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統一と分化と

木村琢也

これは、清泉女子大学人文科学研究所発行の『清泉文苑』第19号(2002年3月発行),
98〜99ページに収められた、私のエッセーです。
(原文のタテ書きをヨコ書きに、漢数字を算用数字に改めました。)

  2002年が始まり、ヨーロッパ12か国でいよいよ統一通貨ユーロの現金が流通を開始した。昨年9月上旬に私が妻と二人でスペインを訪れたときは当然まだペセタ以外の現金を見ることはなく、買い物をしても食事をしても、なるほど料金表やレシートにはいちいちペセタとユーロの数値が併記してあったものの、店員が口にする値段はペセタだけ、こちらが手渡すお金もペセタだけ、その4か月後には同じ店員が同じ口で「9ユーロ25セントです」などと言い、ユーロの紙幣や硬貨がスペイン人たちの手から手へと渡るようになるなどということは、想像するのも難しい、なにか非現実的なことに思えた。
  ところがニュースによると新年の訪れとともにユーロの現金は無事流通を始め、大きな混乱もなく人々は新しい通貨を使っているという。ペセタにもフランにもマルクにもリラにも、それぞれ歴史と人々の思い入れがあろう。それらを捨ててまで統一通貨に乗りかえることを決め、実行してしまう。ヨーロッパの人々の統一への強い意志、決意が感じられる。
  しかし、このような統一への大きな流れがあるのと同時に、個別化と言おうか細分化と言おうか、統一とは逆向きの動きが常にあちこちで見られる、というのもまたヨーロッパの現実なのであり、スペインもその例外ではあり得ない。
  カタルーニャ語という言語がある。スペインの北東部、カタルーニャ自治州を中心に約600万人の話し手を持つというその言語は、フランコ独裁の時代(1939〜75)には公の使用が禁じられていたが、フランコ死後の1978年憲法でカスティーリャ語(スペイン語)、ガリシア語、バスク語とともにスペインの公用語の地位を得た。
  カタルーニャ自治州の州都バルセロナを私は1985年に初めて訪れている。街路の名前、公共の建物の表示などはすべてカタルーニャ語とスペイン語の二言語併記だったが、そのスペイン語のほうだけが黒いラッカースプレーで消され、そのわきに「カタルーニャ語でお願いします!」というカタルーニャ語で書かれたステッカーが貼りつけてある、という光景をあちこちで見た。でも街を歩いても耳にするのはスペイン語ばかり。要するにカタルーニャ語を使おうとする少数の急進派ががんばっているのだな、と感じながらあのときはバルセロナをあとにした。
  ところがその12年後の1997年に同地を再訪したら、様相が一変していた。街の表示は相変わらずの二言語併記だが、広告などはカタルーニャ語だけのものも多く、耳にとびこんでくる言葉は圧倒的にカタルーニャ語だ。今や20歳以下の若者、子供は母語としてカタルーニャ語を、第二言語としてスペイン語を身につけているという。もうラッカースプレーもステッカーも必要ない。中南米をほとんど一色に塗りつぶし、おかげで今や3億5000万人の話者を持つに至ったスペイン語が、その本家の中に反乱児をかかえるかっこうになっているのである。しかもその反乱児は順調に成長している。カタルーニャ語に耳が慣れない私は、なんだか心細い思いがした。
  カタルーニャ自治州のとなりにバレンシア自治州がある。パエリャという名物料理で有名なこの地方では、実は「バレンシア語」という言語が話されていることになっている。なっている、と書いたのは、このバレンシア語なる言語、言語学的にはどう見てもカタルーニャ語の方言であり、発音を聞けば母音の響きに若干の違いがあるものの、文字だけを見るとカタルーニャ語との違いを見つけるのに苦労するほどなのである。
  昨年9月の旅行まで私は事実上バレンシアを訪れたことがなかったので、今回パエリャと地中海とバレンシア語を楽しみに、この地に行ってみた。例によって街の表示はバレンシア語(カタルーニャ語と見分けがつかないが)とスペイン語の併記で、書店には「バレンシア語の教科書」が積んである。でも私の気づいた限り街でバレンシア語を耳にすることはついになく、バレンシア語を聞いたのはホテルの部屋で見たテレビの番組でだった。バレンシア語の放送局があり、キャスターがバレンシア語でニュースを伝えていた。ニュースが終わると歌謡番組が始まった。派手なセットの中、きらびやかなドレスの女性が現われ、流暢なバレンシア語であいさつし、歌手を紹介した。だが、次々に現れる歌手たちの歌う歌詞は、どれもスペイン語なのだった。
  結局テレビ以外でバレンシア語を耳にすることのないまま、私は妻と次の目的地であるマドリード行きの特急に乗りこんだ。四人掛けの対面式の座席で、私たちの向かいに座ったのは5歳ぐらいの男の子を連れた若い母親だった。とても静かな親子で、ときおり言葉をかわしているのだが、ささやくような声なので私には聞き取れない。私は本を取り出して読み始め、となりで妻は座ったまま寝息を立て始めた。
  やがて車内アナウンスが流れだした。まずバレンシア語で、次にスペイン語で。スペイン語を理解できないバレンシア人など存在しないのに、このこだわりはなぜなのだろう。バレンシア語なんか街の人はだれも使っていなかったじゃないか。私は皮肉な気持ちでそのアナウンスを聞いていた。不意に、向かいの席の母親が今までよりも大きな、しかしようやく私に聞き取れる程度の声でかたわらの男の子に言った。「いや?どうしていやなの?」
  その「どうして?」は「ポルケ?」(スペイン語)でもなく「パルケ?」(カタルーニャ語)でもない「ペルケ?」・・・まちがいなくバレンシア語だった。

(c) 木村琢也, 2002


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