これは、『清泉女子大学における教員の研究・教育・社会的活動−−自己評価として』(清泉女子大学, 2001年4月)に載せた、研究内容の紹介文です。

木村 琢也(スペイン語スペイン文学科)
専門分野:スペイン語学・音声学


1. スペイン語学
 スペイン語学はスペイン語について言語学的に研究する学問分野である。しかし、こう言っただけではスペイン語学という分野の持つ広がりが表現できない。
 周知の通りスペイン語はスペインだけでなく中南米の広大な地域で使用されているし、アフリカの赤道ギニア、アジアのフィリピンなどにもスペイン語を使う人々がいる。また、アメリカ合衆国でもスペイン語話者人口は増加の一途をたどっている。これだけ広大な地域で使用されているスペイン語が全く均質であるはずがなく、語彙・発音・文法などの面で様々な地域差が見られる。とは言え、使用地域の広大さを考えればこれらの地域差は意外に小さいと考えることもでき、マドリードのスペイン語もブエノスアイレスのスペイン語も「スペイン語」という一つの言語の変種であることに疑いはない。
 さらに、スペイン語を歴史的に研究することも可能である。スペイン語の祖先と呼べる言語は、イベリア半島がローマの属州ヒスパニアであった時期にそこで話されていた俗ラテン語であるが、そこからどのようにスペイン語という独立した言語が生じたか、また中世から現代にかけてスペイン語がどのように変化したかという研究は多くの研究者の興味を惹くものであり、今日までに膨大な量の研究が行なわれている。
 仮に研究対象を「現代スペインのスペイン語」に限定したとしても、それに対するアプローチには様々なものがありうる。文の組み立てを研究する統語論、文の材料となる単位のできかたや語形変化のしかたを研究する形態論、言語の形式と意味の関係を調べる意味論、言語の音構造を調べる音韻論など、どれもスペイン語というものの全貌を知るために欠かせない研究分野である。
 私はこれらすべてに興味があるが、しかしこれだけ多岐にわたる分野すべてについて専門的に研究することは、天才ならざる一日本人のよくするところではない。現在おもに研究している分野は現代スペインのスペイン語の音声、特にアクセントとイントネーションについてであり、その他に日本語とスペイン語の対照研究も行なっている。

2. 音声学
2.1. 一般音声学とスペイン語音声学
 音声学は言うまでもなく人間が言語に使う音声を研究する分野である。中でも、日本語やスペイン語といった個別の言語の音声だけを考えるのではなく、おおよそ人類が言語の伝達に使用している(または使用する可能性のある)あらゆる音声を扱う音声学を、特に「一般音声学」と呼び、「スペイン語音声学」など個別言語の音声学と区別する。しかし、容易に想像できる通り、スペイン語の音声だけを研究する場合にも一般音声学の知識が不可欠であるし、スペイン語音声学の研究成果が一般音声学に資することや、その逆のケースは頻繁にある。
 私は次節で述べるスペイン語の韻律研究のために、「標準化logFF」という方法を考案した。これは、音声のFF(基本周波数)の数値のlog(対数)を取ってさらにその数値に統計学でいう標準化を施したものである。これによって声域の異なる複数の話者の韻律を比べることが可能になる。この方法はスペイン語のみならず他言語の韻律研究にも応用できる。専門分野を「スペイン語学・音声学」と併記した理由である。

2.2. スペイン語韻律論
 「韻律論」という用語は詩の押韻やリズムを扱う学問分野を指す語としても用いられるが、私が研究しているのは詩ではなく、一般の音声言語である。韻律論が扱うのは、子音や母音といった個々の音ではなく、それらを束ねた音節や、さらに大きな韻律句や文全体の音声における、強さ・高さ・長さなどである。そこでは、「アクセント」、「イントネーション」という概念が重要になる。そして、スペイン語韻律論の研究は、英語や日本語の同分野に比べて、世界的に見ても驚くほど進んでいない。
 一般に、日本語は「高さアクセント」の言語であると言われ、スペイン語は英語などとともに「強さアクセント」の言語に分類されている。確かに日本語の諸方言のアクセントは個々の音節(または拍)が発音される高さ(およびその物理的対応物である基本周波数)によって説明が可能である。しかし、いわゆる「強さアクセント」の言語においては、アクセントのある音節とそれが発音される物理的な強さ(音波のエネルギー)との間には単純な関係がない。そこで従来、スペイン語のアクセントは基本周波数・強さ・持続時間のいずれと最も密接な関係があるかを調べる実験的研究がなされてきたが、見るべき成果を収めていない。
 私は、上記のようなスペイン語のアクセント研究はすでに方法論的に破綻しており、スペイン語の韻律はアクセントとイントネーションの組み合わせで決まるということを実例を引いて示した。最も単純な例を挙げると、日本語(東京方言)の「傘」は「カ」が高く「サ」が低い。これは「傘?」という疑問のイントネーションになっても変わらない。一方、スペイン語の casa (「家」という意味。音節 "ca"にアクセントあり)は、イントネーションによって ca よりも sa が高くなることがある。これらの現象を、「強勢型」と「イントネーション型」の組み合わせによって説明する理論を構築中であり、その一部をすでに発表している。
 この他、特定のイントネーション環境において、強勢音節の2つ前の無強勢音節が高く発音されるという現象が広く見られることを発見した。
 また、工学系の音声言語処理研究のノウハウを取り入れて、スペイン語にもアクセント等時性への指向があることを示した。

3. 日西対照言語学
 複数の言語を歴史的(通時的)に比較してそれらの系統や歴史的変遷を解明する分野を「比較言語学」と呼ぶ。「対照言語学」はこれと異なり、二つの言語を共時的に、つまり時間的変化を捨象して比べるものである。これは応用言語学の一分野であり、外国語教育に有用な研究として近年脚光を浴びている。
 日本語母語話者でありスペイン語教師でもある私は、日西対照言語学に興味を持たずにはいられない。そのために日本語学も勉強中であるが、現在までに一応の成果を見たものは次節で述べる疑問詞の対照研究だけである。

3.1. 日本語とスペイン語の疑問詞の対照
 通常、スペイン語の cuándo という疑問詞は日本語の「いつ」や英語の when に対応し、cuál は「どれ・どちら」やwhich に対応すると説明される。しかし、それでは日本語の「誕生日はいつですか」をスペイン語で ¿Cuál es el día de tu cumpleaños? と言うという事実が説明できない。また、同内容の質問をスペイン語では ¿Cuándo es tu cumpleaños? と言うこともでき、この二文の cuál と cuándo を交換することはできない。
 私は、テキストデータのパソコンによる分析やインフォーマント・チェックなどにより、日本語における疑問詞の選択が疑問対象の意味分類(人か物か場所か、など)によってなされるのに対し、スペイン語においては疑問対象の品詞が選択の重要な基準になることを示した。上記の例でいうと、「私の誕生日は2月22日です。」にあたるスペイン語は El día de mi cumpleaños es el 22 de febrero. と Mi cumpleaños es el 22 de febrero. の二通りがありうるが、前者の下線部は名詞句、後者の下線部は副詞句であり(紙幅の都合でその論拠は省略)、この差が cuál と cuándo という疑問詞の違いをもたらしているのである。
 
3.2. 日西対照言語学のその他のトピック
 日西対照言語学の研究はこの10年ほどで質・量ともに急激に進歩してきた。特に指示詞(日本語の「コ・ソ・ア」とスペイン語の este, ese, aquelなど)の対照研究には日本人のスペイン語研究者たちのすぐれた研究がいくつもある。
 音声学を研究する私としては、科学的なレベルを保ちながら、かつ日本人のスペイン語学習者に役立つような日西語対照音声学の研究を発表することが急務だと考えている。

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