見浦牧場 いろいろエピソード

ある手紙から その2

掲載:2003/2/10 

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さて、この間は家にたどり着いたとたん、大雪になり、大変でした。その晩から毎晩お産が続き、そのうちの2頭は大雪の中で体温が低下してあやうく死んでしまうところでした。とにかく戦争みたいな騒ぎがまだ終わっていません。

 子牛は、生まれたらすぐ母牛がなめるのですが、被毛がぬれています。そのため、生まれた直後は体温が1度ぐらい上昇して自然に乾きます。でも、気温が低かったり、子牛の体力がない場合は、体温が下がり始め(平熱は39度くらい)、1度下がるともう快復しにくいのです。そこで、一緒に風呂に入って暖めるという荒業を考え出したのですが、重い子牛(30kg〜35kg)を風呂まで抱いてくるのは私には重荷。で、私が風呂に一緒にはいって抱いていることに。30分も入っているのはなかなか重労働ですが、子牛の体温が上がって呼吸が正常になり、口の中が温かくなったときの感激は、この年になっても新鮮です。

 「今年は暖冬」との長期予報で喜んでいたのに、とんでもない。春は限りもなく遠く、降り続く雪との闘いを今日もがんばっています。

見浦哲弥

おふくろさんの名言

掲載:2002/6/18 

「やろうか、どうしようかと、悩むぐらいなら、やれ!やらんのだったら、悩むな!」

(見浦晴江談)

ある手紙から

掲載:2002/4/20 

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何時かお話したと思いますが、私の牧場のモットーは「自然は教師、動物は友、私は考え学ぶことで人間である」です。
自然の営みを見て、動物の行動に教えられて、人間はより素直な生き方をすべきだと生きてきました。
山へ行って栗を拾う、自分達が植えた大栗が何時のまにか大木になって栗拾いが出来る、それが幸せなのです。拾ってきた栗の実を見ながら皆んなに食べてもらおう、と考える、それが楽しいのです。おいしかったと云って頂けばそれで充分なのです。どうか気を使わないでください。
 ……
牛はこんなことを教えてくれます。
母牛から子牛を離乳をして別にすると、姿が見えても見えなくても、子牛を呼んで一週間も10日も鳴き続けます。乳房が張るからでしょうね。
ところが子牛が事故や病気で死んだりすると、2時間も3時間もなめたり鳴いたりして、起きておいでと呼び続けるのです。ところがもう起きてこないと悟ると、どんなに乳が張っても鳴かないのです。誰も教えないのに、どの牛もどの牛もね。たまに小さな声で一声することはあってもね。
私達はこの事を、生きて行くのに役たたない事は、引きずって歩かない、教訓として記憶に残しても、生きて行く事を大切にするためには忘れさるのだと、そう解釈しているのですよ。
 ……

見浦哲弥

文部科学大臣 遠山敦子様

掲載:2002/4/14 

 1月17日の、メールマガジンにお答します。
 私は40年、和牛の一貫経営(黒牛の子牛の生産から肉牛の仕上げまでをする)の牧場を経営しています。

 もう何年前からになりますか、私の住む戸河内町の全小学校、3・4年生が見学に来場します。牛を見て子牛にさわって大喜びです。会の終わりに牛の話をするのですが、最初の会に次の話をしました。

 「皆さん、私の話を聞く前に、できるだけ息をを止めてください・・・・・・。どうですか、苦しかったでしょう?私達は息をしなければ死んでしまいます。それは、空気の中の酸素を吸わなくては生きてゆけないからです。牛も同じです。人間も牛も、最初はお母さんのお腹の中で大きくなります。いま、君達が見た牛さんも、全部お母さんのお腹の中で大きくなりました。では、お母さんの中に居るときは、どうやって酸素を吸うのでしょう?皆さんのお腹を見て下さい。おへそが有るでしょう?それはお母さんのお腹にいるときに、へそのお という管でお母さんとつながっていた跡です。その管で、酸素や栄養をもらっていたのです。

 ところが、お母さんから生まれるとき、この管が切れます、でも、まだ鼻から息をしていません。ですから上手なお母さんは、すぐ子牛をなめて息をするように懸命になります。私達もお産を見つけたら、頭に水をかけたり、顔を叩いたり、逆さに持ち上げて振ったりします。そうすると 「ふーっ」と最初の息をします。途中で止めそうになったり、息を吸いかけて苦しそうにしたりして、だんだん当たり前の呼吸になります。そうしていると、体に力が入って頭を持ち上げる様になるのです。

 でも、全部の牛が、うまく息が出来るのではないのです。中にはどんなに一生懸命手当しても、「ふーっ」と息をしてくれない赤ちゃんがいます。見ている間に眼に白い膜がかかって、冷たくなりはじめます。100頭生まれると何頭かいます。

 人間も同じなのですよ。君達も、お爺さんの私も、とっても運のいいことに、最初の「ふーっ」の息ができたのです。素晴らしい事なんですよ。

 知り合いの病院の院長さんが、『それが 人間の最初の冒険なんです』 と云いました。私達は眼が白くならなくて、最初の冒険に生き残りました。ですから、勉強も、運動も、お手伝いも一生懸命やらなくてはいけないのです。」 

 最初は キョロキョロしていた子供たちが、最後は懸命に聞いてくれました。そして、「おじいちゃん、そんな話、初めて聞いた」と、口々に話しかけてくれました。

 しかし 本当に驚いたのは、先生方が「いい話でした」と、感激されたことです。当然知っていなければならない生きる事の基本が教えられていない、その事です。何か足らないと感じるのは、そのあたりではないでしょうか。

 2年毎にある見浦牧場の見学会には、必ずこの話を加える事が恒例になりました。今年はその見学会がある年です。70才を越した私には、あと何回話す機会があるかわかりませんが、元気で一人でも多くの子供たちに、この話をしたいと思っています。

14.1.24 広島県山県郡戸河内町 見浦哲弥

デオデオ 久保社長殿

掲載:2002/4/14 

 お話して置きたい事があります。それは図らずも御父君が再起を決意された一瞬に立ち会わせて頂いたことです。

 あれは昭和30年?の1月2日のことです。役場から20キロも離れた山奥で、ようやく迎えたお正月を、寝正月で過ごす事にしていた私達夫婦は、たった一つの楽しみだったラジオが壊れて、がっかりしていました。お店はどこも休みで、懐のさびしい私は、何度か伺ったことがあった、価格破壊が旗印の「第一産業」を思い出しました。まだ若かったのですね、朝、まだ暗い内に家を出て、2時間あまり雪を踏んで歩き、バスを乗り継ぎ、紙屋町のお店に着いたのは、午後2時ごろだったでしょうか。

 お正月のお店は固く扉が降りていました。でも、ここまで来たのだからと戸を叩くと、男の人が出てきて「今日は休みです。」と告げられました。しかし手ぶらで帰る事は出来ない、一生懸命事情を説明してお願いしました。黙って聞いていた男の人は「わかりました、それならお売りしましよう」と、潜り戸からお店に入れてくれました。「そこの棚にラジオがあります。お好きな品を選んで下さい。」

 お店にはもう一人、同じような年格好の男の人がいて、私の為に中断したらしい話が始まりました。品物選びに熱中していた私の耳に、熱心な、しかし深刻な会話が聞こえてきました。
 「もう一度頑張ってみようや」、「そうはいうてもなー」、「第一産業ゆうて、山県の奥から来てくれるお客さんがいるんや、もう一度やってみようや」、「そうやな、こんなお客さんがいるんや、頑張ってみるか」、そんな話だったと記憶しています。

  帰宅して色々調べたら、この時が御社一番の危機だったと知りました。でも、それ以後の御発展は、ファンの一人としてたいへん嬉しい事でした。

 それから小さな牧場を作り、経営してきた私にとって、「お客さんがいるんや」、の言葉は生涯の教訓の一つになりました。「金儲けの前に、お客さんの為に」は、これからも大切にして行きたいと思っています。

 ちなみに、その時、売って頂いたラジオは、東芝のトランスレス5球スーパー、随分長く働いてくれました。人生の終わりに近づいて、どうしてもお父上の話を残したくてメールしました。御社のますますの御発展をお祈りしています。 

見浦 哲弥

石の上にも十年?

掲載:2002/4/6 

電気技師になりたかった親父さん、家の農業を継ぐことになって悩んでいたら、知り合いのお寺の住職さんがこういった。「自分が何の仕事に向いとるかなんて、3年や5年じゃわかりゃーせん。最低でも10年はやらにゃぁ。」そこで親父さん、10年を目標に一生懸命がんばった。10年たってみたら、過去10年にやったことが惜しくて、いまさらやめられなくなった。うーん、まんまとだまされた?

(文責:コツ特派員)

ものは考えよう

掲載:2002/4/6 

牧草地を開拓したばかりのころのお話。
開拓したばかりの牧草地には、石がごろごろたくさん落ちている。この石を取り除かないと、草を刈る機械が壊れてしまう。何ヘクタールもある牧草地、一日中拾っても、遅々として進まないことにくたびれて、親父が言った。「なんぼーひろーても、ひろーても、これだけしか減りゃーせん。もう、わしゃー、いやになった。」それを聞いたおふくろが一言。「これだけしか減らんかった、じゃのーて、これだけは確実に減った、じゃろーが」。
なるほど。「エベレストを登頂するには、ただ一歩づつ足を前に出し続ければよい」、と女性登山家の田部井淳子さんも言っている。この考え方が「継続」という大きな大きな力を生むんだね。

(文責:コツ特派員)