特派員レポート

生と死と


 あれは、亮ちゃん(息子のお嫁さん)がお嫁に来るまえの年だから、8年前になりますか、戸河内町の農業委員だった私は、委員会のあと恒例の忘年会に出席したのです。
 年末で、牧場は猫の手も借りたいほどの忙しさの中ですから、心ここに有らずの心境で、乾杯が済んで座が盛り上がり始めた頃を見はからって帰宅したのです。
 当時、見浦牧場には、渡辺君(次女の夫君)から貰った初代ファミリアと、律ちゃん(3女)が置いていった軽自動車のミラがあったのです。朝、家を出るときに、今日はどちらで行こうかなと迷いました。ファミリアはターボ付きでしたから、燃費がかなり悪くて、いつもだったらミラで行くのに、この日は何故かファミリアが気になって、この車にしたのです。おかげで命拾いをしたのですが。

 12月21日、何日か前に降り積もった雪もほとんど消えて、新品の雪用タイヤの車は快調でした。虫木峠の登りは、先日、和弥と取り替えた部品のせいもあって、10万キロも走った車とは思えないような走りでした。峠のトンネルを過ぎると所々に雪が残ってはいたけれど、雪路を感じる事もなく家路を急ぎました。
 松原の新田工業の前で、私の前を走っていた中型の乗用車が大きくスピンしました。
よくみるとノーマルタイヤ、時は12月、ここから先は残雪も増えます。これは追い越した方がいいなと判断して、加速し、追い抜いて自分の車線に戻って減速した直後、事故にあったのですから、ついていませんでした。

 新田工業の前と、ホテル”いこいの村ひろしま”の間に、カーブを描く大きな橋があります。8年も前は、道路脇の立木も小さくて、100メートルあまりも見通しがきいたのですよ。その橋が見えた瞬間、黒い車が視野に飛び込んで来ました。「なに?」と眼を凝らすと、橋の上で横滑りした車が、私の車線に飛び込んで圧雪状態の残雪の上を滑走してきます。驚く時間は有りませんでしたね。私も雪国で30年以上も運転しているのですから、すぐ相手の車の前輪を見ました。この車もノーマルタイヤ、おまけに車輪が横向きになってロックしています。運転手を見ると顔面が硬直してハンドルにしがみついているだけ。その時点であきらめました。「これは助からねー」
こちらの速度は50キロ位、相手の車は私より速いようでしたから、ほんの数秒しかなかったのでしょうね。衝突の瞬間は覚えがないのですよ。

 どのくらい、意識がなかったのかわかりません。
最初に青空が見えました。本当に青い青い空でした。ああ事故にあったんだな、俺は死んだのかな、と思ったのですが、視線を動かしたらグチャグチャになったボンネットが見えました。相手の車が大きくのしかかつています。おお、まだ生きているな、これが俺の最後か、私の人生は、こういう形で終わる事になっていたのかと、感ひとしおでした。

 それから、頭がものすごい勢いで回転し始めました。
まず体の情勢分析、首から下が全く感覚が有りません。手は動くかと確認すると、右手が辛うじて命令に従います。そこで、運転席の潰れ方から、下半身はどこかちぎれているな、と判断したのです。そうなると出血でまもなく意識はなくなるな、残された時間をどう使おうかと考えましたね。

 そうだ、晴さん(家内)に礼をいっていない、長い間苦楽を共にした彼女にそれだけは伝えなくては、と。
そうなると、短い時間で、動く右腕だけでどうやるか。上着の左腕を見ると腕にある鉛筆ポケットに、鉛筆が差してあります。会議にはいつも新しい作業衣を着ていく習慣を感謝しましたね。あそこなら手が届きそう。少しずつ少しずつ手を伸ばして鉛筆が取れた。芯も折れていない。つぎは書き込む紙です。手の届く範囲は限られています。幸い左の胸に広告の紙が入っていました。焦りましたね。「急げ急げ、意識がいまにもなくなるぞ、ここまで出来たのに全部無駄になってしまうぞ」と。
「晴さん、長い間有り難う」、書き終わってやっと安心しました。
不思議な事に、痛みもなければ、怖くもない、まるで人事の様に考えて行動している、そんな自分が驚異でした。

 でもまだ意識があります。この時間も、もったいないなと、思ったのです。そしてさっき書いた文面を見ると、いかに文字が汚い、これでは書いた本人しか読めないや、もう一度書き直そう、今度は丁寧に書いて時間が足りなくても、その時は前のやつが役にたつはず、そう考えたら焦る気持ちが落ち着いて、すこしはきれいに書けたのです。文章に書くと随分長い時間のように感じるけれど、ほんの1分か2分だった気がします。

 さてそれでも意識がありました。私は子供達を育てるとき、最後の最後まで努力するようにと教えました。それを思い出したのです。駄目にしても時間のある限り全力を挙げる、それをやってみるかと考えました。まず足がついているか、下半身がどうなっているか、確認してみるかと・・・・、右側のドアはメチャメチャですから、つかまるところもない。ところが左側のドアは傷んでいないので開くかも知れない。それには左手も使わないと。・・・・懸命に左手を動かそうとすると、僅かづつ動くのです。いける、と思いました。手を伸ばしました。あと少し届きません。体を倒す事にしました。少し上半身が動きます。何とかドアの取っ手に手が届きました。死んでも離すまいと思いましたね。死にかけているのにね。まだ意識があります。レバーを押すとドアは動きます。しめた、と思いました。大きく息をして、渾身の力をだして体を引っ張りました、驚いたことに下半身がついてきます、おお、ちぎれてないやー、内出血か。

 そこで、助かるかもしれないなと考えた途端、死ぬことが怖くなりました。それまでは、恐怖など微塵も感じていなかったのに。・・・・・、退院後に読んだ医学の本に、「助からないと覚悟を決めたら、脳内にエンドルフィンと言うホルモンが大量に放出され、恐怖心を麻痺させる」と書いてありました。麻薬と同じ効果があるそうですが、まさにさもありなんという現象でした。
 ドアを開け、体を車から引き出して、側溝に転落したのですが、もうその時は怖くて、怖くて、早く救急車が来ないかとそればかりでしたね。通りかかった島川君(隣家の主人)が「見浦さん、しっかりせいや。」と言ってくれたのに、家への連絡を頼むのが精一杯。生きてるうちに止血剤をうってくれ、そしたら助かると思って。・・・・・。

 しかし、この事件は私に色々な事を教えてくれました。瀬戸内寂聴さんが、その評論の中に「生まれたときから、死が約束されている」と書いていますが、生物が生まれてから、長い長い年月の間に、私達は命の終わりに対応する方法を、学んでいるのだと思うのです。エンドルフィンの効果は、まさにそうして身につけた対応方法のひとつなのではないでしょうか。
 この様に考えたら、随分と気が楽になりました。

私も、人生が残り少なくなりました。まもなく終末ですが、要は最後まで全力で生き抜く、置かれた立場を正確に把握する、そして、あとは自然の大きな力に身をゆだねる。そうすれば、恐怖も、不安も、未練も、消え去って、平常心を持つ事ができる、こう考えたのです。大きな大きな収穫でした。

”生と死”、事故の中にも、教室がありました。

2002年4月29日 見浦 哲弥

(掲載:2002年10月20日)