特派員レポート
ルポ 見浦牧場
広島空港より、岡部先生親子の車で約2時間走ると、島根県境に近く、臥竜山(1223メートル)と深入山(1153メートル)の山すそが出会う標高700メートルのところに、小さな高原がある。この高原を舞台に和牛の一貫生産に取り組む見浦牧場があった。岡部先生の熱心な勧めにより、チクレン組織の先陣を切って、私とS調査役が岡部先生親子の案内で、平成2年3月15〜16日の両日にわたって、牧場を見学することができた。
今回の見学にあたって、私は、技術的な点は、同僚の菅井氏に任せて、ひとりのルポライターのつもりで、人物中心の視察研修に焦点を絞り込むこととした。なぜなら、岡部先生のお話によると、経営主の見浦哲弥氏の人物像が特異で異端児の印象が強烈に私の脳裏にこびりつき、会う前から、一種の好奇心に似た興味に期待をはずませたのであった。
現実に対面したときの印象は、古武士を思わせる精悍な顔形であり、凛々とした頸烈さを内に秘めてはいるが、表情はきわめて柔和であり、仏を思わせる風貌の持ち主だった。
私の人物観察の方法をこのとき変更して、とにかく牛をみることからはじめることとした。牛は必ず飼い主に似るといわれるから、牛を観察することで、見浦氏の人物像が把握できると思ったからであった。
牛群は、裏山を背景に簡易畜舎が設けられており、親牛子牛が一群となって、約100頭放し飼いとなって飼われていた。この風景を見る限り、何の変哲もない牛飼い技術である。私もかつていまから20年近く前、北海道における黒毛和種の繁殖基地づくりのため、占冠村でこれと同じ方法にて屋外放牧飼育を試みたことがあり、そのとき無惨にも失敗した経緯があり、黒毛和種は、放牧適性がなく、群管理が難しい牛だという結論が頭の中にこびりついていたので、臨場感はあり、零下20度C、積雪1.6メートルにもなるこの地で成功して、なぜ、北海道にて、占冠村はじめ白老町など各地で失敗の連続であったか、――――――。答えはすぐわかった。牛なのである。牛そのもののちがいなのである。
目の前の牛群は、確かに紛れもなく黒毛和牛である。ところが、この牛群の特徴は、いわゆる和牛の欠点である、後軀すなわち尻の小ささと四肢の細さが見事に改良されているのである。もちろん、牛群の中には、全部が全部上記のような牛群ではないが、あきらかに、意図的にそれも傲慢なほどの信念に基づく改良基準に基づく系統選抜が20数年にわたり続けられ、見浦牧場の牛群の血統の源流となって、今脈々として流れるのを見るのである。
島根牛でもない、ましてや広島牛でもない。日本の何処にも見ることのない土産種見浦牛ともいえる牛群を作出しているのである。強健性、群飼性、放牧適応性のためには、和牛の生命でもあるサシの価値観を大胆に捨て去る勇気と主流にさからうためにまねく姑息なまでの見浦バッシングに耐える忍耐力と反骨心が牛群の中に生きて、見浦哲弥氏の人物像とオーバーラップして、和牛の故郷中国山地に生命の迸りを、見る人来る人に感銘づけてくれる。
牛は風土の産物である。
もともと和牛は、日本古来の土産種である。だから、和牛は、日本の国土に適合した牛であるといえよう。しかし、日本の風土が北から南に細長くのびて、それぞれの気象、土地その他の違いがあるように、その土地土地に一番適した牛がそれぞれあってもよい。和牛も風土の産物である以上、土地土地に合った和牛があってもよい。こんな当たり前のことを、当たり前に実践しているのが見浦牧場である。
しかし、これまでの見浦牧場に対する世間の風当たりは想像を絶するものがあったと思う。ことの発端は、昭和40年から41年にかけて、京都大学上坂教授と広島県農政部の中島部長の間で、有名な和牛の一環経営論争が行われたときにさかのぼる。繁殖経営と肥育経営は分離するべきであるとの説は、今でも定説で動かしがたい権威となっているが、見浦氏が中島部長と、その権威に対して反旗を翻したとき、見浦氏の異端の歴史が始まる。
風雪20年の歳月の間に、日本列島の過疎化は中国山地で先鋭的に進み、若者は、村を捨てた。見浦氏の息子も家を出て、妻と二人三脚の経営が続く。貧乏の限りをつくしながら、一貫経営を頑なにつづける。いい牛が買えないので、やむをえずわるい牛にいい種牛を交配して、その子を次の基準で選抜して、またよい種牛を交配するという繰り返しを激しく行ったという。
先進地や試験場を家族ぐるみで視察研修して、先進技術の習得に努めた一方、毎日毎日の牛飼いの中から、独特の技術を習得し続けてきた。
牛は学習する。―――との名言も見浦氏の実践から得られたもので、見浦牧場の牛群が見事にトレーニングされていて、見浦氏のかけ声ひとつで、見事に行動することが、多頭数群管理が省力的に行われる秘密になっている。
また牛を囲わず、人家や畑に柵をする。これも逆転の発想だ。
サシとD/G(肉1キロ生産するために必要なエネルギーを麦の量に換算したもの)は反比例することをあらゆるデータの中から引っ張り出して、サシをほどほどにする技術を習得している。
徹底的な省力管理。それも雪深い山地での周年放牧が貢献している。牛に牛を管理させる発想も、見浦氏独特の発想だ。現場主義に徹底して、現場から技術体系を組み立てていく手法は学ぶべきことが多い。
農業は、時間の長さの勝負だ。――――これも見浦氏の人生観をあらわす言葉だ。見浦牛を見ていると、確かに時間の長さがひしひしとわが身に迫る思いがする。
二日間の見浦牧場の滞在の中で、見浦牛に接し、見浦氏とその家族とに接する機会を得て、強く感じたことは、農業にあくまでこだわり続ける農魂主義ともいえる土への愛着を最後の砦として、商業感覚を極度に拝するなかで、権威主義だけがのさばる保守の象徴的存在である和牛界に徹底的に反抗した見浦牧場のもつチャレンジ精神のすばらしさであった。
農業にこだわることは、自分にこだわることであり、自分の生き方にこだわることでもあった。ともすれば、頑迷固陋な生き方に誤解されがちであるが、見浦氏に限り、きわめて近代的で、知性に裏打ちされたフレキシブルな経営感覚は、まさに新しい農民像のモデルともいえるのではないだろうか。
見浦牧場は牛肉自由化を堂々と迎え撃つという。今こそ待ちに待ったビジネスチャンスという。
サシ重視型の牛肉生産を指向すれば、生き残れるはずなのに。
答えはすぐに返ってきた。
霜降り志向は消費者の声ではない。――――。
今回の見浦牧場の見学は、チクレン組織の技術者として、生産技術の習得が目的だった。学ぶべき多くの技術があったが、なによりも私個人にとっては、和牛に対する不幸な固定観念が払拭されたことが一番の収穫であった。
見浦牧場の牛群を北海道につれてきて、見浦方式で和牛一貫経営を試みても、おそらく成功はしないだろう。見浦牛は見浦牧場を離れたら、ただの牛となる。見浦牧場の技術のノウハウをもってしても何の役にも立たないだろう。
ただ、われわれが北海道に持ちいれることができるものは、いや、ぜひとも取り入れなければならないものは、見浦牧場の経営理念と経営姿勢に他ならないと思う。
春まだ浅き中国山地。街にでた息子も帰ってきた。
子供は親のコピーになってはいけない。
三年後には、息子に経営権を譲るという父の顔に、「農業は生命の継続なり。」の信念と自信が現れていた。
北海道チクレン農業協同組合連合会
調査役 Y.Y