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木村言語研究所報告
【2002年度夏季慰安旅行報告エッセー】

研究所の夏休み 〜野沢温泉・善光寺〜
by 副所長


プロローグ

 スペインに出張中の所長から研究所夏季慰安旅行の予約をするよう指示された。「私が計画すると間違いなく長野県内の温泉になるが、いいか?」と尋ねると「かまわぬ」という返事だったので、遠慮なく野沢温泉に決めた。

 山手線巣鴨駅構内の「びゅうプラザ」で宿と新幹線の予約をした。ゆったりくつろげるようにウィークデー二泊である。

 窓口のおねえちゃんが徹頭徹尾「おともだちことば」で応対してくれた。不愉快になったが、こちらも「へえぇ、そうなんだぁ」「うん、じゃあ、そうしよっかな」などとしゃべり、無理やり自分を彼女の口調に合わせて切り抜けることにした。近頃のサービス業界は客の側に気づかいを要求してくるものらしい。

 八月末に所長が帰国した。安心したのか、疲労のせいか、さっそく風邪をひいている。旅行出発日までには元気になったものの、実は所長は標高の高い場所に行くと鼻や喉の粘膜に異常を来たす妙な体質の持ち主なのだ。わが故郷長野県とは相性が悪い。今回はどうだろうか。


九月十七日 火曜日

 上野駅の新幹線乗り換え改札でちょっと迷った。乗車券と特急券を二枚重ねて入れろとある。「びゅう」でもらった切符は指定席券もあるから全部で三枚だ。一瞬考えて、指示どおり二枚だけ投入した。でもこれは私が無知だった。車掌さんが教えてくれたのだが、三枚同時に自動改札機に通せるのだそうだ。その際に座席番号も読み取られるので車内検札の必要がなくなるとのこと。私たちが指定席券を投入しなかったために、車掌さんは検札をしにやってきたのだった。

 「特急あさま」の時代、高崎―長野間の季節ごとの景色をいつも楽しみにしていた。殊に、県歌「信濃の国」にも歌われる県境の碓氷峠越えは何度経験してもわくわくしたものだ。ところが新幹線になったらトンネルの中を走る距離が極端に増え、魅力が失せてしまった。沿線の環境保護のためと思われるが線路脇に背の高いフェンスが設けられ、車窓の風景は味気ないものとなった。それに、所要時間がわずか一時間半では釜めしとビールを味わうひまさえ十分にない。所長のようにひたすら眠るのが利口かもしれない。

 十二時少し過ぎに長野駅に着いた。雨が降っていて肌寒かった。昼飯は駅ビルの飲食店をあえて避け、駅前広場に面した「油や」で食べた。この時間帯にしては空席が多い。所長は冷たいきのこ蕎麦、私は温かいきのこ蕎麦を注文した。つゆがしょっぱくて、長野に帰ってきたという気がした。

 乗り換えの電車が出るまでに一時間近くあったので、同じビルの上階にある「平安堂」で時間をつぶした。専門書はやや物足りないが、新刊書、文庫本の品揃えは東京の本屋にも負けない。もっとも目立つところに朝鮮半島関係の本が平積みになっていた。きょうは日本の総理大臣が初めて朝鮮民主主義人民共和国を訪問する日だ。語学書の売り場で所長の著書を見つけた。よしよし。

 長野駅にもどると、私たちの乗る飯山線の電車がすでに四番線に入っていた。おもしろいことに、同じひとつの線路の東京側を三番線、直江津側を四番線として使用している。

 二〇〇〇年十二月以降、この駅には一番線がない。かつて上野からの特急は一番線に入った。一番ホームには善光寺口の改札があったので荷物を持って跨線橋を上り下りする必要がなく、帰省の折には大変ありがたかったものだ。寺院を模した駅舎とともに、いまは昔の話となった。

 市街地を抜けると沿線にはりんご畑が広がる。袋をはずされ赤く色づいている実が見えた。三才駅で停車したときに所長がホームの看板に反応した。うっかりしていたが、ここは所長が勤務する女子大の姉妹校の最寄り駅だった。このあたりですでに山がかなり近くに見えた。

 豊野から先は単線である。ここからが本当の飯山線となる。私たちの乗り込んだ列車は二両編成だった。無人駅では運転手の乗っている車両の一番前のドアしか開かない。ワンマンバス状態になるわけだ

 立ケ花で線路は一気に千曲川に近づき、蛇行する川の西岸に寄り添うように北上する。川と山に挟まれた幅の狭い上り坂を列車は黙々と走ってゆくのだ。あたりにはすでに紅葉の兆しも見える。久しぶりに見る北信濃の風景に私は夢中になった。隣席の所長はまたしても眠っていた。飯山駅で「藤村の『破戒』の舞台となった町」と教えても、はかばかしい反応が返ってこなかった。旅の道連れとしてはあまり好ましくない。帰国後さっそく雑務に追いかけられて寝不足なのはかわいそうなのだが。

 長野駅から約一時間で終点の戸狩野沢温泉駅(昔は「戸狩」という駅名だったと思う)に到着した。ロッジ風の建物がかわいらしい小さな駅だ。駅前には一応おみやげ屋さんや飲食店があったが、人影がなかった。ここはまだ飯山市内だ。バスに乗って野沢温泉村に向かった。もう稲刈りが始まっている。とある田んぼにマネキンで作った気味の悪い案山子が立っていた。

 二十分ほどであこがれの野沢温泉に着いた。山裾の狭い地域に密集している旅館や民宿はどれも小ぶりだ。そんな中で私たちがお世話になった「旅館さかや」は比較的大きい部類に入る。玄関の巨大な鳩車が目印だ。ここは有名なスキー選手兄弟の実家でもあり、館内にユニフォームやスキーなどが展示されていた。ミーハーな私は狂喜した。

 部屋に落ち着くなりテレビをつけた。日常からしばし遠ざかるための旅行ではあるが、ピョンヤンでの日朝首脳会談の行方が気になってしかたない。やがて拉致被害者の安否情報が発表された。北朝鮮側の資料によれば、リストにある被害者の四分の三が死亡とのこと。悲惨さに胸が締め付けられる一方で、かの国の最高責任者が「部下の過ち」を謝罪するという前代未聞の出来事に心底驚いた。小泉首相がピョンヤン宣言に署名したことを批判する日本人は多いだろうが、私には他の選択肢があったとは思えない。

 午後六時半、所長お待ちかねの夕食である。この旅館では客室に食事を運ぶのではなく、二階にある食事専用の座敷で給仕してくれる。料亭の気分だ。(行ったことないけれど。)係のおねえさんがとてもチャーミングだったのも良かった。出てくる料理はどれもおいしい。ただし、味付けがかなりしょっぱい。私は郷土の味として嬉しく味わったが、薄味好みの人には向かないかもしれない。松茸のお吸い物と松茸ご飯に所長は顔がゆるみっぱなしだ。ご飯と一緒に野沢菜漬けが出てきた。昔は冬の味覚だったが、現在は一年中食べられるようだ。

 食べ過ぎておなかいっぱい。旅館に泊まるたびに思うのだが、値段は同じでかまわないから一回の食事の量を半分にしてほしいものだ。

 一時間ほど食休みをとり、さっさと床についた所長を放っておいて私は二階の浴場に行った。従業員のおねえさんたちが数人入浴していた。客は私ひとり。快適である。本物の湯の花がたくさん浮いていた。毎日こんなお湯に入れたらどんなにいいだろう。


九月十八日 水曜日

 まだ九月だというのに窓ガラスが結露で濡れている。建物の中にいるとわからないが、朝晩は気温が下がるのだろう。

 なにはともあれ朝食だ。まずは小さいグラスに注がれたぶどうジュースをぐびぐび飲んだ。うまい。ヤマメの一夜干しという珍しいものがあった。ご飯は温泉で炊いたお粥だ。味噌汁がしょっぱくて目が覚めた。野沢菜をバリバリ食べる。皿に盛られた漬け物は都会人が一回の食事で食べる量としては多かったのに、所長も信州人の私に負けない食いっぷりを見せ、ふたりで全部平らげた。デザートのりんごは小さくて汁気が少なめだ。子供の頃よく食べた味だった。

 きょうは徹底的にのんびりする予定だ。宿にお願いして布団を出したままにしてある。朝食後直ちにもぐりこみ、昼過ぎまでひたすら眠った。なんという幸せ。

♪〜*〜♪〜*〜♪〜*〜♪〜*〜♪

 きのうはずっと雨が降っていた。きょうも降ったり照ったりだが、空気はさわやかだ。フロントで野沢温泉タウンマップをもらい、近所の散歩に出かけた。温泉街は三方を山に囲まれた斜面にあり、どこへ行くにも坂道を上り下りすることになる。中心部は歩きやすいように道がよく整備されていた。道しるべが随所にあり親切だ。野沢が賑わうのはスキーシーズンである。九月のウィークデーは静かだった。

 麻釜、ジャンプ台、健命寺(野沢菜発祥の地)などを見てまわった。歩いているとあちらこちらから水の流れる音が聞えてきた。このあたりは雪のおかげで水が豊富なのだそうだ。空気がまた素晴らしい。何度も深呼吸をした。私は絶好調だが所長の顔色がさえない。ぼーっとしていて、話しかけても反応が遅い。またしても山の涼気に粘膜を直撃されたか。山といってもこのあたりの標高はせいぜい六百メートルくらいのものだ。それでも房総半島出身者には負担だったようだ。

 文部省唱歌の作詞で知られる高野辰之博士はこの地に別荘を持っていた。(彼の生涯は猪瀬直樹著『唱歌誕生−ふるさとを創った男』に詳しい。)「おぼろ月夜の館」では博士ゆかりの品々を常設展示している。室内でビデオを上映しているのだけれど、その中の唱歌の音声と向かいの売店で流している音楽とが重なっていやな音のうねりを作っている。どちらか片方だけにできないのだろうか。

 二階では特別展として畦地梅太郎という版画家の作品が展示されていた。最初は「なんだ、こりゃあ」と思ったけれど、次第に作中の山男に愛嬌が感じられてきた。展示室の上に小さな展望サロンがあった。雲が多くて山並みを確かめることができなかった。

 三十分ほど館内を見てまわったが、その間の入館者は女性ひとり(たぶん宿の仲居さん)と私たちの三人だけだった。

 「フキヤ」でみやげ物を物色した。岡本太郎デザインの「湯」の字のタオルが気に入った。これは野沢温泉の公式マークとなっており、バスのボディーにも大きく描かれている。

 店自慢の温泉まんじゅうがうまそうだった。聞いたらバラ売りしているという。ふたつだけ買って宿で食べた。朝食の量が多く、体を動かしていないから夕方近くまでおなかがすかない。私も所長も昼食を抜いていた。夕食もきっとご馳走がいっぱい出るだろうからと、このまんじゅうをおやつにして間に合わせた。おいしかった。

 きょうこそは外湯を回ろうと思っていたのに、部屋に入ると億劫になった。隣に有名な大湯があるのだが、出不精もここまで来るとどうしようもない。夕飯の時刻を知らせる電話が来るまで、テレビのニュースをずっと見ていた。

 拉致被害者家族の感情むきだしの訴えに反感を持つ人がいるかもしれない。だが彼らは長い長い歳月を、国から一切のケアを受けることなく耐えてきたのだ。隣国の謀略で拉致された被害者たちは、祖国に見て見ぬふりをされた。通常の刑事事件なら警察がひととおりの捜査をしてくれる。その当たり前の捜査を行なってくれるように家族たちがわざわざ訴えなければならなかった異常さを、忘れてはならない。

 食事はきのうと同じ座敷で同じおねえさんが給仕してくれた。我が家の食事三回分はありそうな料理が並んだ。また食べすぎてしまった。メニューがまだ夏仕様なので、温かい物の少なかったのが残念といえば残念だ。デザートのライチが半分凍っていて歯にしみた。

 月のきれいな晩である。所長は風呂にも入らず休んでしまった。私は九時半ごろに入浴した。ゆうべより泊り客が多いのでにぎやかだ。おばさんたちが出てくるのを待って露天風呂に体を沈めた。植え込みから聞えてくる虫の声が風流でよろしい。湯のぬるすぎるのが惜しかった。

 湯殿のほうにもどると、大変スタイルの良い女性がやってきた。背が高く、腕と脚が細くて長く、腹部は平ら、そのくせ胸が豊かだ。私はこっそり見とれていたのだが、彼女がタオルをすすごうとして下を向いたときに、大きな乳房がボヨヨヨ〜ンと垂れ下がるのを目撃してしまった。洗い桶に届くんじゃないかと思ったほどだ。

 風呂上りにビールがほしくて布団の中の所長に一緒に飲もうと声をかけたが返事がない。ひとりで一本空けるのは無理なので、あきらめてポカリスエットにした。なんだかくやしい。


九月十九日 木曜日

 よく眠った。さわやかな朝だ。寝る前にちゃんと帯を締めたはずの浴衣が乱れ放題になっていた。(どこの旅館でも浴衣は糊のきいたさっぱりしたものを用意してくれるのに、どうして帯は結びぐせのついてべたべたしたヤツしかないのだろう。)

 食事前に風呂に入った。極楽とはこのことだ。露天風呂はさすがに寒かったので早々に引き上げ、中の浴槽で温まりなおした。湯殿の天井が高く、ゆったりした気持ちになれる。

 所長は夜中に鼻が詰まり、息苦しくて眠れなかったそうだ。顔がすっかりむくんでしまった。気の毒である。だが食欲は衰えていないらしく、楽しそうに朝食の席についた。

 食前のジュースはりんごだった。焼き魚は桜鱒の干物だそうだ。所長は前日同様お粥、私は麦とろ飯を選んだ。このほかにどういうわけか釜揚げうどんがついていた。アツアツのところを味噌と大根おろしで食べる。もちろんしょっぱい味噌汁も、野沢菜漬けもある。デザートはうれしいことにとびきりおいしいメロンだった。またまた食べ過ぎた。

 なごりはつきぬが帰り支度である。今回の旅行は「何もせずにのんびりする」がテーマだった。野沢温泉という土地もよかったが、泊まった旅館もよかった。客の少ない時期で余裕があったのだろうが、丁寧にもてなしてもらった気がする。従業員のしつけがしっかりしており、とても感じが良かった。また泊まってみたい。

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 長野市内は8月のような暑さだった。他にいい知恵がなかったので、善光寺に行くことにした。駅から二キロメートル弱、歩いていけない距離ではないけれど上り坂になっている。所長の体調がよくないのでバスに乗った。最近は長野駅と善光寺を往復する便利なバスがある。大門(だいもん)までたったの百円だった。

 仁王門を入ってすぐのところに「すや亀」のみそソフトクリームの幟が立っている。本堂にお参りする前ではあるが誘惑に負けてひとつ買った。クリームの量が多いからたっぷり味わえる。これは好き嫌いがあるので、所長には隣の店の巨峰ソフトクリームをすすめた。

 長野の中心街には人が少なかったけれど、善光寺の境内は平日だというのににぎやかだった。団体さんがいくつも見学に来ている。晴れ着姿の新婚さんとその御一行も現れた。

 お参りをすませて本堂の北側に回り、牛の母子の像を見に行った。参拝の折には必ず顔を見ることにしている。「善子さん」「光子さん」と名づけられた母子は、私の小学生時代の参詣のときに撮った写真にも写っており、いわば古いなじみだ。以前は茶店や屋台のある東側の庭園に置かれていたが、現在は本堂と忠霊殿のあいだの植木の中にひっそりと立っている。

 帰りは街並みを眺めながら中央通りをぶらぶら歩いた。陽射しがことのほか強い。素朴な小物がいっぱいある「武井工芸店」は私のお気に入りのお店だ。なんでもない石に花を描いたペーパーウェイトが特に好きだ。手のひらで包み込むと不思議なことに柔らかさを感じるのだ。

 所長がおなかが空いたというので、「藤木庵」で遅いお昼を食べた。おとといの昼にそばを食べ、昨夜の懐石にも少量のそばが付いていた。けさはうどんも出た。それなのに所長はまだそばを食べたいと言う。運ばれてきたせいろを満足気にすすった。私はそばがきぜんざいにした。上品な味でおいしかったが、そばの香りが強いので小豆の風味とうまくなじんでいないようだ。

 長野オリンピックの表彰式会場だったセントラルスクエアは駐車場になっていた。いまだに残っているピンバッヂのお店は、当時世界中のマニアが集まったのと同じ建物だろうか。すっかり色褪せたオリンピックグッズに値札を付けて並べたウィンドーを見かけた。わびしいばかりだ。

 私が通りの西側を指して「信大のキャンパス、裁判所、県庁なんかがある」と説明したら、所長が「県庁に行こう」と言いだした。善光寺がなくなる心配はないが、「ガラス張りの知事室」がいつまでもあるとは限らない。惜しいことにもう見学に行くだけの時間がなかった。私たちがこの次に長野に来るまで、田中さん、がんばってね。

 「平安堂」でおととい目をつけておいた長野県関係の本を購入した。本日の掘り出し物は『おめたちほうもつかうかえ:信州長水地区の方言』(JAながの)という一冊だ。長野駅構内のみやげ物店「科の木」ではそば茶、薔薇ジャム、清酒ゼリー、栗ようかんを買った。栗のお菓子は小布施の名産である。いくつかあるブランドの中から「桜井甘精堂」の品を選んだ。

 新幹線の発車時刻まで待合室で一休みした。所長がビールとつまみを買っているあいだ、ベンチに腰掛けた私は床に置いた旅行かばんを両足でしっかりはさみ、みやげ物の入った紙袋を脇に抱え、膝の上のショルダーバッグを手で押さえて待っていた。これは去年のスペイン旅行以来の癖なのだが、気がつくと周りの人々はいたっておおらかである。傍らの包みには目もくれず弁当を食べている人、荷物をベンチに置いたまま売店で買い物をしている人。所長は「いいじゃない」と言うが、おのぼりさんのような自分の格好が恥ずかしくなった。

 新幹線あさま524号の指定席禁煙車になっている四号車は、自由席喫煙車に接している。境のドアが開くたびに隣の悪臭が入り込んで来るのに閉口した。たった一時間半の路線になぜ喫煙車を設けなければならないのか。世の中にはわからないことが多い。同じ車両には大きな声でしゃべりどおしのおばさんグループがいる。品のないこと甚だしい。私は絶対あんなにはならないぞと思った。

 駅で買った信毎の夕刊もあらかた読み終えた。残りの道中は荒川の手前までぐっすり眠った。


エピローグ

 前夜までの贅沢な食事とうって変わって、帰宅後の夕食はコンビニのおにぎりとサンドイッチで済ませた。量の多い和食が続いた後はこれも悪くない。

 野沢温泉の薬局で求めた鼻炎の薬があまり効果なく、所長は翌日さっそく病院に行った。私はすこぶる元気だ。来年もまた温泉に行こうともくろんでいる。体を休めるなら山の空気とお湯が一番である。でもまた所長が風邪をひくだろうか。長野県でなければ大丈夫かもしれない。草津なんてどうだろう・・・・・などと旅行かばんをかたづけながら考え、こうして木村言語研究所の短い夏休みが終わった。
(2002年9月27日−10月6日 記)



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