特派員レポート

ヒューマンリング


 74歳、人間もこのくらいの年になると、自分の人生を振り返ることが多くなります。もちろん年寄りのサガで、前向きとばかりは行かず、愚痴や悔やみ事がでて、晴さん(家内)に叱られることも多くなりました。が、振り返ることのできる人生をもてたことはすばらしいと思っています。

 私の父母は、当時はまだ少なかった自由主義思想の持ち主で、自分の人生は自分が責任をもって懸命に生きる、これが、ものごころがつき始めた子供のころからの教えでした。たった一度の例外を除いて。

 福井の家は小さな二件長屋の貸家でした。夜になると一人、二人と父の中学校の生徒が二階に消えて遅くまで勉強していく。何も話してくれなかった父に子供だった私はその本当の意味を知ることはありませんでした。でも、何年かして十代の中ごろ、蔵の中で見つけた古い手紙がそれを教えてくれたのです。「先生にはお世話になりました」そんな意味の手紙の山でした。
 昼の授業についていけない生徒の補習を自宅でしていたのでした。生徒さんの顔を覚えることがありませんでしたから、いろんな人が来ていたのでしょうね。そんな話は父の口からは一言も出ませんでした。

 成人してからも、思いがけない人たちから、あなたのお父さんにはお世話になって、とお礼をいわれて驚くことがありました。
 昔の貧しい農村には、母乳の足りない乳飲み子に粉ミルクを買えなくて、重湯で代用し、栄養不良にする貧しい農家が多かったのです。父はそんな話を聞くと、そっとミルクを贈り続けたといいます。私は30代のころ、やむを得ず町会議員に立候補したことがあります。集落のおきてに従わなかった私は、地元で、見浦にだけは投票するなと運動がおきる騒ぎで、14票の差で見事に落選しました。
 選挙が済んで町内とお礼とお詫びに歩いたとき、いたるところで、「あんたは大畠(注:おおばたけ。見浦の屋号)の先生の子か」と聞かれたのです。「はい、そうです」と答えると、烈火のごとく怒られて、「なぜ、それを選挙のときに言わなかったのか。それがわかっとったら、どんな無理をしても、お前に投票したのに」と。

 こんな思い出があります。小学校4年生のとき、宿題を忘れたのです。夜遅くなっても勉強せず、ぐずぐずしている私を問い詰めた母は、原因がわかると、支度をしなさいと私を連れ出しました。夜道をずいぶん歩いた覚えがあります。三国は北陸のおおきな港町、子供心にえらいことになったと思いました。ところが、とある家を「こんばんわ、夜分遅くにすみません」と訪れました。戸を開けて出てこられたのは、担任の渡辺先生(たしか渡辺だったと機を苦していますが)が「まぁ、野村先生(母の旧姓)、こんな遅くに何事です?」と驚かれ、母が「実はこの子が宿題を忘れて、どんな宿題だったのか、伺いに来たのです」と話すと、「そんなことで、わざわざおいでになったのですか」と大変恐縮されたのです。先生は母の教え子だったのです。何度も何度も「先生には大変お世話になって」と繰り返されるのを聞いて、そんなことを一度も口にしなかった母を見直したのです。後年、欠点だらけの私が、少しは他の人たちのお役に立てれば、という気持ちがもてたのは父母のおかげだったと思っています。

 私の家族の中では、人が困っていたら、自分が相手の立場だったらどうして欲しいかを考えてみようと話し合っています。そのきっかけはこんな話からでした。

 私たちの集落、戸河内町(注:現安芸太田町)小板は、広島市と益田市を結ぶ国道191号線の沿線にあります。標高が800メートル前後の多雪地帯ですから、冬季も除雪がされて自動車が通行できるようになったのは40年前、隣部落の樽床にダム(聖湖)建設が始まったときからです。未舗装の1車線ですから、雪が降ると落輪やスリップで事故続出、救援依頼がありましたね。まだJAFなどの組織がない時代のことです。
 私たちは手すきの人間を動員して、道具を持って集まりました。道具といってもチェーンブロック、手回しジャッキ、スコップぐらいで、あとは人海戦術。まだ人助けに疑問を持つ人はいませんでした。

 ところが、あるとき問題がおきました。助けられた運転手さんがうれしさのあまり、皆さんでお酒でも召し上がってくださいと、金一封を置いていったのです。これは金になると思った人が出ました。純朴な村人が、人の弱みに付け込む商売人に変ったのです。ある日、例によって動員がかかりました。
 指定されたところに行くと、代表が運転手さんと交渉しています。聞くともなしに聞くと、その金額では少ない、もう少しだせ、いや、今はこれしかない、後で色をつけるから、との駆け引きでした。
 人助けだと人を集めて、商売をするとは、と憤然としましたね。
 当時は貧乏のどん底。広島に牛のえさをとりに行くにもスクラップ同然のトラック、財布に余分なお金を入れる余裕はありませんでした。自分があの運転手さんの立場ならどんな思いをするだろうと考えるといたたまれませんでした。

 何日かして、ふと頭に浮かんだのは、それが間違いだと思うなら、加わらなければいいじゃないか。自分たちは別のやり方で人助けをすれば済む話だと気がつきました。

 それからは、私のところに直接救援依頼があると、家族で手持ちの道具を動員して出かけました。
 チェーンブロック、ワイヤー、トラック、トラクター、道具は少しずつ増えてゆきました。最初に下見をして、自分たちの手に負えないと判断したときは、どこどこの業者に依頼をとアドバイスしたりして。
 そのうち「牧場の見浦に相談しろと言われて」と訪ねてくる人も出始めて。携帯電話とJAFが普及するまでは多かったですね。

 ところが、救助作業が済んで帰りかけると、いくらお礼を差し上げたら、と言われる。困っている方々へのささやかな奉仕です。と申し上げても、理解されない人のほうが多かったのです。
 「私たちは大変忙しい。お金で解決されるのなら、他の方を頼んで欲しかった」「それでは気がすみません。お礼を受け取って」と押し問答でした。そこで、それなら一度で結構ですから、困っている方がいたら助けてあげてください。世の中は回り灯籠、お互いに助け合えとおしえられましたからと、申し上げて納得してもらいました。

 ある年、大規模林道に例によってトラックが迷い込みました。積雪は30センチ、町境からは下り坂ですから、何とか車は進みます。ところが見浦牧場から1000メートルあたりで急に雪が深くなり60センチあまりにもなるところがしばらく続くのです。車はそこで立ち往生、引き返そうにも今度はのぼり、救援依頼がありました。

 ところが4トン車に荷物を満載。見浦の機械では力が足りません。「気の毒だけど、ウチの力ではどうにもならない。こらえてや」と現場を見て断りました。家に帰って牛を飼うためにショベルに乗っても、運転手の「仕方がないですね」といった、さびしそうな顔が頭を離れません。そこで、除雪をするならどのくらいの時間がかかるか、確かめてみようと思いました。距離は約1000メートル、山国の冬、天候はいつ激変するかわかりません。出来ることなら、と思いましたね。

 除雪をしてみると、雪が案外軽い。2台で掘れば間に合うかもしれない。そう考えました。しかし、雪道は南面と北面では雪質が大きく違います。賭けでした。

 牛を飼い始めていた和弥(次男)を呼んで、2台でやれば何とかできるかも、牛はそれから、と相談すると、やってみるかとの答え。それから2人で除雪を始めました。わき目も振らずにね。作業を始めて1時間。半分も除雪したころ、車を締め切って、後始末をした運転手が現場から帰ってきました。「何とかなりそうだから、機械で除雪できない車の周りはスコップで掘ってくれ」。あきらめていた彼は喜色満面で取って返しましたね。

 それからさらに1時間。ようやく現場まで除雪が完了したときは、私たちもへとへとでした。大急ぎで牧場に帰って牛に餌をやらなくては、と帰り始めた私たちに、彼は飛んできて例を言いました。「どういうお礼をすればいいのでしょうか」と。
 例によって、いつもの返事をした私たちに、彼は「それでは私の気がすみません」と食い下がりました。「あなたが困っているといわれたから、お手伝いした。気がすまないなら一度でいいから、困っている人を助けて、それで帳消しにしましょう。」と。せめて名前をと聞かれたのですが、それも断りました。しかし、車が無事引き返していくのを見たときはうれしかった。

 それっきり、このことは忘れて話題にもなりませんでした。

 ある日、宅配の車が、心当たりのない荷物を届けていきました。不審に思いながら封を切ると、お酒と野菜などと一緒に、つぎの手紙が入っていました。

(以下原文どおり)-------------------------

見浦哲弥様

 この前、雪道でトラックが動かなくなったとき、助けていただいて本当にありがとうございました。あの状況で私一人の力では脱出は到底不可能で、もうその日に帰ることなどあきらめておりましたが、大切なお仕事の時間を割いてまで、見ず知らずの私を助けていただいたことにうれしさと申し訳ない気持ちでいっぱいです。

 このようなものを送ったことはお父さんの意に反することと思いますが、このままでは私の気が治まりませんので、粗末なものではございますが、どうか受け取っていただきたいと思います。

 私は幼いときに両親をなくしておりますので、お父さんのいわれた”今度は困っている人がいたら助けてあげなさい”といわれた言葉が、私の父親から言われたような気がして、うれしく思っています。

 困っている人がいたら、自分を犠牲にしても助けに行きます。お母さん、お兄さん、若奥さん、ありがとうございました。お父さん、これからも身体に気をつけられ、がんばってください。

本当にありがとうございました。

寺曾和正

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 驚きましたね。そこまで感謝されたのは初めてで、名前まで調べて送ってくる。しかも自分の住所を隠して。
 そして自分の出生のことまで書いて、私の言葉を彼の父親からの伝言と聞いてくれた。これには感激しました。ひょっとしたら、私たちのしたことはとても立派なことなのかもしれない。しかし、どんなに贔屓目に見ても、私はそんな人間ではありません。それならこの考えの先生は誰だろうと考えても考えても思い浮かびません。心にとげのように引っかかりました。

 NHKラジオの深夜番組に早朝4時から、著名人や宗教人など、各界の先達のお話があります。ある朝、聞くともなしにラジオを聴いていると、”自分がして欲しくないことは他人にするな、自分がして欲しいと思うことを他人にしろ”との声が耳に入りました。日ごろ心がけていることで、誰が私に教えてくれたのか、気にかかっていたことです。思わず聞き入りました。

 お名前は忘れましたが、有名な牧師さんで、イエスキリストが聖書ルカ伝の中で教えられていると話されたのです。疑問が解けました。私は福井に住んでいた幼いころ、教会の日曜学校に通っていました。聖書の紙芝居を見て、牧師さんの話を聞き、賛美歌を歌っていた、遠い遠い昔の教えを覚えていたのですね。
 それを、助け合いが商売に変えられたのをみて思い出したのですね。それで、私はやはり凡人だったと安心したのです。

 ヒューマンリングは造語です。平和運動で軍事基地を囲んで手をつなぐ、そんなときに使われる言葉です。しかし、私は人の心のつながりをあらわす意味に使いたいと思います。

 先日もある人が「見浦さん、世の中は不思議なもの。人に良くすれば良いことが、悪くすれば悪いことが、必ず自分に返って来る」と話していかれました。

 私がまだ30代のころ、農道の改修工事の話が持ち上がりました。2キロあまりの草刈に行く山道で、途中でなくもがなの急な坂道がありました。ある山持ちの山林を避けるため、やむを得ず作った峠でした。集落の人々の難儀を(昔は田畑の肥料としての草刈が盛んでした)見かねて役場に農道の付け替えをお願いして、用地を無償提供すればということになりました。関係する山持ちは3人、何度も何度もお話をして、2人の方には承諾していただいたのですが、1人はだめでした。
 「皆があの坂には泣いているのです。何とかなりませんか。」と最後のお願いをしたら、次の言葉が返ってきました。「人の難儀は関係ないのよ。俺は先祖から預かった財産をびた一文も減らすわけにはいかんのよ」と。返す言葉がありませんでした。
 30年たってその方が躓かれました。見る見る崩壊して10年も経たないうちに墓地まで人手に渡りました。懸命に建て直しに走り回っても、ことごとく裏目でした。私は、あの時の言葉を思い出して、背筋が凍る思いで見ていました。

 ヒューマンリングは、良いほうにも悪いほうにも回ります。
 そして良いほうにまわすには、他人の立場を思いやること、悪いほうにまわすには、自分のことだけを優先すること、そう考えるようになったのです。残り少なくなった私の時間、できれば最後までヒューマンリングを良いほうにまわし続けたいものだと願っています。

2005.11.15 見浦 哲弥

(掲載:2006年5月21日)