特派員レポート 生と死と あれは、亮ちゃん(息子のお嫁さん)がお嫁に来るまえの年だから、8年前になりますか、戸河内町の農業委員だった私は、委員会のあと恒例の忘年会に出席したのです。 12月21日、何日か前に降り積もった雪もほとんど消えて、新品の雪用タイヤの車は快調でした。虫木峠の登りは、先日、和弥と取り替えた部品のせいもあって、10万キロも走った車とは思えないような走りでした。峠のトンネルを過ぎると所々に雪が残ってはいたけれど、雪路を感じる事もなく家路を急ぎました。 新田工業の前と、ホテル”いこいの村ひろしま”の間に、カーブを描く大きな橋があります。8年も前は、道路脇の立木も小さくて、100メートルあまりも見通しがきいたのですよ。その橋が見えた瞬間、黒い車が視野に飛び込んで来ました。「なに?」と眼を凝らすと、橋の上で横滑りした車が、私の車線に飛び込んで圧雪状態の残雪の上を滑走してきます。驚く時間は有りませんでしたね。私も雪国で30年以上も運転しているのですから、すぐ相手の車の前輪を見ました。この車もノーマルタイヤ、おまけに車輪が横向きになってロックしています。運転手を見ると顔面が硬直してハンドルにしがみついているだけ。その時点であきらめました。「これは助からねー」 どのくらい、意識がなかったのかわかりません。 それから、頭がものすごい勢いで回転し始めました。 そうだ、晴さん(家内)に礼をいっていない、長い間苦楽を共にした彼女にそれだけは伝えなくては、と。 でもまだ意識があります。この時間も、もったいないなと、思ったのです。そしてさっき書いた文面を見ると、いかに文字が汚い、これでは書いた本人しか読めないや、もう一度書き直そう、今度は丁寧に書いて時間が足りなくても、その時は前のやつが役にたつはず、そう考えたら焦る気持ちが落ち着いて、すこしはきれいに書けたのです。文章に書くと随分長い時間のように感じるけれど、ほんの1分か2分だった気がします。 さてそれでも意識がありました。私は子供達を育てるとき、最後の最後まで努力するようにと教えました。それを思い出したのです。駄目にしても時間のある限り全力を挙げる、それをやってみるかと考えました。まず足がついているか、下半身がどうなっているか、確認してみるかと・・・・、右側のドアはメチャメチャですから、つかまるところもない。ところが左側のドアは傷んでいないので開くかも知れない。それには左手も使わないと。・・・・懸命に左手を動かそうとすると、僅かづつ動くのです。いける、と思いました。手を伸ばしました。あと少し届きません。体を倒す事にしました。少し上半身が動きます。何とかドアの取っ手に手が届きました。死んでも離すまいと思いましたね。死にかけているのにね。まだ意識があります。レバーを押すとドアは動きます。しめた、と思いました。大きく息をして、渾身の力をだして体を引っ張りました、驚いたことに下半身がついてきます、おお、ちぎれてないやー、内出血か。 そこで、助かるかもしれないなと考えた途端、死ぬことが怖くなりました。それまでは、恐怖など微塵も感じていなかったのに。・・・・・、退院後に読んだ医学の本に、「助からないと覚悟を決めたら、脳内にエンドルフィンと言うホルモンが大量に放出され、恐怖心を麻痺させる」と書いてありました。麻薬と同じ効果があるそうですが、まさにさもありなんという現象でした。 しかし、この事件は私に色々な事を教えてくれました。瀬戸内寂聴さんが、その評論の中に「生まれたときから、死が約束されている」と書いていますが、生物が生まれてから、長い長い年月の間に、私達は命の終わりに対応する方法を、学んでいるのだと思うのです。エンドルフィンの効果は、まさにそうして身につけた対応方法のひとつなのではないでしょうか。 私も、人生が残り少なくなりました。まもなく終末ですが、要は最後まで全力で生き抜く、置かれた立場を正確に把握する、そして、あとは自然の大きな力に身をゆだねる。そうすれば、恐怖も、不安も、未練も、消え去って、平常心を持つ事ができる、こう考えたのです。大きな大きな収穫でした。 ”生と死”、事故の中にも、教室がありました。 2002年4月29日 見浦 哲弥 (掲載:2002年10月20日) |