特派員レポート

和牛の一貫経営で思うこと  〜見浦牧場の経営戦略〜


最近BSEの後遺症や飼育農家の高齢化で、和牛の飼育頭数が減りました。その影響があってか、牛価の高値どまりが続いています。そのせいで、なんぼで売れた、儲かったで、とか、どの雄牛の種を使ったら儲かるんなら、とそんな話ばかり耳にします。私が牛を始めた40年前とまったく同じです。この40年の間に日本も農村も天地がひっくり返るほど大変動があったというのに、考え方はまったく変わっていない、悲しいことです。

私が和牛に一生を費やすきっかけとなったのは、時の広島県の農政部長の中島建先生の「今の和牛は投機だ、これを産業にしなければ和牛は生き残れない」の言葉ですが、今も、そのまま、忠言として伝えたいと思っています。

よく、和牛だけでなく、日本の農村は崩壊した、再生しなければ、のかけ声は耳にはしますが、どう再建するのか、答えはだれも持っていない。それが現状のようです。

特に現場の農民が物事を根本から考えようとしない、さしあたって儲かったら、若い人も農業に帰ってくれるだろう、自動車を買ってやったら家を継いでくれるだろう、そんな甘い考えの仲間たちを見るのは、心が痛むことです。

見浦牧場では、問題に行き当たったら、できるだけ根本に近い考え方を模索します。たとえば、病気で熱が出たら、熱さましを飲むのではなく、何が原因なのかと、前日までの健康状態、食事、仕事、対人 等を考えるのです。その結果、病院にいくのか、薬を飲むのか決める。でも、そんなことは誰でも実行している。ですが、その考え方を、農業を考えるときも、牛と付き合うときも、経営を考えるときも、機械を修理するときも、経済を予測するときも、応用しているのです。

もちろん、素人ですから正確に予測し、判断することは出来ません。しかし、知識が足らないときは、先進地を歩き、先輩に指導を仰ぎ、読書をし、情報を検索する、そして、現象を繰り返し繰り返し観察する。模索の中から結論を引き出すのです。

しかし、それでもうまくいかない、試行錯誤の連続、壁に突き当たっても、あきらめない。当たり前のことですが、それが見浦牧場が生き残った一因だと考えています。

昭和38年から始まった和牛経営も、児高との協業が解消して、単独経営に復帰し本格的に畜産経営を始めたころ、広島県も新しい和牛経営の構築を検討していました。昭和41年ごろのことです。

当時は和牛はあたれば儲かるが、そうでなければ儲かるのは馬喰(ばくろう)さんだけ、が実情でしたから、利益を上げるにはコストを下げるか、特別の高値を狙うかの二者択一でした。もちろん、見浦牧場はコスト低減を第一の目標としました。何しろ、山県郡の牛は、広島県の最低ランクでしたから、高値を目指すなど考えられませんでした。

そのころ、前述の中島先生をはじめとする広島県の畜産技術陣は、和牛の将来像を、多頭化と放牧技術の導入、そして、子牛生産から肥育仕上げまでをひとつの経営の中で行う一貫経営でと提案していました。その実現化の実験として、油木の種畜場で多頭化試験が行われたのです。無畜舎、群飼育も取り入れて。これもコスト削減には重要な技術で、私は大賛成、多いに同感したのです。2年続いた試験が好成績に終了した後、この方式を県の方針として、芸北町の大規模草地開発(のちの畜産事業団)が採用したのです。

昭和41年、この地方を38(さんぱち)豪雪に劣らない大寒波が襲いました。降り続く雪の中で、マイナス10度以下の日が続いたのです。そして、最低気温はマイナス24.5度の低温を記録しました。無畜舎で越冬をしていた牛群には過酷な寒さでした。

見浦牧場はかろうじて間に合った小さな畜舎に牛がもぐりこんで難をさけ、畜舎に入れない牛は建物の影で吹雪をしのぎました。でも冬が終わってやっと命をつないだときは、見る影もないやせ衰えた牛ばかりになっていました。

しかし、建物がほとんどない、芸北町の事業団の牛は悲惨だったといいます。寒さと雪との闘いで体力を失った牛たちは、雪の中に座り込んで立てなかったと。降り続く雪に埋もれて、やがて息絶えた牛は、あくる朝、吹雪のやんだ雪面に角だけが並んでいたと聞きました。

ここから、見浦牧場と事業団の対応が違ったのです。事業団の人々は、この厳しい気象条件では、冬期の無畜舎飼育は難しい、と翌年から畜舎の建設が始まりました。ところが、見浦牧場には、畜舎建設の資金がありません。どうやってこの難問をクリアするか、考えて、考えて、考え抜きました。

そのとき、冬を越して弱りきった牛の弱り方に違いがあると気づいたのです。

牛は品種によって気候に対する耐性が違うと聞いていました。チベットの牛は寒さに強く、インドの牛は暑さに強いなど、もしかしたら、同じ品種の中でも気候への耐性が違うのではないか、それなら、選抜淘汰の繰り返しで、寒さに強い牛を作ればよいではないか。それが門外漢(私は電気工学が専攻で、電気事業主任技術者の資格の2種と3種をもっています)の強いところで、大胆に結論を出したのです。

そのころ、見浦牧場は、子牛生産もうまく機能していませんでした。当時は、授精技術の転機でして、人工授精法が普及し始め、各集落にいた県貸付の種雄牛が廃止になり、従前の方式だと、10キロ離れた八幡まで種付けにつれていかなければならなくなりました。ところが人工授精だと、技術の未熟もあってなかなか受胎しない。これも経営の死活問題でした。そこで、これも同じ発想で対応したのです。

人間でも、子沢山の家庭もあれば、子宝に恵まれない家庭もある。そして、子供の多い家庭は代々兄弟が多い。これは遺伝の力が大きいからだろうと。それなら同じ哺乳動物の牛も同じはず。これを選抜の条件にしよう。

ある会合で和牛の飼育技術の指導がありました。席上、かくあるべき、こうすべきとの話のあとで、私は自分の牧場の条件にあった牛をつくって、対応しようとおもうと申し上げました。ところが、指導の先生は、「そのような仕事は試験場やブリーダーのような専門家の仕事で、農民が個人でやるのは不可能だ」と断言されました。

頭にきましたね。何しろ最終学歴小学校卒の劣等感の塊の私ですから、「なに?素人にはできない?バカにするな!」と憤慨しました。

田舎ではどんなに良い意見でも、高い学歴がないと「いうだけなら誰でもできる」と一言で片付けられて、相手にしてもらえません。ところが目の前に結果を突きつけると、何も言わなくても認めてくれます。二十代のはじめ、肥料計算をして稲の多収穫裁判に成功したときは、一夜にして私に対する評価が変わりました。もっとも、あいつは何を考えているのかわからない、用心しなければ、という声も大きくなりましたが。

そこで、それなら、見浦牧場の牛を作って見せてやろうじゃないか、と心に決めました。なぜ、専門家でないと牛の改良が出来ないのか、選抜淘汰で難しいのは何なのか、考えましたね。ちょうどそのころ、長男の晴弥が九州大学の農学部に在学していましたので、彼に、なぜ専門家でないと選抜淘汰ができないのか、専門書で調べて、教授に確認してくれと頼みました。

そしてその答えは、牛の選抜淘汰は非常に長い時間が必要である。そして、選抜淘汰は、途中で要素の変更をすると、目的に到達することが難しい。そういう意味合いの答えが返ってきました。つまり、最初に何十年後の目標を正確に立てることが、素人には難しいということでした。

たとえば、和牛登録教会の評価基準の中に骨味という項目がありました。枝肉重の中の骨の重量が少ないほど、肉屋さんが喜ぶ、ということで作られた項目だったのですが、放牧飼育を始めたら、この項目の評価が高い牛は皆脱落してしまいました。骨の細い牛は、放牧のような運動量の多い飼育方法には耐えられなかったのですね。それで専門家の皆さんにお会いする度に、この点を指摘して、あなたはどのように和牛を改良したいのですか、骨が細くて、舎飼しかできないモヤシ牛が目標ではないでしょうね。と申し上げていたら、いつの間にかこの項目がなくなりました。

ことほど、長期の目標を立てるのは難しい。そういうことだったのです。ところが、私たちはこれが問題になるほど困難なことだとは理解できませんでした。

私たちの供給する商品は、サラリーマンの人たちがちょっと奮発すれば買って貰える、それぐらいの価格で、最高の旨い肉を提供する、それが最終目標でしたから。

家内の晴さんいわく、「一部の金持ちに食べてもらうために、人生をかけて牛肉をつくる、そんなバカらしいことはできない。」強い支えでしたね。

目標が決まっているのですから、あとは簡単。出来るだけコストが下がるような牛を作ればいいのですから。見浦牧場の環境で、健康であること、赤ちゃんをたくさん産んでくれること、肉屋さんが喜ぶサシはほどほどでよいこと、 など、選抜の指標を作ったのです。

1.寒さに強いこと(寒さに強い牛は晩秋になると綿毛が生えてくる)

2.放牧向きの体形であこと。(骨格がしっかりしていて、ある程度足が長いこと)

3.多産型であること(発情が発見しやすい、排卵時期が発情期間とずれない、分娩後発情再起日数が短いこと など)

4.哺育能力が高いこと

5.肉牛として早熟であること

6.肉質はA3以上であること

目標が決まれば、あとは生まれた子牛を結果で選別するだけ、雄は肥育牛として出荷して、成績がよければその母親を極力繁殖牛として長期利用する。雌の場合は、その生育状況、初産の種付け・分娩・子牛の哺育状況をその母親の成績とする。簡単なことです。

ただし、時間はかかります。雄の場合は24ヶ月から27ヶ月後、雌の場合は、最短でも26ヶ月後になります。(生まれた子牛の生育を見ますので)。ですから、あの母親は優秀とわかったときには、他の理由で淘汰されていることもあって、「しまった」ということもおきますが、長い年数を続ける間には、いつの間にか牛が変わっていくのです。

私は視点を変えさえすれば、凡人にも何十年先の目標を正確に立てることができると思います。目標が立てられれば、ただひたすらに目標に向かって歩き続けるだけ。

雪国で暮らす私たちは、新雪の中では目標を決めて歩かないと、まっすぐ歩けないことを知っています。

経営は目には見えません。それなのに、目標を持たない、金儲けだけが目標というのでは、経営が安定するのは夢物語です。

まして、農業の中でもっとも時間のかかる和牛の一貫経営で正確な目標を持たないということは、即不可能のレッテルをはることです。

私の友人で、小規模ながら一貫経営を目指した男がいました。彼いわく、「俺は六年も一生懸命牛を飼ったが、旨くいかなかった。」と。私は絶句しました。たった、6年では何も変わらない。それは、時間と資本の浪費だと。

でも彼のような農民は珍しくありません。見浦牧場に見学にこられた人の中に「もっと早よう儲かる話をしてくれー」と発言された方が何人かいました。それが農村の一面でした。

長い年月が過ぎました。そして、ここ、芸北地区の和牛農家は激減しました。でも失敗の本当の原因はなんだったのか、理解をした農民にはまだ出会っていません。

根本に帰って目標を持つ、少しづつでも独自の技術と実績を積み上げる。私はこれが和牛経営の基本だと思うのですが、依存として繁殖と肥育経営は分離されていますし、乳牛の仮腹のスモール肥育を一貫経営と称するにいたっては、和牛経営を産業にとの中島先生の夢とは、似ても似つかぬ形だと思っています。目標達成の一過程だとするのなら許されるとは思いますが、やはり、基本は忘れず追求していく、この姿勢は何よりも大切だと思うのです。私たち、見浦牧場は、これからもこの道を歩き続けます。

心あるかたがたの声援を期待しながら。

(掲載:2005年12月10日)