麻布今昔

14年。

 麻布十番にあるさいとうクリニックに通い始めてもう、そんなになる。
通院の期間は一般に言うと、短いに越したことはない。
そう考えると、妙な言い方になるかもしれないが、このクリニックだったからこそ、長続きしたのだとも思う。

 麻布につながったきかっけは、橘由子さんの著書『アダルトチルドレン・マザー』であった。たまたま手にした婦人公論の小さなコラムに、彼女の手記が載っていた。具体的な内容は忘れてしまったが、何かひっかかるものがあったのだろう。
 コラムから彼女の著書へと導かれ、アダルトチルドレンという語彙を知ることになり、それが私を麻布へとつないだことは確かだった。

 夏の暑い盛りだった。
今のように携帯電話もない。公衆電話のはしごをしながら道順を聞き、一の橋交差点の広々とした道路を心もとなく渡る。
ようやくたどり着いたのは、東麻布のIFFであった。
インテーク面接の後、クリニックの予約を取るよう勧められた。

 薄暗いエントランス。奥に引っ込んだ出入り口が、何とも怪しい雰囲気を醸し出している。入るのに気後れがした。

今も昔も、ここのプログラムのメインは斎藤ミーティングである。
当初、ミーティングは、東麻布の教育センターで行われていた。
 本の背表紙の写真でしかお目にかかったことのない先生が颯爽と登場する。
タレントとか、スターと同じ。
その背後をロッキーのテーマ曲が流れているような気が、当時の私には、したのである。


 シェア(話の分かち合い)をする権利獲得の方法は圧巻であった。
一番前の壇上に据えられた椅子の上に、マイクが置かれている。
シェアをしたい人は、このマイクを、先生の掛け声とともに掴み取らなくてはならない。そのため、前列は殺気立っていた。

 派手な争奪戦などには、ならなかったものの、シェアをしたい人は他人の話をゆっくり聞いている心境ではなかっただろう。
 今回はあなたに譲るから、次は私よ、といった暗黙の了解が成り立っていたが、勢いに気圧され、初めからシェアを諦めた人も多かったのではないだろうか。
 やがて会場が、702号室に移るとともに、受付の時に順番を取るという、穏便な方法になった。
好きな順番を取れるというのも、それはそれで悩ましいものである。

 一番初めは、緊張感もさることながら、まだ先生の席が温まっておらず、聞く態勢にない、という理由から敬遠される向きもあるようである。
 さりとて、3番目
4番目というのも、席が温まり過ぎて、視界ギリギリのところに、船をこぐ先生の姿が写る。
 すると、「ここ!ここからが、大事な話なんですけど」
とシェアしながら気もそぞろになる。
 トリを飾ろうとすると、緊張感をずっと引きずることになる。

クリニックの食堂が閉鎖になって久しい。
エントランスからの外階段を下りて行くと、その食堂はあった。
ガラス戸を押して中に入ると、四角いテーブルとイスが並び、壁には、患者の作った作品が張り出されていた。
絵手紙だったり、子供の絵であったり、季節ごとに、それらしい飾り付けになった。

 私が通い始めた頃、ここの食事は、何でも衣を付け、油で揚げればそれでよしと思っているような代物だった。
 頭がイカレポンチな私たちの味覚まで、壊れていると思われていたのか、
それとも、どうせ吐いちゃうんだし…と料理の手間が惜しまれていたのか。
 えんじ色のプラスチックケースには、ご飯がぎっしりと詰めこまれ、その上に、衣でふくれあがった魚が載っていた。
隅っこには、ぬくもったミカンの缶詰だのしんなりしたキャベツの千切りといったところか。
だしの効いていない味噌汁が、大振りの剥げたお椀に、なみなみと注がれていた。

 医療機関にありがちな「患者さまの声」に、おそらく苦情のひとつふたつ、いやもっと多くの注文が寄せられていたのだろう。

 やがて、賄いの委託業者が変わったのか、食事だけでなく、椅子やテーブルの配置までもが一新された。
ご飯は茶碗に、主菜は皿に、副菜は小鉢にと、当たり前の食卓風景になった。
 かつて、そこで食事をしている姿のなかったクリニックのスタッフも、見かけるようになった。

 賄いの職員は、食事に関してこだわりの強い私たちの性分をよく心得てくれていて、ご飯の量も、少なめ、とか半分、とか場合によっては、3分の1とか、そうした微妙な注文にも面倒がらずに、答えてくれた。
「この位でいい?」
 ベティさんみたいなおばさんが、愛想よく、茶碗をこちらに傾けて、いちいち聞いてくれる。

 そう聞かれると、美容院で、「長さ、この位でいいですか?」
と鏡を見せられた時のように、深く考えもせず、ついうなずいてしまう。
 もう少し多めにとか、少なめにとか言ってもいいのだが、任せきってしまいたいという気持ちもある。
 こだわりが強いとはいえ、そもそもどうでもいい事にこだわっているに過ぎないのだ。
 誰かに、このくらいが、あなたの食べる適切な量ですよ、と決めて欲しい。
その「正しさ」は、時として自分の好みよりも優先する。

 そこにあるものの有難さは、なくなってしまってから気付く。
食事が提供されなくなってから、自動販売機が2台据えられた。
厨房への入り口には板が打ちつけられ、壁になった。
ホワイトボードやスタッフの机。朝のミーティング。
6階にあった、ティールームが引っ越してきた形だ。
コンビニ弁当を温められるようにと、電子レンジが隅のテーブルに置かれている。
 だが、夕食ともなると、どうしたって、きちんとした食事をしたくなる。
手が込んでいなくても、栄養のバランスが考えられたもの。
子供の頃からの食習慣は根強いものがある。
 こんな時に、今まで手のかかった食事で育ってきたのだということを改めて知ることになる。

この10余年、変わらないものもある。
前の患者の診察が終わり、「カチャリ」と、ドアのあく音がする。
この音を聞くと今でも、気持ちがはずむ。さあて本番といったような、緊張と期待感。

 しかし、そこは生身の人間同士。
いざ、治療者を前にすると、話をそがれるように感じたり、あれほど大事だと思っていた事が、どうでもいい事のような気がしたりして口籠る。
 挙句、最近寒いせいかウツで…レベルの、さらにどうでもいいような、セリフが思わず、口をついて出てしまったりする。
もともと、死ぬの生きるのといった切羽詰まった問題を抱えていないというためでもあるのだが、しかしそれなりに重要な話題だったはずである。

私の抱いてきた思いは幻想だったのか?何を期待していたのだろうか。
診察の前に、すでに心の中で、治療者との会話が大方、済んでしまっていたのだろうか?
 言葉は大事と知りつつ、その限界を思い知ることになる。

それがわかっていながらも、毎回、性懲りもなく、この「ドア、カチャリ」の音が聞きたくて、怪しげな玄関口に朝も早よから並んでしまうのである。

 5時半―。
「それじゃ、また」斎藤先生の時を告げる声とともに、しんとしていた部屋の空気がわさわさと動く。
何人かが、先生を捕まえようと、前に進む。
 食堂があった頃なら、そこで素早く席を立ち、目が回りそうになりながら階段を駆け降りたものだが、今はそれもない。
 夕食はどうしよう。
とりあえず、地元の駅まで帰ろう。
道の両側に並ぶ飲食店に目もくれず、地下鉄の階段を目指す。
パスタ、ドーナツ、おまんじゅう…
 ランチの時間帯には、おいしいものの宝庫のように思えた街も、夕暮れの中で見ると、なぜかうら淋しい。

 

                       2012/5