これは、『おとずれ』(清泉女子大学,2001年6月)に載せた、新任教員の自己紹介文です。

 スペイン語スペイン文学科に着任いたしました木村琢也と申します。スペイン語を専攻する学科に籍を置くという僥倖に恵まれ、とても張りきっています。
 自己紹介文をというご依頼を受けましたが、以前『清泉女子大学における教員の研究・教育・社会的活動−−自己評価として』に執筆した文章に、自分の研究のことばかり書いて教育に関しては何も書かなかったことが気になっておりましたので、この場を借りて教育面で心がけていることを書かせていただきたいと思います。
 まず学生たちに対しては「知識の重要性」を強調したいと思います。よく「学生に自分で考える能力を身につけさせるべきだ」と言われます。その通りだと思います。しかし、それ以前に正しい知識を持っていることが必要です。間違った知識を前提に考えていくと、考えが深まれば深まるほど現実から遊離してしまいます。それはテロリストの論理であり、人を不幸にする一部の新興宗教の論理です。現代は社会問題・環境問題などが複雑化してきており、それらに適切に対処するためにも正しい知識を持つことはますます重要になっています。あの「共通一次試験」で5教科7科目の入試を受けさせられたルサンチマンも込めて言いますが、「文系に理科はいらない、理系に社会科はいらない」という時代ではないのです。
 ただ当然のことながら、あらゆる分野について十分な知識を持つことは、一人の人間には不可能です。そこで必要になるのは「知識は大切だという認識」と、「必要に応じて自分で調べる能力」です。こわいのは「知らない」ことではなく、「知らなくてもよい」と思ってしまうことです。「難しいことはわからなくてあたりまえ。わかる人に任せればいい」という考えが、結果的に少数のエリート層と大多数の無知な大衆という階級分化を生み、声の大きい人、腕力の強い人、強面の人、自分を偉大に見せかける術に長けた人が大衆を牛耳る世の中になってしまうのではないかと不安がつのります。
 そして、情報収集能力です。インターネットの普及によって、今まで得るのが難しかった情報を簡単に手に入れられるようになりました。しかし、それと同時に人間の情報処理能力までが進化したわけではありません。図書館で本を見つけられない人が、どうして「情報の海」であるインターネットから有用な情報を引き出せるでしょうか。ましてや辞書も満足に引けないような状況がもしあるとしたら、看過してはなりません。
 ここまで読み返してみると、なんだか学生に向けて書いたような文章で、忸怩たる思いです。立派そうなことを書きましたが、ひるがえってこの自分に何ができるだろうかと考えてみると、結局は「教師が努力する、そして教師も努力しているのだという姿を学生に見せる」ということに尽きると思うのです。スペイン語のことなら何でも知っているふりをするというのも教師にとって時には必要なテクニックですが、それよりも「テキストに出ているこれこれのことが私にもわからなかったが、こうやって調べたらわかった」ということを生き生きと語るほうが、学生にとってはるかに有益なはずです。
 あくまで自分の研究にからめてではありますが、私は数学や心理学など以前勉強していなかった分野に挑戦し続けています。これがなかなか難しく、自分は頭が悪いなあと悲観することもしばしばですが、それでも新しい視点を得ることは間違いなく楽しいことです。これらの内容について授業で直接話す機会はあまりありませんけれども、少なくとも、スペイン語を初めて学ぶ学生たちと「初心者の悩み」を共有する役には立っているのではないかと独り合点しています。
 清泉のスペイン語スペイン文学科で学ぶ学生たちが、スペイン語・スペイン語学・スペイン文学を材料にして学問の深さ、知識の大切さを知り、自分で調べる能力を身につけられれば、たとえ卒業後にスペイン語と直接関係ない人生を歩むとしても、清泉で学んだ意味は十分にあったと言えると思います。そういう卒業生を一人でも多く出すために教室で汗をかく所存です。
 趣味の合唱について書くスペースがなくなってしまいました。写真は1999年12月、出身大学の合唱団の現役生卒団生合同ステージに出演したときのものです。(写真省略)

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