PETER ALLEN : ARTICLES

*記事の中の固有名詞等が統一されていませんが、原文の表記のままで掲載しています。

GOSSIP '70 ゴシップ界 何が起こったか?
「くちづけ」の新進スタアNo.1リザ・ミネリは三年前に一緒になったばかりの作曲家ピーター・アレンとあっさり離婚というのはどちらも仕事を持つ夫婦のかなしい終着駅か(三月)。妹尾篤司「スクリーン」1971年3月号 P.236
ライザ・ミネリと別れたあとで……
 ピーター・アレンはすでにメトロメディア・レコードから「大都会の孤独」(YS-2579)というデビュー・アルバムを発表している。
 年令などは不詳だが、メトロメディア専属のソング・ライターとしても最近かなりの活躍を見せている。たとえばボビー・シャーマンのヒット「ジェニファー(JENNIFER)」も彼のペンによるものだし、彼のデビュー・アルバムに入っていた「太陽のない世界(WHERE THE SUN NEVER SHINES)」という曲、ジュリアス・ラ・ローザなどのアドルト(注:アダルト?)・シンガーが取り上げ歌っている。
 ところでこのピーター・アレン、最近「キャバレー」でついにハリウッドのビッグ・スターとしての地位を把んだライザ・ミネリの前夫だという経歴を持っている。自らレコード界にデビューしたのも、ライザの影になりたくないというのも大きな動機かも知れない。
JUST ASK ME I('VE) BEEN THERE 日本盤シングル「さよならの言葉」(日本コロムビア LL-2580-MD 1973年1月発売)のライナーより。

(A) さよならの言葉 JUST ASK ME I('VE) BEEN THERE (Peter Allen) 4:25
(B) 嘘 I CAN TELL A LIE (Richard Landis, Joan Meltzer) 3:21
どこで・だれが・いつ
「キャバレー」のライザ・ミネリーの奔放なラブ・ハントの度に問題になる別居中の夫ピーター・アレンは、七月二四日弁護士を通じて、二三日ニューヨーク最高裁で離婚が受理された、と発表しました。これでライザ・ミネリーと若手プロデューサー、ジャック・ヘーリー・ジュニアの縁組は間もなく実現する見込みとなりました。「スクリーン」1974年10月号 P.98
PETER ALLEN
 オーストラリア、日本、香港、イギリス、ニューヨーク、カリフォルニア、そして再びニューヨーク。「ぼくは聴衆が歓迎してくれる所ならどこへでも行くみたいだな」とピーター・アレンはいっている。ということは、すぐにでもあちこちへ演奏旅行へでかける―ということだ。
 30才のピーター・アレンは自分の力でさまざまな名声を築き、それだけに経験も豊富だ。彼の名声は、そのどれをとっても最後にはひとつに溶けあってゆく。
 彼のオーストラリアの仲間(それに数年前アメリカでやっていた「トゥナイト・ショー」の常連)なら、彼が以前クリス・アンド・ピーター・アレンのピーターだということを知っているだろうし、ちゃんとライナー・ノーツを読んでいる人なら、ヘレン・レディのLPや、最近では、オリビア・ニュートン・ジョンが歌ってトップ・チャートに入っている「アイ・オネストリー・ラブ・ユー」のクレジットに彼の名前が入っていることに気づくはずだ。また、ゴシップ好きなら、ライザ・ミネリの前夫として彼を知っているだろう。
 ピーターは11か12の時に生まれ故郷、テンターフィールドのパブで演奏をはじめ、14の頃にはブリスベインのホテルに移った。当時彼は、リトル・リチャードやファッツ・ドミノの歌をジェリー・ルイス風に歌っていた。そうした彼の素材となったのはMGMのロックンロール映画や、家で母がピアノで弾くファッツ・ウォーラーの歌だった。ホテルでの仕事がうまくいって、やがてクリスと一緒に3年間オーストラリアンTVに出演することになる。東南アジア・ツアーのときに、ジュディ・ガーランドの目にとまった。ホンコン・ヒルトン・ショーのときだ。そして、彼女は彼らをイギリスに連れて行き、自分のショーの前座に使った。これが約1年間。この間に彼はライザと婚約した。(「ぼくらは若かったし、バカだったし、恋をしていたんだ」いま彼はニヤッとしてこういっている)。それからアメリカ移り、クリスとピーターは「トゥナイト・ショー」をはじめた。ジョニー・カーソンはその場で、20ばかりの他のショーの契約もしたのだ。「それから」と、ピーターはことばを続けて、「ぼくらは落ち目になっちまった」。
 ピーターが歌を書き始めたのは「サンドラー&ヤング・ロードショーにならないようにするためだった」。そしてニューヨークのビター・エンドの開店に招かれた。「それはぼくの歌だけでやる初めてのステージだったし、パブやホテル回りをして以来、初めてのぼくだけのステージだった。それに、少人数の前で歌うのもね。それで、すぐにペントハウスを引払って、ヴィレッジへ引越したわけさ。」
 ロスアンジェルスのトラバドウールでベット・ミドラーと仕事をし、ピーター・アレンは西海岸へ移った。そこでメトロメディアとレコーディングの契約。そして誰も聴いたこともないような素晴らしいアルバム2枚が発売になった。メトロメディア、ピーター・アレン、テンターフィールド・サッドラーに何が起こったか、誰も知らなかった。一方、ニューヨークのカフェ、レノ・スウィーニーズでは、彼の歌を使いはじめたのだ。「多分、彼らはそのアルバムに目をつけたんだと思うんだ。それで、ぼくは、まあ14番街のスティーヴン・ソンダイムになっちまった。ニューヨークへはレノの所に目を合わせて戻ったんだけれど、どうだい、ぼくが何も知らない聴衆がいっぱいさ」。そのなかにはA&MのA&Rマンもいたし、プロデューサーのジョエル・ドーンもいた。あとの話は―ピーター・アレンがA&Mから出した最初のレコード『コンチネンタル・アメリカン』を聴くのが一番いい。
 もちろん、経歴以外の話もたくさんある。ソング・ライターとして(「プロデューサーやエンジニアに素材を提供するのもぼくの仕事なんだ」)、歌手として(「それに、彼らが使える声を提供することもね」)、ピアニストとして(「スタジオで誰かが『おい、リチャード・ティーのやつ本当に弾いてるぜ』といったから、ぼくは『そいつはぼくだよ!』といってやったんだ。その時の気分、最高だったよ」)。そして、ソングライター=シンガー=ピアニストのピーター・アレンは、ついに、自分のやっていることを理解してくれる人々を見つけたのだ。「ぼくが何もいわないうちに、して欲しいことをやってくれる人たちと仕事をするのは初めてだ。レコードというのは現代のショーさ。『コンチネンタル・アメリカン』はぼくのショーなんだ。」
 ピーター・アレンは新米者ではない。いつだってそこにいたのだ。

何でもいい
知りたいことはみんな
ぼくにきいて ぼくはそこにいたんだから
妖精と原罪をそこで見ていた
ノックをするとぼくを入れてくれた
全部体験してきたんだ―。

Any questions you want answered
Anything you want to know
Just ask me I've been there
Seen angels and sin there
I knocked and they let me in there
I've been through it all


PETER ALLEN
来日記念盤はA&Mレコードより好評発売中!

1970年代のコール・ポーターといわれる、ソングライター兼シンガー、ピーター・アレンのデビューアルバム!!

コンチネンタル・アメリカン
ピーター・アレン


ジャスト・ア・ジゴロ/古いものはまた新しくなる/自然なふるまい/プリティ・プリティ/コンチネンタル・アメリカン/ジャスト・アスク・ミー・アイヴ・ビーン・ゼア/愛の告白/ディス・サイド・ショウズ・リーヴィング・タウン/ジャスト・ア・ジゴロ(リプライズ)
●KING RECORDS AML-231(ステレオ30cmLP)¥2300

★SINGLE<9月21日発売>
愛の告白 I HONESTLY LOVE YOU
B面→ジャスト・アスク・ミー・アイヴ・ビーン・ゼア JUST ASK ME I'VE BEEN THERE
●AM-253/¥500

愛の詩(うた)を SHE LOVES TO HEAR THE MUSIC
B面→すみれのように SHY AS A VIOLET
●AM-257/¥500

 ピーター・アレンは12才の時にはオーストラリアのパブで歌っていたが、その時はすでにリトル・リチャード・スタイルのロックンロールをマスターしており、14才になるころには、もうブリスベーンのホテル・ショウで活躍していた。その後は歌と踊りのショウ・チームを組んでTV界に進出、ショウ・ビジネスの道を一途に歩んできただけに、ジュディー・ガーランドの娘婿には申し分ない男だったわけである。
 ピーター・アレンは現在30才、とても好調のようだ。アレンを“ライザ・ミネリの最初の夫”以上の存在として覚えておきたいと思うなら、何か特別な印象が必要だが、アレンにはそれは十分ある。ピーター・アレンは1972年(注:1974年?)に、ヘレン・レディのヒット曲としてよく知られている“Pretty Pretty”(アレン/H.ハッカディーの共作)をレコーディングしている。ヘレン・レディは比較的早くから、アレンの作品を取り上げており、“Pretty Pretty”の他にも“Ah, My Sister”(C.B.セイジャー/アレンの共作)を歌い、アレンと組んで“Love Song For Jeffrey”を書いたりしている。
 アレンの書いた優しいバラッド「愛の告白“I Honestly Love You”」がオリヴィア・ニュートン・ジョンの歌で大ヒットしたことは皆さんも御存知のはず。「“I Honestly Love You”はカントリーとして大ヒットになったけど、カントリー・ミュージック用に書いたんじゃないんだ。あれがカントリーになったのはオリヴィアの力だね。英国での彼女はとてもヒップな女の子ってことになっているけど、オーストラリアじゃダンガリーのズボンをはいたカントリーの恋人だもの。あのヒットで僕はカントリー・ミュージックでもヒットを出したことになったけど、別にどうってことはないね、愉快だよ」とアレン。

ヘレン・レディ1975年来日公演パンフレットより。

* なお、このパンフレットによると、ピーター・アレンが前座として参加したヘレン・レディの1975年9月の来日公演のスケジュールは、以下となっています。

・9月16日(火) 7時00分開演 大阪フェスティバルホール
・9月17日(水) 6時30分開演 大阪フェスティバルホール
・9月19日(金) 7時00分開演 横浜・神奈川県民ホール
・9月22日(月) 6時45分開演 東京・中野サンプラザホール
・9月23日(火) 6時45分開演 東京・中野サンプラザホール
・9月24日(祭) 2時00分開演 東京・中野サンプラザホール
・9月24日(祭) 6時00分開演 東京・中野サンプラザホール

みんな東を意識している ロサンジェルス音楽紳士録
長い間歌われる歌を作っていきたいんだ ピーター・アレン

 ロサンジェルスからフリーウェイを南へ向かって約1時間半、文字どうり風光明媚な海岸べりに建てられたピーター・アレンの家に招き入れられた途端、彼の音楽の趣味の良さが理屈抜きでわかったような気がした。デヴィッド・フォスターがプロデュースを担当、ジェイ・グレイドンやTOTOのメンバーがセッションに参加して作られた最新作『バイ・コースタル』も超一級の出来栄えだ。「この近所に住んでるから、たまにここで一緒に仕事したりもするよ」というキャロル・ベイヤー・セイガーと、「僕の持っているR&B感覚を最高にうまく引き出してくれた」というD・フォスター、それにピーターの3人で共作した『フライ・アウェイ』をはじめとする中身の音楽はもちろんのこと、ジャケットも極上だ。「あのフォト・イラストを描いたのは。15年前に僕がニューヨークへ初めて出た時に最初にできた友達でもあるポール・ジャズミン。1枚目のアルバムも彼がやってくれた。」
 そして、「ショービジネス界の人間は人生がわかってない」とはっきり言い切る彼は、そうした真の意味で友達といえる人たちとの交流によって感性を磨き、魅力たっぷりの歌を書いて歌っている。「No.1になる歌よりも長い間歌われる歌を作っていきたい」という言葉もさり気なく口をついて出てきた。
 だから、「アメリカは新しい活気を求めている。若い人はヨーロッパ人と同じように退屈しているし、外部からの刺激が必要なんだ。そんなことからも、みんなの目は南太平洋と東洋に向いている」という見方にも納得。このオーストラリア出身の才人は10代半ばからもう20年近くもショービジネス界の第一線で活躍し続けているのである。立川直樹 「POPEYE」1981年1月25日/95号 P.118
-People-
Allen a la Jolson polishes his Radio City act


The sun shines east
The sun shines west
But I've just learned
where the sun shines best
Maa-aa-aa-meee...


 The light shines best on Peter Allen at Manhattan's Radio City Music Hall, and he knows it. In 1981, before seven sellout audiences, the campy Australian crooner rode onto the Radio City stage atop a camel. This visit, he offers an affectionate if slightly glitzy tribute to Al Jolson : there are 37 musicians, 36 Rockettes and 40-ft. staircase for Allen to prance upon. As a dancer, Allen makes up in perspiration for what he lacks in locomotion. Is he afraid of falling from those steps? Said he : "There are 36 girls to catch me. How bad can it be?" 「 TIME 」OCTOBER 4, 1982 (No.40) P.49
あまい大人の恋唄なら僕にお任せ ピーター・アレン
 リタ・クーリッジの東京音楽祭グランプリ受賞曲「あなたしか見えない」の作者として知られるアダルトなシンガー・ソングライターはピーター・アレン。彼がこのほどアリスタ・レコード移籍第1弾にあたるニューLP「ノット・ザ・ボーイ・ネクスト・ドア」(フォノグラム、4/25)を完成させた。
 大人の恋唄をロマンチックにセンチメンタルに唄うことにかけては定評のあるアレンが、また一段とシックでムーディーな情緒をたたえて聞かせる雰囲気ものの内容で、キャッチーなポップ・スタイル、それとは逆のオーソドックスなバラード・スタイルを巧みに取り混ぜながら、ライバルのバリー・マニロウにも負けないポップ・エンターティメントの神髄をそこでは披露している。
 キャロル・ベイヤー・セイガーやデビッド・フォスターらと共作のオリジナル曲に加え、トム・スノウとエリック・カズの名コンビ、さらに「マジック」のヒットも懐かしいディック・セント・ニクラウスの提供曲をも含めた華やかな彩りの全10曲を、アダルト・フィーリングいっぱいに展開していく。「レコシン」1983年 第?号
-音楽- 
フランス女・ココ・シャネルとニューヨーク派・ピーター・アレンの奇妙な出逢い

 いったい、どんなふうないきさつがあって、映画「ココ・シャネル」の主題歌をピーター・アレンがうたうことになったのだろう?というのも、このあまりにも完璧なるフランス女であるヒロイン=ココ・シャネルの物語に、ニューヨーク派の顔のようなシンガー=ピーター・アレンという組合わせに、まずとても奇妙な出逢いを感じたからである。ピーター・アレンがこの映画のラスト・クレジットでうたう主題歌のタイトルは<ワン・アンド・オンリー>。作詞はピーター・アレン自身、そして作曲はこの映画の音楽を書いているフランス人のジャン・ミュジー。もちろんピーターは甘くセンティメンタルなラヴ・ソングも見事にうたいこなすけれど、どちらかといえば才気に溢れた都会風の、ちょっとひねりをきかせたレパートリーを得意としているシンガーなのだ。その彼が、この映画の余韻を情緒たっぷりに想いを込めてうたっている。私にはやっぱり、ちょっと不思議な気がしたのであった。
 ピーター・アレンは、しかしなぜか映画界とは縁が深い。一九四一年(*正確には1944年)、オーストラリアのテンターフィールドに生まれた彼は、幼い頃からフレッド・アステアの映画が大好きなおませな少年で、14歳の時にはすでに歌手として舞台に立っていたという。そして一九六四年、香港のヒルトン・ホテルに出演中、彼はちょうど新婚旅行でやってきていたジュディ・ガーランドに認められ、彼女に招かれてアメリカに渡り、そしてジュディの娘ライザ・ミネリと恋をして一九六七年に結婚した。二人の結婚は三年で破局を迎えるが、ピーターはその後もニューヨークのクラブを中心に活躍を続け、レコードもA&Mから四枚を出し、現在はアリスタと契約、キャロル・ベイヤー・セイガーやメリサ・マンチェスター、デヴィッド・フォスターなどは彼の親しい友人たちである。
 私がピーター・アレンのレコードと出あったのは、十年以上も前のLP「コンチネンタル・アメリカン」で、この中で彼がうたった古いヨーロッパの流行歌<ジャスト・ア・ジゴロ>は、後のデヴィッド・ボウイー主演の映画の題名となっている。一九七五年、ピーターはヘレン・レディとともに来日し、ヘレンの前座として舞台に立ったことがある。この頃、私は彼の大ファンになっていて、一番前の席で彼のショウを観たのだが、ピアノを前にエルトン・ジョンもびっくりという跳んだりはねたりのヴィヴィッドな動きと、彼のトレード・マークである“ゲイ・シンガー”を見事に演出した粋なステージは、ちょうどビリー・ジョエルとトム・ウェィツをいっしょにしたような、ちょっと忘れられないものであった。
 ピーターは、今42歳。昔からちょっと頭髪のさびしい彼だったが、今年発売されたニュー・アルバム「ノット・ザ・ボーイ・ネクスト・ドア」のジャケットには、まっ赤なピアノの上に乗って相変わらずの玄人っぽい粋とあくの強さをのぞかせた彼の姿が写っている。(音楽評論家)河原晶子 映画「ココ・シャネル」パンフレット 1983年10月21日発行 P.37
ライブ・アット・カーネギー・ホール / ピーター・アレン
 アダルト好みの名うてのシンガー・ソングライターのNY殿堂ライブは観客とのシャレた会話のやりとりも楽しいリッチな構成で魅了するもの。「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」「あなたしか見えない」を含む全21曲が披露される。(発売中)「レコシン」1985年 第287号
-Theater-
Legs Diamond Shoots Blanks
In a season of misery, Broadway seeks a new American musical
BY WILLIAMS A. HENRY V
 When composer Frederick Loewe looked back on a career with lyricist Alan Jay Lerner that included Brigadoon, My Fair Lady and Camelot, he reportedly said he could not get over how easy he and his partner made it all seem. Loewe was right, but in retrospect the most startling thing about the team's success is that their creativity was far from unique. In the heyday of Broadway musicals, nearly every season brought a landmark production, often two or three. The 1946-47 season that introduced Brigadoon, for example, also provided Finian's Rainbow. The 1956-57 season of My Fair Lady was in addition, the season of Bells Are Ringing, Candide, The Most Happy Fella and Li'l Abner. The 1960-61 debut season of Camelot saw as well the arrival of Irma la Douce, The Unsinkable Molly Brown and Bye Bye Birdie.
 Any one of those shows would seem a godsend to the Wan White Way of the '80s. With three striking exceptions ―Dreamgirls, Big River and Into the Woods―pretty much every noteworthy musical of the decade has been a revival, a recycling of old songs, an import (generally from Britain) or a critical smash but commercial also-ran. The current season, which by Broadway's calendar began in May, is more miserable than most. Its first American musical, Carrie, actually a slightly postponed holdover from last season, closed within five performances at a record loss of $7 million. The sole entry since, Legs Diamond, a quirky blend of gangster spoof and show-biz biography, opened last week to killer reviews, although the producers launched a $350,000 TV ad campaign and vowed to hang on.
 The season's musical hopes now rest almost entirely on material from the past : a Jerome Robbins retrospective ; a blues-and dance collage with no new songs, Black and Blue, from the creators of Tango Argentino ; and a Duke Ellington score, Queenie Pie, left unfinished at his death in 1974, that has been touted for Broadway for three seasons. Says Rocco Landesman, a producer who succeeded with Big River and Into the Woods : "With a musical there are 40 ways for things to go wrong and only one for them to go right, which is for everything to come together."
 That did not happen for Legs Diamond. Despite five years of development, the show that previewed in late October was, in the blunt judgment of co-producer Arthur Rubin, "a disaster." Librettist Harvey Fierstein apologized to the audience at the first performance. Alluding to the practice of testing a show out of town, which Legs skipped because of its complex sets and lighting, Fierstein said "Ladies and gentlemen, this is New Haven."
 Previews continued for nine weeks―unusually long, but not a Broadway record―as musical numbers, costly scenery, characters and whole subplots came and went. On some nights more than a hundred paying customers left at intermission or even during the performance. One couple who marched up the aisle during the second act seemed particularly weary of a plot device that has the hero, a tap-dancing gang leader, repeatedly fake his own murder. As the departing woman looked back at the stage, she whispered, "He's alive again." Muttered her companion : "Better he should have stayed dead."
 Even so, pent-up public enthusiasm for a new American musical of any kind was so great that despite bad word of mouth, some 90,000 customers came during previews, most paying the full price $50. Say Rubin : "We made a profit during previews." The show built up advance sales as high as $10 million ; they still stood at more than $3 million after opening. The day after the barrage of punishing reviews appeared, the box office sold almost $40,000 worth of tickets.
 Whether Legs can survive its critical clobbering depends on what kind of experience theatergoers expect for $50. Genial and inoffensive at worst, occasionally energetic and raucously funny, always lavish and cheerful and eager to please, Legs is an amiable enough way to spend 2 and 1/2 hours. But it is altogether unmemorable. Its basic problem could not have been altered by a year of previews : the concept and the star. Legs traces the rise of a big-time gang leader in the machine-gun era of Al Capone. No matter how much the script sweetens and fictionalizes its depiction of the short and brutal life of Legs Diamond, the hero inevitably has blood on his hands.
 Onstage, Legs tries to sidestep this problem by making Diamond a frustrated entertainer who gets into crime as a way of financing himself on Broadway. The character cannot be taken seriously. and neither can Peter Allen as a actor. A campy night-club entertainer who penned his own single-entendre lyrics for this show ("If you love me, let me see your knockers"), he brings a pervasive tone of self-mockery to every moment and is ludicrously dispassionate as a roguish ladies' man. Like most performers who customarily work solo, he seems unable to engage the audience in any guise but his own.
 The one surefire moneymaker on the current musical scene is Andrew Lloyd Webber, the British composer whose shows have been about felines, religious figures and monsters―anything but old-fashioned romance, conventional boy meets girl. In hopes of matching Webber's profits, today's producers imitate his preference for way-out concepts, the loopier the better. Part of the reason such masters as Lerner and Loewe made it look so easy is that they did not feel compelled to contort themselves and their stories. Maybe they knew something worth rediscovering.「 TIME 」JANUARY 9, 1989 (No.2) P.35
HARRY CONNICK, Jr. New Boy from New Orleans
20歳のスタンダード・ジャズ、ハリー・コニックJr.

(前略)〜
 ニューオリンズ出身、天才少年、20代、そしてNOCCA(New Orleans Center for the Creative Arts)のOB、といったプロフィールを目にすると、この3月に来日する'80年代のスーパー・ジャズ・ミュージシャン、ウイントン・マルサリスとオーバーラップする。
 さて、これらのプロフィール、デビュー・アルバム「ヴォケイション」、に続く最新作「20<トゥエンティ>」を頭に叩き込み、ハリー・コニックJr.の生を見るべく1月の寒風吹きすさぶニューヨークへ……。
 今回のショーは、5thアベニューとアベニュー・オブ・アメリカの間、西44thストリートにあるホテル、アルゴンキンのオーク・ルームで行なわれた。
 アルゴンキンと言えば、1902年創業の由緒あるホテルで、'20年代には劇作家、編集者、マスコミ関係者がこぞって常宿にしたと言われるところ。ハリーの'20年代のスタイルのジャズを聴くにはピッタリではないか。
 1月10日から始まる約1か月のショーの前日9日の夜には、ニューイヤー休暇明けほ評論家、マスコミ、レコード業界、などの人達を招いてレセプション・パーティが行なわれ、サルーン・シンガーの御大トニー・ベネットの顔もあった。司会は、'70年代にAORのミュージシャンとして活躍、現在は作曲活動に専念しているピーター・アレンが急遽指名され場を盛り上げた。
 ハリーのステージは1時間15分ほどで、セカンド・アルバムで聴かせてくれた甘辛のヴォーカル・ナンバーや左手が躍動するストライド奏法のピアノ・ナンバーなどジョークや客席とのアドリブを交え、アッという間。アンコール前のスダンディング・オヴェイションの先陣を切ったのは、あのトニー・ベネットだった。〜(後略)伊藤史朗 「Esquire エスクァイア日本版」1989年4月号 P.80
ライザ・ミネリの元夫がエイズで死去
【サンディエゴ(米国)18日=ロイター】女優ライザ・ミネリの元夫で著名な歌手、ダンサー、作曲家でもあるピーター・アレン氏(四八)が十八日、エイズのため米国サンディエゴの自宅で死亡した。
 ピーター・アレン氏はオーストラリア出身で一九六四年、香港でのショーに出演しているところを米女優のジュディ・ガーランドに見いだされ、この後、ニューヨークのショービジネスで活躍した。六八年(*正確には1967年)にジュディ・ガーランドの娘であるライザ・ミネリと結婚したが七四年に離婚した。朝日新聞1992年6月19日(夕刊)
-MILESTONES-
DIED. Peter Allen, 48, show-stopping Australian-born entertainer ; of an AIDS-related illness ; in San Diego. Allen, a singer, dancer, songwriter and pianist, was discovered by Judy Garland and was married for seven years to her daughter Liza Minnelli. His hit songs include the Oscar-winning Arthur's Theme and Grammy-winning I Honestly Love You. 「 TIME 」JUNE 29, 1992 (No.26) P.13