおばちゃん。
車窓からの風景をぼんやり見ていたいわたしとしては、できればご遠慮願いたいタイプであった。
「わたし、通路側がいいの」と窓側を譲ってくれたのはいいが、旅行に関係のない話から、飼っている愛犬の話しまで次々と話が続く。
見せられたワンちゃんの携帯写真に、あら、かわいいと、御世辞のひとつでも言おうものなら、そうでしょ、そうでしょ、と愛犬とのなれそめやらなんやらを嬉々として話し続ける。
特に犬好きでもないわたしにとっては、全くどうでもいいのである。
これならばガイドさんの少々退屈な話の方がましである。
もともと、ガイドさんの話しを几帳面に聞くたちではないのだが、そういう時に限って、何か面白い話を聞き逃してしまったのではないかと言う気がするものだ。
やがて、旅の疲れが出たのか、眠ってくれたときには、ホットした。
帰途、小倉からの新幹線では、九州新幹線でもお隣だった女性。
阿川佐和子さんに雰囲気の似た、しゃきっとした小柄な女性である。
友人からの年賀状の差出人に、友達でもない旦那の名前まで書いてあるとイラつくという話から、旦那のことを主人と呼ぶのは、奴隷みたいでイヤよね、などという話まで、割と共感する部分もあり、「会話モード」にはいる。
帰り道でもあり、そうとう疲れ気味、旅の余韻に浸りながらゆっくり寝ていこうかと思っていたのだが、まあこれも思いがけない展開ということで良し。
一方的にご自分の興味のあることを次々と話し続けるタイプの方と、帰途の新幹線でご一緒だった女性のように、自分のことを開示しながらも、相手のことも深入りしない程度にさりげなく尋ねながら会話を勧めるタイプ、対照的なおふたりと、ご一緒できた最終日でもあった。
列車が、そろそろ新横浜の駅に到着する段になると、大所帯ながら、顔ぶれもなんとなく覚え、親近感も抱き始めていたので、名残惜しい気持がした。
2,3日でそうならば、一週間以上の海外旅行なら、なおさらのことだろう。
その別れがたい感情から、メールアドレスなど交換して、その後も交流を続ける方々もおいでのようだが、旅という非日常性は日常に引きずらず、お祭り騒ぎは、あくまでもお祭り騒ぎの内だけに収めておいた方がいいのかもしれない。
わたしの場合は、見知られれば知られるほど、居心地が悪くなるといった、親密性の発達からいえば、普通の流れとは逆行する性分なのでなおさらである。
終点の東京駅まで乗って行かれる方々に、盛大に手を振ってお別れしたのであった。
そして、そうか、これがいわゆるおひとり様の旅と言うやつなんだな、と改めて実感させられたのが、新横浜に着いた時である。
5時間余りの、決して短くはない間、ずっとおしゃべりをしてきたくだんの女性が、
ホームに降り立ったとたん、
「それでは、またなにかの時に」
とさらりと言って、スタスタと歩調を速めて去って行かれのである。
まさに一期一会、あとくされのなさ、割り切りのよさは、「もはや、ここまで」と終業時刻と共に職場を飛び出すわたし好みとはいえ、なんとはなしに、寂しさを感じたのも事実である。
考えてみれば彼女の苗字さえ知らないのであるから、こうした思いは、いっときの感傷ではある。
今まで経験したことのない、他人との関係性、距離感を味わった3日間であった。
最大限のお愛想のよさと、礼儀を尽くして過ごす、一期一会の旅。
団体行動の多い周遊型の場合3日間が限度、それ以上だと、どこのグループにも属さず、やはりひとりで浮いてしまうかな、などと思いつつも、常連さんの旅話などを聞いたこともあって、次はどこへ行こうかしら、飛行機恐怖を本気で治したいわあなどと、早速旅行のパンフレットをめくったりしているところである。
他人との関係性は、いろいろあっていい。
利害関係しかないような職場での人間関係、通信大学のサークルのように、名前はもちろん、どこらへんに住んでいるのか、専攻はなにかというようなことをある程度知りあっているような関係性、そういうものの大事さも改めてわかったような気がして、年末の忘年会の申し込みをしたのであった。
2011/12