就職を控えた夏、ある大手銀行の就職説明会に参加した。
女性もこれからは男性と同じように一線で活躍してくれることを我々は期待していますという説明がひととおり終わったあと、女子学生が手をあげ、
「親元を離れてひとり暮らしをしていたり、浪人していたりすると、採用に不利と聞きましたが、本当でしょうか」と質問をした。
すると、人事の担当者は、「やはり、女性のひとり暮らしとなると安全面で、問題があろうかと……。こちらもできるだけ長い間活躍していただきたいと思っていますので、結婚出産などのことを考えるとやはり年齢のことも……」と言葉を濁した。
男女雇用機会均等法の成立した年だった。転勤や出張も辞さない総合職という言葉もこの頃聞かれるようになったと思う。
何がどう変わるのか、新しくできた法律や言葉だけが一人歩きしていて、採用する側も、そしてされる側も、意識の中でそれらをどう扱っていいのかとまどっていたのではないだろうか。
しかしそういうことも、わたしには別世界のことのように思えた。
当時のOLの仕事の代名詞としてよく使われていたお茶くみ、コピーとり。
お茶くみ?コピーとり?結構じゃないの、それくらいの雑用しかしないんだから別に男性と比べてお給料が安くたってあたりまえ、もっとはっきりいってしまえばどうせ結婚するまでの間なんだし……。
女性は結婚して家庭にはいるものだから……。
そう、母のように―。
なんの疑いもなくわたしはそう思っていた。
「だって誰も食べてくれないんだもん」
「だって誰も連れて行ってくれないんだもん」
「誰もおいしいって言ってくれないんだもん」
母の口癖である。
そう言われるたびに、食卓に気まずい空気が流れた。
わたしは、母の期待にそって喜ばすことが言えなかったことに、罪悪感を感じた。
調子のいい父は、
「お!今日の米は新米か、ツヤがちがうね」と、ご機嫌をとろうと見当はずれのことを言い、
「何言うてんの。これは去年の米よ」と母の失笑をかった。
何はさておいても、主婦の役割や家族の要求にくまなくこたえようと、時にはヒステリックになりながら右往左往しているのを見ると、感情が巻き込まれていくような気がし、こちらも何かしなくてはならないのではないか、ぼんやりしていてはいけない、と、落ち着かなさで一杯になった。
自分を犠牲にして家族の要求にこたえればこたえるほど、見返りとして相手への要求もそれだけ大きくなる。
ひとに何でもやってもらって無力化すればするほど、一層相手への依存度が増す。
母はすべて父の好みに合わせ、何でも父にお伺いをたて、切符の手配、通販の申し込み、さまざまなことを何でもやってもらっていた。
お互いに相手を無力化する関係―相手が何かひとつできるようになることは、それだけで自分の役割や価値がおびやかされる。
そんな両親の関係が一般的なのかと思う一方では、どこかで歯がゆさとともに、反発を感じていたように思う。
「お母さん、あなたはどう思うの?」
「お母さん、あなたはどうしたいの?」
「行きたいところがあったら、自分で場所を調べて行ってきたらどうなの?」
工場勤めの父は毎日ほとんど同じ時間に帰宅した。その父の帰るころになると、母は、狭い部屋の中をそわそわとうろつき、落ちつかない気持ちを鎮めるように明るい声で歌を歌い始めた。
アパートの3階の窓から、道路1つへだてたところにあるバス停をしょっちゅう見下ろし、バスが到着するたびに、目をこらし、降り立つ人々の中に父の姿を見出すと、絶妙なタイミングで料理を出せるように、お風呂がちょうどいいお湯加減になっているかどうか確かめるために、台所の方へ小走りに駆けていった。
家族の帰りを待つ、家族の食べ終わるのを待つ、家族がお風呂からあがるのを待つ、家族が起きるのを待つ、家族が出かけるのを待つ、そしてつくった料理の味をを褒めてくれるのを待つ、電気屋さんに修理の依頼の電話をかけてくれるのを待つ、どこかへ連れて行ってくれるのを待つ、切符を買ってくれるのを待つ ―。
母はそうしていつも「待って」いた。
宇都宮に住んでいた頃、朝、夫を送り出したわたしはすぐに、料理の本をめくって、昼食と夕食のしたごしらえを始めた。
学校の定期試験前のように、1週間の予定表をつくり、月曜日はどことどこを掃除、火曜日は……と細かくするべきことを決め、そのとおりにした。
夫の持ち帰る給料に見合うだけの家事をこなしていないという罪悪感が始終つきまとっていた。
夜になり、車で通勤していた夫の車がアパートの下の駐車場につくと、緊張感で、からだがこわばった。
車のドアをバタンと閉める音、モルタルアパートの外階段を静かにあがってくる気配―わたしの頭の中は、食卓に夕食の皿を並べ終わるまでの手順と段取りで一杯だった。
夫は風呂上がりにビールを飲むのが習慣だったので、わたしは台所と隣り合わせの風呂場に注意深く耳を傾け、
「ザバン!」という湯船からあがる音が聞こえると、すぐさま冷蔵庫をあけビールを取り出し、席についた夫がすぐに食事を始められるように待ち構えていた。
万事ぬかりなく……そうすることで、 わたしも、母が父に期待していたのと同じ「見返り」を心のどこかで夫に期待していたのだと思う。
たいしたことができないのにと責められているように感じ、ただ食わせてもらっているという思いで、自分がどんどん卑屈になるような気がした。
同じ立場なのに、ドッカと腰をすえ、我が物顔に家の隅々まで支配しているように見えた母に比べ、わたしにはどこかが、何かが欠けている……そう思っていた。
堂々としているように見えた母も、実際は、父の手のひらの上で指揮棒をふっているにすぎなっかた。
「なんでわたしばっかりこんなに忙しい思いをしなくてはならないの」そう言いながら、母は、その手のひらから振り落とされないように必死だったのかもしれない
母が楽チンさとひきかえにした不自由さと虚しさに気づくまで、わたしはとても時間がかかった。
長い間すりこまれてきた男性なんだから、女性なんだからという役割に対して、過剰に拒否反応をおこしているからか、性差そのものについて語ることにも否定的になってはいないだろうか。
現在のわたしの職場は、病院の医事課である。
昨年度まで、医事課の4人の職員のうち3人までが男性だったのだが、病院というデリケートな職場には、やはり女性がふさわしいという人事の方針で、今年度の異動に伴い、3人が女性になった。
しかしひとくちに男性女性といっても、繊細で、細やかな応対のできる男性もいれば、わたしのように、忙しくなると
「愛想」といったものを忘れ去るがさつな女もいる。
それぞれの適正を考えずに男女の性差だけで配置をするかと思えば、一方では、男女ともいただくお給料は同じなのだから仕事の分担は当然何でも平等に振り分けられる。
それは確かにそうかもしれない。
でも、ぎっしりとカルテが詰まったコンテナを抱えてヨタヨタと歩いているのに、隣の席の男性同僚が、知らん顔して呑気にパソコンに向かっているのを見ると、
「ちょっとお!これ持ってくれたっていいじゃないの。男でしょうが!!」という言葉が喉元までせりあがってくる。
体力的な性差はあって当然なのだから、ひとこと、
「悪いけどこれ持っていただけるかしら」と頼めばいいものを、なぜか言えない。
都合のいい時だけ、男だから女だからと性差を持ち出して頼むのが、なんだかムシがいいような気がするのである。
それでなくともみんな自分の仕事で手一杯なのだから。
頼みたくない。頼っちゃいけない、自分でやらなくては……ここは平等なんだから。
でも、重い―。
と、自分の中でつまらない葛藤が起こり、ついコンテナを床に投げつけんばかりに置いてしまい、それが周りをぎょっとさせるのである。
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