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木村言語研究所報告
【海外視察報告エッセー】

スペイン旅行 2001年夏

〜マドリード・バレンシア・トレド〜

                                                  副 所 長

1.はじまり
2.飛行機と空港
3.スペインの乗り物
4.ホテルにて
5.観光
6.旅のおわり


1. はじまり

  「行きたいなあ」
  「また行こうね」
  四年前のスペイン旅行から帰ってきて以来、私たち夫婦は何度このやり取りを繰り返しただろうか。
  夫は教師だから、まとまった休みが取れるのは学校の長期休暇中に限られる。だが、その時期に仕事がはいったり、どちらかの体調が悪かったり、お金がなかったりで都合がつかず、生来のものぐさも災いして、なかなか実現できなかったのだった。
  2001年は私たちの結婚十周年にあたる。これ以上の大義名分がありえようか。うまい具合に貯金もささやかながらできた。通貨が完全にユーロに切り替わる前に、前回使い残したペセタのトラべラーズ・チェックで遊んでこようよ。
  めでたくふたりの意見が一致して、7月中旬に予約をとった。
  私はトレドに行きたいという希望を出しただけで、旅行日程のすべてを夫が計画してくれた。往復の飛行機代がひとり16万4000円かかる。四年前は現地のインフォメーションで宿泊所を見つけたりもしたが、日本で予約して料金を先払いしたほうがお金の心配をしなくてすむので、代理店と何回かやり取りしたのちホテルも決めた。





2. 飛行機と空港

 成田―アムステルダム

  8月31日金曜日の朝、東京は曇り。成田空港内の冷房がききすぎていて、寒がりの私にはつらかった。意外に利用客が少ない。手続きはいたってスムーズだった。
  飛行機は往復アムステルダム乗り換えの
KLMを利用した。私は海外旅行に慣れていないので、何もかもが珍しく感じられる。
  成田―アムステルダム間の機内アナウンスは蘭―英―日の順だ。オランダ語訛のブリティッシュ・イングリッシュが聞き取りにくい。特に機長の挨拶は、ぼんやりしているといつ英語になったのかわからない。蘭・英のアナウンスが早口であっという間に終わるのに比べると、日本語はゆっくりの上にいろいろなことを補いながら婉曲な言い回しを多用するため、長く感じられた。
  機内が寒いのにはまいった。この日の私の服装はジーパンにTシャツ、半そでの綿シャツを重ね着し、その上からトレーナーをかぶったのだが、配られた毛布を顎まで引き上げてもまだ寒かった。大柄な男性たちも私と同様毛布にくるまっていたところを見ると、本当に気温が低かったようだ。よく風邪をひかなかったものだ。
  イヤホンの音楽を聴きながらほとんどの時間をうとうとして過ごした。機内誌のプログラムで大好きなカントリーミュージックのチャンネルを見つけたので聴いてみたら、
Jポップが流れていた。プログラムを見直すと、アジア路線の場合変更があると記載されていた。
  エコノミー・クラス症候群予防のためのストレッチ運動を奨励するビデオは四年前にはなかったと思う。私もできるだけ水分をとり、トイレにまめに行くように心がけた。トイレの順番を待っている間に少し脚の曲げ伸ばしやマッサージもおこなった。なにせもう中年である。気をつけるに越したことはない。
  余談だが、トイレの便座に腰かけると正面に大きな鏡がある。あれはなんとも居心地が悪かった。
  アムステルダムの天気が悪く、上空でかなり待たされた。空港の到着ゲートとマドリード行きの接続便のゲートが離れていたので、時間が気になって早足で歩いた。歩くことがこんなに気持ちよいとは思わなかった。
  途中のチェックポイントで係員にパスポートの提示を求められ、目的地と渡航目的、滞在期間を英語で質問された。これが入国審査だったらしいと気がついたのはマドリードに着いてからのことだ。入国スタンプは押印されなかった。
  出発時刻を確認すると余裕のあることがわかったので、夫はスタンドバーでハイネケンを楽しみ、私はゆっくりトイレを利用した。



 アムステルダム―マドリード

  私たちが乗ったアムステルダム―マドリード間の便は全部の座席がビジネス・クラス仕様のようで、ゆったりしている。それはいいのだが椅子が高い。同世代の日本人女性の中でも特に背の低い私は、爪先がやっと床に触れるだけという姿勢でのフライトを強いられた。フットレストもまったく意味をなさなかった。
  シートベルト着用のサインが消えると、エコノミーとビジネス・クラスの間にカーテンがひかれた。私たちの席はエコノミーの最前列だったので、カーテンのすきまからときどきあちらの様子が見える。食事の内容が異なるのはもちろん、食器もプラスチックではなく、ガラスや陶器のようだ。あ、キャンディーのサービスをしている、と待っていたが、向こう側だけで終わってしまった。
  マドリード・バラハス空港に着いた私たちを迎えてくれたのは煙草のにおいだった。どこもかしこも煙草だらけだ。夫は「スペインに着いたって気がする」と言った。私は煙草が大嫌いだけれど、この国に来た以上我慢しなければならない。ここから先、スペイン語のわからない私はひたすら夫に頼るのみだ。
  すぐに最初のトラブルが発生した。到着ゲートの電光掲示板に表示されたとおり第五ラウンジまで荷物を取りに行った。しかしいつまでたっても出てこない。同じ便に乗っていた人たちも不安げにベルトコンベアを見つめていたが、ひとり減り、ふたり減りして心細くなってきた。夫がインフォメーションで確かめると、
KLMの荷物は第二ラウンジの取り扱いだという……。さきほど歩いた長い通路を引き返し、やっと鞄を受け取ることができた。スペインは手強い。
  表示にしたがってテクテク歩くうちに出口に来てしまった。あれ、入国審査ってしなくていいの?と旅慣れない私はまたまた不安になる。夫も不思議に思ったようで、係員とおぼしき男性に尋ねた。日本からの直行便ではなくてアムステルダム乗り換えだから問題ないとのこと。
  構内の両替所でトラベラーズ・チェックを全部換金した。約10万ペセタの現金と荷物をしっかり抱えて、私たちはマドリードの市街地に向かった。





3. スペインの乗り物

 タクシー

  「日本人の旅券と金品を狙った強盗傷害事件が多発している」と出発前にずいぶん脅かされた。空港または駅とホテルの間は全財産を持ち歩いているわけだから、タクシーを利用するのが鉄則だそうだ。市街地からはずれたホテルに宿泊したときの観光にも根性のない中年夫婦はタクシーに頼ったので、十回は乗っただろう。
  バラハスから乗ったタクシーは強烈だった。車体が恐ろしく古い。がんがん飛ばす。運転席と客を隔てる透明なボードの向こうで、あんちゃんと呼びたいタイプの運転手がラジオのユーロ・ポップに合わせて体をゆすりながら煙草を吸う。午後7時の西日は強く車内の温度がかなり高いがクーラーはなし。私は気分が悪くなってきた。あんちゃんは夫が告げたホテルの住所を信用せず、別の番地を言い張る。目的地近くなってようやくこちらの言うことに納得したらしい。もうだめ、吐きそうという状態になった頃、ホテルの看板が見えた。
  バレンシアには怪しいおじいちゃん運転手がいた。行き先を聞いて、「同じ名前のホテルがあっちにもこっちにもある…」などともごもごしゃべっている。確かにあちこちにあるがそれは世界各地の話で、バレンシアにはひとつだけなのだけれど。
  トレドでは、市内観光を終えてソコドベル広場でタクシーを止めようとしたら、運転手さんに「乗り場はあっちだ」と、アルカサルの方角を教えられた。定められた場所以外では客を拾えないらしい。確かに「
TAXI」という看板があったが、矢印の示す意味があいまいで、どこで待てばよいのかはっきりしない。そのあたりにいたタクシーが止まってくれたので助かった。
  それでもとにかく運転手さんたちはきちんと仕事をしてくれ、おかげで私たちは安全に観光できた。



 メトロ(地下鉄)

  マドリードの市内観光にはメトロを使った。十回乗れる回数券を購入し九回使った。夫によると十分元は取れたらしい。普通の切符と同じ大きさで見た目は全然ありがたくないのだがとても便利だ。
  四年前は地上入口から改札までの階段が磨耗していて歩きにくかったのを覚えている。ステップの中央がへこんでいるだけでなく、ツルツル滑りそうな感触だった。今回はそんなこともなく、安心して上り下りできた。
  地上でよく見かけた
CD売りが駅構内にもいる。通路の壁際に大きな布を敷き、その上にCDをきちんと並べるのが作法のようだ。商売をしているのはたいていアフリカ系だが、アジア系も一回見かけた。
  エスカレーターは東京と逆の右乗りだった。ホームの電光掲示板に「前の電車は○分前に出発」というのが出る。駅によっては「次の電車は○分後に到着」と出る。
  メトロは四両編成ぐらいだったと思う。ドアは自動開閉もあるが、利用客が小さなレバーを押し上げて開ける作りになっていることが多い。座席はゆったりしていて数が少ない。つり革がなく、私には届かない高さにパイプが渡してあるだけだ。座席の両端と中央にてすりがあるのみで、ドアの両脇につかまる場所がない。立つ位置によっては恐ろしく不安定だ。
  マドリードでの最後の日に、駅の通路でへたくそなロシア民謡を演奏するアコーディオン弾きと、車内でギターの弾き語りをするラテン・アメリカ人らしいグループを見た。
  バレンシアのメトロは新しく、広々とした駅の内装に工夫が凝らされていた。切符が日本の定期券のように大きい。改札を出るときに必要ないので、あちこちに使用済みの切符が捨ててあるのが見苦しかった。



 
RENFE(国鉄)

  マドリードからエル・エスコリアルには「セルカニーアス(近郊線)」、トレドには「レヒオナル(中距離線)」、バレンシアには「グランデス・リネアス(長距離線)」を利用した。(この他にかの有名な
AVEがあるが、今回は乗る機会がなかった。)セルカニアスとレヒオナルの券売機は別になっている。
  グランデス・リネアスは全席指定で、窓口で往復切符を購入した。往路は私たちが希望した列車の二等の禁煙車が満席で、図らずも食事付きの一等に乗ることになった。このアラリス号が何番線から出るのか、発車時刻が近づいても掲示に出ない。改札で尋ねたら、なんとAVEの発着場の九番線だという。慌てて小走りで移動した。やはりスペインは手強い。
  コインロッカーも一筋縄ではいかない。アトーチャ駅で荷物を出すためにカードキーを差し込んだが開かなかった。故障の表示が出ている。係員を呼ぶと、どういう仕掛けになっているのか、ノートパソコンとマスターキーを使って開けてくれた。係員は作業をする間にも他の客の相手をする。私は時間が気になって「あんたを呼んだのはあたしたちなんだから、こっちを先にしてよ」と内心いらついてしまったが、スペインでは普通のことらしく、旅行中何度か似たような思いを味わった。
  トレド駅のコインロッカーは硬貨ではなくて専用メダルを使わなくてはならない。そのメダルを券売窓口で買うのだが、窓口はひとつしか開いておらず、そこには切符を求める利用客が列を作っている。順番が回ってくるまでに10分近くかかったかもしれない。料金の盗難防止のためだろうが、それなら窓口のそばにメダル販売機を設置すればすむことだ。世界的な観光地の最寄り駅にしてはお粗末だった。





4. ホテルにて

 マドリード/トリップ・グラン・ビーア☆☆☆

  マドリードの目抜き通りグラン・ビーア沿いにある。メトロのグラン・ビーア駅出口から歩いて1分もかからない。市内観光に適した場所だ。足腰に自信があれば、ガイドブックに載っている有名スポットの多くに歩いていける。もちろん、メトロを使いこなせれば言うことなしだ。カフェテリア、レストラン、バールがいたるところにあるので、飲み食いに不自由しない。「カサ・デル・リーブロ」(書店)と「マドリード・ロック」(
CDショップ)も近い。
  スペイン内戦時にヘミングウェイがここのバーで原稿を書いて送ったという由緒あるホテルだ。エレベーターのドアの見た目がトイレのそれのようで、自分で開閉しなければいけないのには驚いた。部屋の内装はきれいで悪くない。バスルームの水量が豊富なのも良い。
  すばらしいのが朝食だ。パン、デニッシュ、シリアル、ハム、チーズ、ヨーグルト、卵、惣菜、果物、ジュース、どれも種類が豊富でつい食べ過ぎてしまう。今回泊まった中で一番だった。
  唯一の欠点は都会の騒音だ。一晩中人と車が行き交っているからどうしても室内にざわめきが伝わってくる。土曜の夜から日曜日にかけては相当な騒ぎだった。私たちは昼間の疲れと寝る前のビールでぐっすり休めたので関係なかったが。
  部屋が狭いわりに宿泊料がちょっと高いが、ここはおすすめだ。私のだんなさまの名前を間違えなければもっとおすすめだ。 清算書の宛名の
TAKURAっていったい誰? 我が最愛の夫は「たくや」と申します。(8/31-9/3 ツイン三泊41400円)



 バレンシア/ホリデイ・イン・バレンシア☆☆☆☆

  まだ新しくてピカピカのビジネスホテル。スタッフにさまざまな言語を話せる人材をそろえている。胸の名札のフランスやドイツの国旗が目印だ。英語は星条旗ではなくユニオン・ジャックで現される。アメリカ英語に親しんでいる日本人はスペイン語訛りのブリティッシュ・イングリッシュにとまどうかもしれない。
  部屋のテレビではスペイン語のほかにバレンシア語と英・独・仏・ポーランド語のチャンネルが見られた。ホテル内に会議場がいくつもあり、私たちの滞在中に韓国の
LG(松下や日立のような大手電器メーカー)がコンファレンスを行なっていた。バレンシアで朝鮮語を耳にするとは予想もしていなかった。
  建物全体がアメリカ風で明るい。部屋が広く、十分に体を休められた。ただここはエアコンが頑固で、27度以外の設定を受け付けない。窓も開かない。就寝中いささか蒸し暑かった。
  バスルームには壁面に容器が固定されたハンドソープとボディーシャンプー以外にアメニティー・セットがない。環境保護に協力するため無駄な消費を抑える方針だそうだ。必要なものがあれば無料で提供すると説明があった。タオルも、客がバスタブ内に置いたもののみ交換してくれる。
  立地は良くない。トゥリア川のほとりで観光名所のある旧市街から離れているうえ、最寄りのメトロの駅まで20分ほど歩く。しかもこのメトロが旧市街の周辺を掠めているだけなので、
RENFEのノルテ駅か「エル・コルテ・イングレス」(大手の百貨店)に行くぐらいの使い道しかない。タクシーを使わざるをえなかった。
  周囲に飲食店が少なく(そういえば、裏手に高そうなバスク料理店があった)、夜の一杯はホテルのバーで済ませた。フランス語ネイティブと思われる、美人で気配りのあるおねえさんが切り盛りしていて、なんとなく得した気分ではある。スペインのバールでおなじみのタパス(肴)ではなくて隣のイタリアン・レストランで作る料理を出すので、やや高い。モッツァレラとハーブのピザがおいしかった。
  店の片隅にあるゲーム機のようなインターネット端末を試してみた。2000ペセタ札を入れてしばらく遊んでから接続を切ったら、つり銭が出てこないではないか。よくよく見たら「つりは出ない」との注意書きがあった。時間いっぱい楽しめばよかった。
  二日目の朝、頼みもしないモーニングコールに起こされた。まだ6時20分だ。前夜10時過ぎ、私たちがバーでくつろいでいるときに日本人の団体がバスで到着した。彼らと間違えられたのだろうと夫が言う。団体さんには中年以上の女性が多くて皆ひどく疲れた様子だったのに、出発がずいぶん早いんだなあと感心した。朝寝坊の私には無理だ。
  滞在中にランドリー・サービスを利用した。私のブラジャーとショーツ、ふたりのハンカチは洗面所で手洗いし、それ以外を頼んだ。シャツ3枚、Tシャツ7枚、下着12枚、靴下8足で約1万ペセタかかった。シャツとTシャツには部屋番号を手書きした小さな紙片がホチキスの大きな針で留めてあり、気をつけて取り外したつもりだったけれど穴があいてしまった。トラブルがあるかもしれないと思って特にお気に入りのTシャツを洗濯に出さなかったのは正解だった。(9/3-9/6 ツイン三泊26400円)



 トレド/パラドール・コンデ・デ・オルガス☆☆☆☆

  部屋に案内されて、思わず「わあ!」と声を出してしまった。それほどバルコニーからの眺めが素晴らしかったのだ。写真で見たのと同じトレドの街が目の前に広がっている。私の喜ぶ様を見て、部屋に案内してくれた年配のボーイが「そうだろう、そうだろうとも」という自慢げな口調でしきりにしゃべる。(彼は私のことを日本人に見えないと言った。私を評して中国っぽいとか朝鮮美人とかいう声が昔からあるにはあったが、客商売とは言え、果たしてスペイン人にアジア人の区別がつくのだろうか?)
  ボーイが部屋まで荷物を運んでくれたところからして古風だが、建物はもちろん、サロンや廊下に置かれている調度品も古風だ。ドアが本物の木製である。それだけで感激してしまった。客室内のテーブルや鏡台は新しかったものの、雰囲気を損ねないようなデザインを選んでいる。床はタイル張りでラグが敷いてあった。バスルームだけは現代的で、新しく清潔だ。客の気持ちが良くわかっている。セイフティー・ボックスが鍵の代わりにクレジット・カードを使うようになっていた。カードを持っていない客はどうするのだろう?
  帰国後に知ったのだが、ここのバーのテラスは観光ポイントだそうで、若い日本人のグループがどやどやとやってきて、記念撮影をしたと思ったら出て行った。せめてコーヒーぐらい注文するのが礼儀というものだ。
  空気はきれいだし、涼しい。喧騒もない。私たちはディナーの時間まで昼寝ならぬ夕方寝をした。寝過ごして、有名な夕日を拝めなかった。まあ良い。また来ればいいのだ。
  当初の予定では街まで行って夕飯を食べるつもりだった。しかしわざわざ出かけるには遠すぎる。結婚十周年だ、けちけちすることもないと、意を決してパラドール内のレストランに入った。せっかくなので、街の夜景が見えるテラスのテーブルについた。
  コース料理がおいしそうだったけれど、あいにく私たちは胃袋が小さいのであきらめた。私は兎肉入りサフランリゾット(だと思う)、夫はペルディス(鳥の一種)の赤ワイン煮(だと思う)を頼んだ。飲み物は赤ワインのハーフ・ボトルにした。料理を待つ間に大粒のオリーブとチョリソー、赤キャベツの煮物(?)が給仕された。丸パンの皮がビスケットのように甘い。手でちぎるのにかなり力がいるが、中は柔らかい。いままで食べたことのない味だった。デザートに名物のお菓子マサパン一皿とコーヒーをとった。贅沢でゆったりとした時間を楽しみつつこんなに食べても4100ペセタだった。
  私たちの近くのテーブルで、15人ほどの日本人のグループが食事をしていた。ガイドを勤める女性以外は60歳以上に見えた。お年のせいなのかどうか、みなさん一様に声が大きくて甲高い。その場にふさわしくない音響なのだ。ちょっと恥ずかしかった。
  翌日の朝食はハム、ソーセージ、シリアルの種類が多いのが特徴的だった。
  ここでもうちのだんなさまの名前がおかしなことになっていた。清算書の
CLIENTEの項目にTAYUKAとある。スペイン人にとって「たくや」がそれほど難しい名前だとは知らなかった。(9/6-9/7 シティービュー・ツイン一泊23000円)



 マドリード/オテル・コンベンシオン☆☆☆☆

  ここは本当に四つ星ホテルなのか。ひどいところに泊まってしまった。
  チェック・インを済ませて部屋に入り、セイフティー・ボックスに貴重品を納めようとしたら鍵がついていない。フロントに問い合わせると、「予備の鍵はないし、フロントで貴重品を預かるサービスもない。鍵のある部屋に変更しましょうか」と言う。パスポートや航空券を携帯してマドリードを歩きたくなかったので部屋を変えてもらった。
  夫がきっちりスペイン語でしゃべっているのに断固として英語を使うおばさまが、新しいルーム・キーとともにセイフティー・ボックスの鍵をよこした。つまりこれは、チェック・インのときにもらうものなのか? だとしたら初めに受け付けてくれたフロントのおねえさんが忘れただけか? すると、元の部屋のボックスの鍵は受付のしかるべきところに保管されていて、わざわざ部屋を変わる必要がなかったのではないか……。
  新たに割り当てられた部屋は狭苦しい中庭に面していて、ホテルの別の部屋の窓が見えるだけ。一日中暗い。元の部屋は、正面が工事現場とはいえ一応外から光が入った。
  隣室からドスンドスンという音がする。かなりうるさい。賃貸アパートなみだ。やがて音の正体が分かった。クローゼットの引き戸のすべりがとんでもなく悪い。思い切り力を入れて開けると、戸が反対側にドスンとぶち当たる。閉めるときにもドスンという。私も遠慮なくやらせてもらった。
  バスルームもすごい。洗面台の蛇口がレバー式ではなくてひねるタイプなのだが、異常に固くてなかなか回らない。開けるのも閉めるのも一苦労だ。しかも水とお湯が別々なので温度調節が難しい。シャワーも同様である。メイドさんもてこずったと見えて、ぽたぽた水滴が落ちている。バスタブの縁に掛けてあったバスマットがびしょ濡れで使い物にならなかった。バスタオルはなにやら酸っぱい臭いがした。シャワーを使うときには熱湯を浴びないように注意した。注意しすぎて水をかぶる羽目になった。
  ベッドに入ってから、廊下の話し声が気になってしかたなかった。エレベーターが近く、なんとなくざわざわしている。室温が異常に低いので冷房を切ったのに風が止まらず、一晩中寒かった。パンフの
“800 confortables habitaciones”(快適な800室)が嘘か、私たちの部屋が801室目かのどちらかに違いない。
  さらに驚きは続く。翌朝、朝食をとるためにレストランに入ったら、「ここはアメリカンで、お客様はリストに入っていないからコンチネンタルだ。料金を払えばこちらでも食事できる」と言われた。確かに、旅行会社のクーポンによればこのホテルのみコンチネンタルになっていた。
  教えてもらった場所は地下の殺風景でだだっ広い会議場のような部屋だった。ずらりと並んだテーブルにトレーがセットしてある。パンが2種類とラスク、ジャム二種類にマーガリン、これですべてだ。コーヒーとオレンジジュースは一応飲み放題だが、食欲が湧かない。最終日は飛行機の時間の関係で朝食をとっているひまがなかったけれど、全然残念に思わなかった。
  800室もある大ホテルだからか、前日までに泊まったところとは明らかに客層が異なる。出入り口にたびたび観光バスが横付けになっていた。団体客が多いのだろう。これまでのホテルでは見かけなかったアフリカ系およびラテン・アメリカ系のグループが目立った。会議場とバンケット・ホールもあるそうなので、仕事がらみの人々もいるのかもしれない。ロビーが大変広く、いつもにぎわっていた。
  メトロのオドネル駅からすぐだが人通りが少ない。夜間は少し怖かった。それもそのはず、ここは街の終わりで、この先には
tve(スペイン国営放送)のタワーぐらいしかない。後はバラハス空港まで一直線だ。バス・ツアーの団体さんならともかく、個人旅行向きではない。周囲に店が少ないので、ホテル内のギフト・ショップだけは充実していた。
  さて、チェック・アウトのときに最後の衝撃が待っていた。セイフティー・ボックスの使用料を払わされたのだ。二日間で税込み599ペセタ。あんまりではないか。旅行代理店を恨みたくなった。このホテルを「泊まってはいけない」リストの筆頭にあげよう。(9/7-9/9 ツイン二泊18000円)



 髪にまつわることなど

  出発前に少しでも荷物を減らそうと思い、用意したのに敢えて持っていかなかったものがある。シャンプーとコンディショナーだ。だがこの選択は失敗だった。ホテルのバスルームにあるシャンプーが私の髪質にまったく合わない。乾燥した空気のせいもあって、髪をとかすとギシギシ軋んで静電気が起きる始末だ。しかたがないのでパンテーンの
PRO-Vを買った。これとて万全ではないがはるかにマシだ。(帰国後、私は自分のいつものブランドを使い、パンテーンは「僕はなんでもいいんだ」という夫におしつけた)
  ドライヤーも良くなかった。私の髪はストレートのロングで、一本一本がやや太い。寄る年波に近年著しくボリュームが減ったとはいえ、大方の西洋人より髪の量が多い。しかるにホテルのドライヤーは風量が少ない。本体が熱くなるばかりで髪はいっこうに乾かないのだ。特に掃除機のホースみたいな形状のやつは最悪だった。合わないシャンプーとへっぽこドライヤーのせいで、旅行が終わる頃には髪が赤茶けてしまった。
  不思議だったのは、スペインのシャンプーやボディーソープ、石鹸の香りがとても弱かったことだ。使用中にはそこそこの香りが立つけれど、洗い流したあとになんにも残らない。コロンや香水の邪魔になるからだろうか? 私は風呂に入った気がせず、物足りなかった。
  浴槽に茶色の細い毛髪の落ちていることが何度かあった。私も夫も髪を染めていないから、明らかに掃除が行き届いていないのだ。私はかなり神経質な性質(たち)だがスペインではよく我慢したと思う。



 テレビ番組

  午前中と夜、限られた時間帯ではあるがホテルの部屋にいる間ずっとテレビをつけていた。スペイン語がわからなくてもけっこう楽しめるものだ。
  朝はニュースのあとにアニメが多い。ウィークデーの8時台は「ドラえもん」だ。朝寝坊の私たちが毎朝ちゃんと起きられたのは、これが見たかったからだ。
“El gato cosmico(宇宙ネコ)という副題を誰が付けたのか。ドラえもんは「未来の世界のネコ型ロボット」なのにと思う。ドラえもん役の声優が大山のぶ代の声をまねしていた。のび太もなんとなく似ている。しずかちゃんは本物より幼い。ジャイアンがただの間抜け声に吹きかえられていた。ガキ大将というより、でくの坊もしくはウドの大木のイメージである。
  現在テレビ朝日で放映中のものと絵の感じが異なる。かなり古い時代に製作されたエピソードを使っているようだ。スペインで見ていて映像が非常に日本的なことに気づいた。かつて韓国での評判が良くなかった理由はこれかと納得した。
  私たちはアニメに詳しくないのでタイトルもキャラクターもわからなかったけれど、他にも日本のものがいくつか放映されていた。アメリカやイギリスの作品も多い。懐かしのポパイが元気だ。だがスペイン製アニメにはお目にかからなかった。
  ドラマも「ビバリーヒルズ青春白書」「アリー・
myラブ」、フィラデルフィアが舞台の病院ものなど、アメリカ製が全盛である。当然スペイン語に吹きかえられている。ビバリーヒルズの魅力的な女性陣がそろってしわがれたおばさん声でしゃべるので、とても20代の会話とは思えない。それにどの人物も同じ声質だ。男の子たちも、デイビッドを除いて脂ぎったおじさん声だった。
  
“The Fugitive”―「逃亡者」と言えば、デビッド・ジャンセンかハリソン・フォードが思い浮かぶが、スペインで見た主人公はずっと若くてアクション・シーンのキレが良い。ただ、タイトルが画面いっぱいに広がったところで「エル・フヒティーボ」という声が重なった瞬間、私はガクッと力が抜けた。夫はそんな私を不思議に思ったようだけれども、スペイン語の響きがひょうきんだったのだからしかたない。(なんで日本でやらないのかなあと思ったら、帰国した週に「ゴールデン洋画劇場」が「新逃亡者」というタイトルで放映してくれた。シリーズ全部を見てみたい。)
  夜中はアメリカ映画を毎日放映している。旅行前に自宅のテレビで見たばかりの「アステロイド」の一部をまた見た。番組全体に占めるアメリカ物の割合が高すぎるように感じる。午前中にひとつだけスペイン語の連続ドラマがあったが、ペルーの番組じゃないかと夫が教えてくれた。人間関係が複雑なストーリーのようだった。
  バラエティーや歌謡ショー、視聴者参加番組はさすがに自前だった。そういえば、「クイズ$ミリオネア」のスペイン版があった。司会者が思わせぶりに右の眉をキューッと上げて解答者をじらせるようすがおかしかった。
  
NHK-BSの「ワールド・ニュース」でおなじみのキャスターたちとtveのニュースで再会したときには、「本当にスペインでもやってるんだ」などと、つまらないことに感心した。十日間の滞在中に伝えられた日本のニュースは歌舞伎町の火災のみ。逆にスペインで毎日見ていたアスナール首相の顔を帰国後さっぱり見かけなくなった。
  
CMについても少し書こう。たぶん紙おむつの宣伝だと思うが、アップで映る赤ちゃんが上機嫌でひたすら「ドドドドドド・・・」と言うだけのコマーシャルがあった。商品名は“Dodot”。子供嫌いの私がつい笑い出してしまうほど愉快な表情を見せてくれる。
  パソコン入門書のコマーシャルもおかしかった。マニュアルはチンプンカンプン、スクールの授業にもつい居眠り、座禅を組んでもわからない、そんなあなたにこの商品という趣向だ。もうひとつのバージョンは「ミッション・インポッシブル」のパロディーで、黒ずくめのタイトなコスチュームに身を包んだ男性が宙吊りになっている。パソコンの操作を誤ったためにミッションに失敗するというものだ。いずれも俳優さんのくさい演技が気に入った。





5.観光

 マドリード

  スペインでのお約束、「エル・コルテ・イングレス」のビニール袋を手に入れるところから私たちの観光が始まった。このデパートの袋に必要最小限のものを入れて歩いていると強盗に狙われにくいという。おまじないだろうがなんだろうが危ない目にあいたくないので、夫が早速実践した。私は女の常で持ち歩くものが多いため、中が透けて見えるバッグにカメラとフィルム・ケース、コルテの小さい袋にまとめた化粧道具をこれ見よがしにつっこんだ。パスポート、帰りの航空券、ホテルの予約クーポン、現金の大半をホテルのセイフティー・ボックスに保管し、パスポートのカラーコピーと現金少々をそれぞれ携帯した。二枚ある夫のクレジット・カードの一枚を私が持つことにした。
  9月1日土曜日、よく晴れている。久しぶりのグラン・ビーア一帯は外壁修理中の建物が多く、歩道に組まれた足場をくぐりぬけるようにして歩いた。旅行前に、マドリードに詳しい人々から日本人が襲われやすい危険地域を教えてもらった。エスパーニャ広場、マヨール広場、レティーロ公園は避けることにした。けれども、プエルタ・デル・ソルだけは行きたかった。行ってマドリードのシンボルであるくまさんに挨拶せねば、くま好きの私の気が納まらない。
  夫の腕にしがみつきバッグをしっかり抱えて行ってみたら、拍子抜けしてしまった。日本人こそいないけれど、観光客がいっぱいで平和そのものだ。くまの像と写真に収まる人、お土産を選ぶ人、カフェで休む人……。なにごともなかった。それでも安全とは言い切れない。たまたま私たちの運が良かっただけかもしれないのだから。


  昼食はサン・ベルナルド通りのハム専門店「パライソ・デル・ハモン」で食べた。スペインのレストランのメヌー・デル・ディーア(本日の定食)という仕組みはおもしろい。プリメル・プラート(前菜)とセグンド・プラート(メイン)がそれぞれ三、四種類あり、好きな組み合わせを注文する。パンは黙っていても出てくる。パスタを頼もうがパエーヤを選ぼうが、必ずだ。飲み物も料金に含まれる。ミネラル・ウォーター、炭酸水、ビール、ワインが一般的だ。水を頼むと大きなガラス瓶が運ばれてくる。ビールとワインはグラスで出される。アルコールに弱い私でも簡単に飲める量だ。食後のコーヒーが欲しければ別料金となる。
  私はメヌー・デル・ディーア(1200ペセタ)から念願のガスパーチョ(冷たい野菜スープ)と肉団子の煮込みを選んだ。夫はメヌー・エスペシアル(特別定食 1600ペセタ)のハムの盛り合わせとサーモン・ステーキ。
  ガスパーチョは日本で食べたものよりどろどろしていた。カマレーロ(ウェイター)の差し出すトレーに載ったクルトンや、きゅうり、たまねぎ、ピーマンなどの野菜のみじん切りから好みのものを選ぶとボウルに入れてもらえる。これらを加えるとスープを飲むというよりサラダを食べる感じだ。体中にビタミンが行きわたるようでおいしい。にんにくたっぷりの味付けに刺激されて食が進むからといってパンを食べ過ぎると二皿目が入らなくなるので自重した。けれどやはり肉団子を残してしまった。私には量が多い。
  スペインの飲食店にはカウンター(通常椅子なし)、軽食テーブル、食事テーブル(テーブル・クロスがかかっている)の三種類の席がある。店によってはカウンターとテーブルの二種類のこともあるし、テラス席が設けられることもある。同じ物を飲み食いしても料金が異なるらしい。食事テーブルには食事をとる客だけが座れる。私たちの食事中に、ビールとボカディーヨ(バゲットのサンドイッチ)を注文した男性が食事テーブルから軽食テーブルに移動させられるのを目撃した。
  飲食後もテーブルについたままくつろぐのは、まったくかまわないようだった。空のグラスやお皿を前にしてしゃべり続ける人々が大勢いる。客がテーブルを立つか次の注文を出さない限り、カマレーロは食器を片付けに来ない。(翻って我が日本の「こちらお下げしてよろしいでしょうか」は、客にさっさと出て行けと言わんばかりの無礼千万な態度である。この店は皿も十分に揃えられないのかと皮肉を言いたくなる。)
  スペインのカマレーロたちはよく働く。無愛想でこわい印象を受けるが、常に客に気を配り、仕事をてきぱきとこなす姿が見ていて気持ちよい。


  デスクブリミエント公園は静かだった。まだまだ日が高くて、こんな時間に歩いている私たちが間抜けなのだ。敷地内に駐車しているパトカーは交番の代わりだそうだ。暑い。コロンブスとモニュメントの写真を撮り終え、隣の国立考古学博物館に逃げ込んだ。
  この日は入場無料だった。広い博物館の一部しか開放されていなかったが、エルチェ婦人像をじっくり見ることができた。東洋的な顔立ちの美しい像だ。庭の地下にはアルタミラ洞窟の壁画のレプリカがあった。暗すぎて、何が描かれているのかよくわからなかった。
  このあたりで私は疲れてしまった。しかし夫はどうしてもテレフェリコ(ロープウェー)に乗ってカサ・デ・カンポに行こうと言う。プリンシーペ・ピオ駅から乗り場目指して公園沿いの坂道を登った。歩道のあちこちに犬の糞が落ちている。どれも大きい。このあたりは「うんちフリーゾーン」と見た。乾燥した気候ならではの蛮行だ。
  テレフェリコの箱の中は西日でとても暑い。陽射しがまぶしくて進行方向の景色がはっきりしない。その代わり市街地側はくっきり見えた。下方をのぞくとマンサナーレス川沿いの住宅の内部や屋上が丸見えだ。住宅とどちらが先にできたのか知らないが、良くこんなところで運転を続けていられるものだと思った。スピーカーから流れるガイドがスペイン語なので私にはわからない。意味がわからないから関係ないけれど、ひどい音質だった。
  着いたところはとんでもなく広い平原だった。一国の首都にこんなに何もない場所があるのが不思議でたまらない。あるいは東京が異常なのか。駐車場が埋まっていたので、車を利用する人が多いのだろう。木陰にテーブルと椅子を持ち込んだお年寄りのグループがカード・ゲームに興じていた。のどかだった。
  帰りは公園の中を歩いてメトロに戻った。スペインの午後8時はまだ明るい。ようやく気温が下がり、散歩におあつらえ向きの時間帯だ。一時間前には人影が少なかったのに、犬を連れた人たちでいっぱいになっている。大型犬が多い。あの大きさならうんちの立派なのも道理だ。
  グラン・ビーアにもどってもあまりおなかが空かなかった。夕食はホテル近くの「カフェテリーア・サハラ」で軽く済ませることにした。だが注文した品のどれも量が多くて、残さざるをえなかった。そばのテーブルでは若い女性がイカリングを食べている。皿に盛られた量が尋常ではない。日本のスーパーで売っている冷凍のパックより多かったのは確かだ。彼女はひとりで食べきれたのだろうか。


  翌2日日曜日はエル・エスコリアルに出かけた。二人とも朝が遅く、私が支度に手間取るので、エル・エスコリアル駅に着いたのは12時半頃だったろう。駅前からバスに乗ってかの有名な修道院に向かった。無愛想な外観からは想像できないほど見るべきものが多い。こんなところに住んだら私なら毎日迷子になるに違いない。
  霊廟に強い印象を受けた。歴代の王が安置されている部屋はひときわ豪華な装飾が施されていた。その他に王子や王女の棺桶が際限なく続く。中に火葬されてない遺体があると思ったら気持ち悪くなった。
  図書室は良かった。木の書架に収まった古い本に囲まれると、不思議と落ち着く。学問の各分野を象徴する明るい色彩の天井画が素晴らしい。夫が「文法」や「音楽」が描かれた部分をデジタル・カメラで撮影した。うまく写っただろうか?
  夕方、再びグラン・ビーアをぶらぶらした。「日曜日だからお店開いてないよ」と夫が言うのだが、街行く人々はお店の名前入りの袋を抱えている。試しに行ってみたらデパート、書店、
CDショップなど、大型店はどこも営業中だった。夫は「僕の留学中はみんなやってなかったのに、あれえー」とひとしきり騒いだのだった。
 街には緑と黄色の制服を着た清掃員がいる。朝から晩まで歩道を掃いてごみを集めている。私は東京ディズニーランド以外でこんな光景を見たことがない。マドリードは清潔な街とは言いがたいが、彼らの働きによってこの程度で済んでいるというべきなのだろう。
  ハム専門店「ムセオ・デル・ハモン」のカウンターにて、ビールと生ハムのボカディーヨを食べた。つきだしにハムのさいの目切りが出た。パンとハムだけで何でこんなにおいしいんだろう。でも、カウンターが高すぎて食べづらかった。またしても自分がチビであることを痛感した。


  9月3日は移動日。早めにアトーチャ駅に行って、旧駅舎の温室の写真を撮ったり売店を冷やかしたりした。
  トイレに入ったら、五つある個室のうちひとつが有料(25ペセタ)だった。無料のほうに長い列ができていた。私が順番を待つ間にお金を払って有料個室を使用したのはたったひとりだけ。そのおばちゃんは用を済ませて出てくると、ドアを開けたままで連れの女性を呼び、中に入れてやっていた。
  よく映画で見るように、個室のドアは下方の隙間が30センチぐらい開いている。犯罪防止のためだとは思うが、無防備な下半身が外から見えるのではないかと気になった。
  14時発の特急アラリスに乗ってバレンシアに向かった。



 バレンシア

  マドリードからバレンシアに向かう列車の窓の外は単調そのものだった。なだらかな赤い丘陵を覆うまばらな低木。黄色く枯れた草。手入れされている土地は畑か。こんな乾燥したところで何を作っているのだろう。丘の上に風車が見えた。と言っても、ドン・キホーテが取っ組み合いを演じたようなものではなくて、白くてスマートな風車が林立していた。目的地の少し手前でトンネルを通過したら急に風景が変わり、緑が増えた。
  バレンシアのノルテ駅は、私が思い描いていたヨーロッパの駅そのものだった。列車から降り、ホームと一体化した天井の高い待合スペースを通り抜けると、タイルで美しく飾られた切符売り場に出た。壁に“Buen viaje”をはじめ、旅行者への挨拶がいろいろな言語で掲げられていた。日本語は制作年代を感じさせる「御機嫌好う」だった。


  9月4日火曜日、「いくらなんでもマドリードほど危なくはないだろう」と、夫はコルテのビニール袋をやめてショルダーバッグで出かけることにした。
  メトロのアラメーダ駅目指してトゥリア川沿いの遊歩道を歩いた。前日乗ったタクシーの運転手の話では、この川はしばしば氾濫するので工事したそうだ。現在親水公園となり、まだ造成途中である。ここも夜7時ぐらいから犬と人間の数が増える。ガリバー児童公園という一画もある。地面に横たわった巨大なガリバーの体が階段や滑り台になっている。
  ホテルを出てまもなくのところにパラウ・デ・ラ・ムジカがあった。バレンシア自慢のまだ新しい音楽ホールだ。アラゴン橋のそばでパトカーと騎馬警官に遭遇した。馬よりはバイクのほうが便利そうな気がするが、優雅である。
  シャティバ駅で降りて、本屋で絵葉書とバレンシア語の入門書を買い、郵便局で切手を求め、アユンタミエント(市役所)広場を過ぎたあたりで背後から男性に呼び止められた。「カテドラルへの道を教えてほしい」と英語で言うので彼の手元の観光地図をのぞきこんだそのとき、旅行中最大の危機が私たちを襲った。
  どこからともなくもうひとりの男が「警察だ」と現れた。制服は着用していない。男とのスペイン語による話の合間に夫が早口で私に事情を伝える。「外国人による偽札使用事件があるので君たちの所持金を見せろ。現金はこれだけか。ホテルにおいてきた金も調べるので警察に来い。君はどうしてスペイン語が話せるのか。おかしいじゃないか。」と言っているらしい。
  私たちはふたり合わせてせいぜい3万ペセタぐらいしか持っていないが、道を尋ねてきた青年の財布にはざっと10万ある。ドルも混じっていた。男は身分証明書をかざして執拗に「警察に来い」を繰り返す一方で、青年を追い払った。夫は財布の中身を見せた以外は男の言葉に同意せず、抵抗を続けた。やがて男は諦めたのか、「荷物を盗られないようにしっかり抱えて歩け」と言い残して去っていった。
  私が「スペイン語わからないふりすればよかったのに」と言ったら、夫は「いや、スペイン語だから何とかなった。英語だったら相手のペースに巻き込まれたと思う」と答えた。
  このときのことを聞くと夫がなんとなく不機嫌になって言葉を濁すので、いまだに私は会話の詳細がわからないのだが、男はニセ刑事だったに違いないと思う。本物なら私たちにパスポートの提示を求めたはずだ。「警察」に連行されていたらどんな目にあっただろうか。
  問題は、最初に道を尋ねた善良そうな青年である。ブロンドに近い明るい茶色の髪に背の高い容姿はスペイン人らしくなかった。彼もグルだったのだろうか。男の現れたタイミングを考えるとその可能性が高い。だとしたら、悔しいが大した演技力だ。
  ここで得た教訓:現金とクレジット・カードは別にしておいたほうが安全だ。
  そうこうしているうちに昼休みの時間になってしまったので、食事をすることにした。アユンタミエント広場近くのレストラン「アテネオ」のメヌー・デル・ディーア(1200ペセタ)にパエーヤがあった。魚介が食べたかったのだが、残念ながら具は鶏肉だった。食後にカフェ・コルタード(ミルク入り)を頼んだのに、カフェ・ソロ(ブラック)が運ばれてきた……。


  私たちの宿泊しているアルメーダ界隈は普通のビルが立ち並ぶ区域だ。それが川を渡って旧市街の中心部に行くと、街の様子がまったく異なる。築百年なんて当たり前、そこらじゅうに何百年も昔の建造物が何気なく存在していた。古いものに手を加えて使い続けている。気候風土や建築方法の違いを考えても、日本の都市との隔たりは大きい。
  国立陶器博物館はかつて貴族の館だった。古代から現代にいたる陶器のコレクションを見学するのももちろん楽しいが、私は建物そのものや家具調度のほうが気に入った。装身具の前ではため息が出た。街の真ん中ゆえ、大広間の他は部屋がそれほど広くない。しかし室内の装飾は見事だ。外壁だけでも見る価値がある。隣の古い教会と好対照を成していた。
  カテドラルに入るとオルガンの音が聞こえた。オルガニストが練習をしていたのだ。ときどきまちがえる。ステンドグラスが美しい。
  キリストが最後の晩餐で使ったという聖杯を見た。カトリックは聖遺物だの奇跡だのが好きだ。祭壇上の展示ケースに近づけないのではっきりとはわからないが、写真を見ると瑪瑙製のカップが金と宝石で飾られており、あまりに贅沢だ。本物のわけがない。福音書に描かれたイエスの姿が真実なら、彼は木か素焼きの器を使っていたに違いない。
  私は宗教を必要としない。しかしながら、宗教を信じる人々の気持ちは、彼らが私に宗教を強要しない限り尊重するべきだと考えるし、彼らが大切に思うものを冒涜するつもりはない。夫以外に日本語のわかる人間がいなくても、その場で「こんな杯、嘘に決まってる」と声に出したりしない。だけどやはり理解できないのだ。しかるべき教育を受けたカトリック信者は、どうやって科学と信仰の折り合いをつけているのだろうか。
  ゴヤの絵があった。陰鬱でおどろおどろしい
“El condenado”(罪びと)の前でしばらく動けなかった。
  見学を終え、中のベンチでひと休みした。膝を折って祭壇に礼をする人、両手を組み合わせ目を閉じて祈る人の姿を生まれて初めて見た。
  中央市場前のお店でオルチャータという飲み物を試した。見かけは「コーヒー牛乳の牛乳割りに大量の氷を入れて放置しました」といったところで、全然おいしそうでない。味は養命酒(あるいはコーラ)フレーバーの砂糖入り牛乳とでも言おうか。これがよく冷えていておいしかった。乾いた喉に心地よい。ガイドブックによると、チューファという植物の塊茎から作るのだそうだ。牛乳とは関係ないらしい。
  店の向かいのラ・ロンハは15世紀に建てられた交易所だ。中には古い事務机が並んでいる。かつての使用者たちの名札がそのまま残っていた。
  くたびれ果てたので、「エル・コルテ・イングレス」のスーパーでパンと飲み物を買ってホテルに戻った。


  9月5日、ホテルからタクシーで海を見に行った。地中海である。この日は旅行中唯一の曇天で、午前中はTシャツ一枚では涼しすぎるほどだった。海水も冷たい。波が高いのに、小さな子供が水に入っている。ガラーンとした砂浜にビーチバレーを楽しむ男の子たちや読書をするおじさんがいた。トップレスのおばあさんもいた。怖いものを見てしまった。夫曰く「話が違う。」海沿いには保養所やレストランもあるのだが、寂れているとしか言いようがない。もはや季節外れのようだ。週末ならもう少し賑わっていただろうか。
  ラス・アレーナスからトランビーア(市電)に乗った。電車が近づいてきているのに券売機が小銭をなかなか受け付けてくれず、あせった。だが車中で検札があったわけでもなく、ただで乗れたかもしれない。ベニマクレでメトロに乗り換えコロンで降りて、また旧市街を歩いた。
  前日時間が遅すぎて入れなかった中央市場を見物した。小さい犬みたいに見える肉があった。スペインは犬食わないよなあと訝りながらケースに近づいたら、鶏だと言い張っていた夫が札を読んで「あ、うさぎだ」と教えてくれた。耳がないからわからなかった。次の日にトレドで食べてみた。鶏肉に似ていておいしかった。
  カテドラルの北側のビルヘン(聖母)広場にある店のテラスで、またしてもパエーヤ(1500ペセタ)を食べた。今度は魚介だ。ふたりで一皿だけ頼んだ。観光客相手の料理だろうが、そこそこおいしかった。広場に鳩が集まってくる。日本では珍しい白い鳩だ。ちょっと衛生上よろしくないが我慢することにした。
  よろしくないと言えば、バレンシアには蝿が多い。カフェテラスだけでなく、レストランの中でも飛んでいる。夫は「湿気があるから物が腐るんだ。マドリードだと腐る前に干からびる」と解説してくれた。確かに湿度がやや高い。マドリードでガサガサになってしまった指先が潤いを取り戻した。水道水の質も異なるようだ。温泉のようにヌルヌルしていた。
  サンタ・カテリーナ教会の塔は修復工事中で入れなかった。その近くに風情のある一画を見つけた。レドンダ(円形)広場という名のとおり、小さな噴水を中心にしてレース、陶器、お土産などを売る店が二重の円を描いている。と、
“¡Hay un gato!”(猫がいる!)と叫ぶ子供の声が聞こえた。(これぐらいのスペイン語なら私にだってわかる。)ペットショップの店先にシャム猫がいた。スペインに来て初めて見た猫だ。売り物ではなくて飼い猫のようだ。そのうち奥から毛足の長い黒猫も現れた。うれしくて写真を撮った。テレビでキャット・フードのコマーシャルをやっていたから愛猫家もいるに違いないが、スペインでは猫の存在感が希薄だ。本屋でも犬雑誌ばかりが目立った。
  再びカテドラルに入った。急に信仰に目覚めたわけではない。きのう登るのを諦めたミゲレーテの塔に挑戦したかったのだ。上に行くにしたがって螺旋階段の幅が狭くなり登りにくい。私はすっかり息があがってしまった。てっぺんからの眺めは気持ちよかった。私たちが泊まっているホテルや地中海まで見える。午後5時を知らせる鐘が頭のすぐ上から聞こえてきた。そう、ここは鐘楼なのだった。
  「エル・コルテ・イングレス」にてトイレ休憩。このデパートは三越、高島屋というよりはイトーヨーカドーかダイエーの雰囲気で、気軽に入れる。昼休みの時間帯でも営業しており、いつでも遠慮なく安心してトイレを使えるのが魅力だ。
  新学期セール開催中だったので特設会場をのぞいた。制服が男子用、女子用それぞれ一種類しかないように見えた。すべての学校に共通なのだろうか? 制服だけでなく教科書も自分で購入する仕組みのようだ。鞄は特に定められていないらしく、ミッキーマウスやポケモンなどのキャラクターがプリントされたリュックサックが陳列されていた。
  おいしい物を食べた。店の名前も通りの名前も覚えていない。ふたつあるコルテのどちらかのそばにある、細いにぎやかな通りだ。カフェのテーブルが出て、車の通らない狭い道をさらに狭くしていた。そこのタパス自慢のバールで食べたボケローネス・エン・ビナグレ(鰯のマリネ)が、舌にじんわりとうまかった。にんにくのみじん切りとパセリが散らしてあって、酸味が程よく、ビールが進む。ボカディーヨはやや小ぶりだがひと手間かけてあった。上下に切ったバゲットを温めて薄くバターを塗ったところに生ハムがはさまれている。パンの熱でハムの脂肪がとけだし、柔らかいうまみを存分に楽しめた。


  9月6日は移動日。11時20分発のアラリスに乗った。向かいの席にかわいい男の子と若いおかあさんが座った。ふたりが下車した後で、夫が「あのおかあさん、バレンシア語しゃべってた」と教えてくれた。
  スペインでは、いわゆるスペイン語として知られるカスティーヤ語の他に、カタルーニャ語、ガリシア語、バスク語が使用されていると聞いていたが、バレンシア語の存在は比較的最近になるまで知らなかった。街の標識はバレンシア語とスペイン語の二言語表記だ。もちろんバレンシア語が先である。アラリスの中のアナウンスもまずバレンシア語で行なわれた。学校でもバレンシア語の授業があるようだ。
  ある地域で話されていることばをひとつの言語と認めるかどうかは、非常に微妙な政治問題となることがある。(琉球王国が薩摩藩に征服されなかったら、あるいは沖縄県が第二次世界大戦後に日本からの独立を果たし経済の自立ができていたら、「日本語の琉球方言」ではなく「琉球語」と分類されていたかもしれない。)スペインではバレンシア語を認める立場、スペイン語の方言とする立場、あるいはカタルーニャ語の方言とする立場、それぞれに政治的な背景があるという。
  アトーチャ駅でレヒオナルに乗り換えてトレドに向かった。トレド行きの切符を窓口で買ったら、自動改札を通り抜けるためだけのチケットと列車に乗るための本券の二枚を渡された。



 トレド

  パラドールで贅沢な一夜を過ごし、明けて9月7日、トレドの市内観光をした。ホテルのフロントの話だとバスターミナルとトレド駅以外にはコインロッカーがないそうなので、タクシーでまず駅に寄ってもらった。そこで前述したようにロッカー用のメダルを購入するのに手間取り、その間にタクシーの運転手は楽して稼いだというわけだ。
  トレドの街は歩きにくい。坂が多く細い道が入り組んでいて、あたりを見渡せる場所が極端に少ない。空を見上げても、密集した建物の屋根によって切り取られた青い切れっ端がちらりとのぞくだけで、太陽の位置がわからない。迷路のような街の中で方角を教えてくれるはずのカテドラルの塔も、どこにあるのやら。
  石畳を踏むと衝撃が足腰に響く。アスファルトの道を歩くときとは異なる種類の刺激だ。狭い道をバスや車が走りまわり、排気ガスの臭いが気になる。空気が埃っぽくていけない。どの建物も古いが景観保護のために建て替えもままならず、周辺部はゴーストタウン化しつつあるともきいた。
  行きかう人々の多くが観光客だ。曲がりくねった路地のどこからか、たびたび日本語が聞こえてきた。
  最初にアルカサルを訪ねた。スペイン内戦中に市民が逃げ込んで暮らした地下室を興味深く見た。だが、上階の展示室はいただけない。国威発揚・愛国心鼓舞を目的とする軍事博物館にしらけるしかなかった。
  この丘の上の狭苦しい街で一番広々としているのは、もしかしたらトレド大聖堂の内部かもしれない。暗くて天井も奥行きもよく見えないせいか、よけい広く感じる。上のほうの装飾は遠すぎて確認できない。パイプオルガンが三台もある。祭壇は大小全部でいくつになるのだろう。宝物室の収蔵品の眩しいこと。金、銀、宝石、大理石。豪華絢爛の見本のようだ。これは神の威光でもなんでもない。世俗の権力と財力をひけらかしているだけではないか。偶像崇拝と虚栄、虚礼を戒めたイエスの精神はどこに行ったのか? 使い方をまちがえている力は、疑いの心を持つ者を納得させられない。


  トレドには有名な「アドルフォ」というレストランがある。店頭に掲げられたメニュー(日本語もあった)のコース料理が一人前5000ペセタもする。記念に看板の写真を撮って、私たちは別のレストランに入った。
  「ラ・カテドラル」というこの店はしかし「アドルフォ」の系列店だったようだ。メヌー・エスペシアル・デル・ディーア(1500ペセタ)はまるでフランス料理のような美しい盛り付けで、テリーヌもサーモン・ステーキのパイ添えもおいしかった。夫はまたしてもペルディスを食べて大満足だ。でも定食に飲み物が含まれていないだけでなく、外税だったので、ビールとコーヒーをとったら全部で4708ペセタもかかり、旅行中もっとも高い食事となった。店内の他の客は単品で注文しているので、さらに割高だったと思う。観光客ばかりのせいか、パエーヤが特に人気だった。
  サント・トメ教会とグレコの家(入場無料)にて絵画鑑賞。セファルディ博物館には行ったのに、あとで考えたら肝心のトランシト・ユダヤ教会を見学するのを忘れていた。いろいろなものを見すぎてぼーっとなっていたのだろう。
  トレド駅には猫がいる。痩せて目つきがよくないが、私がなでても嫌がらず気持ちよさそうだ。他の利用客たちもニコニコして猫と遊んでいた。
  マドリードに向かう列車の中は観光客だらけだった。私が確認しただけでもイタリア語、ポルトガル語、フランス語のガイドブックやら新聞やらが座席のあちこちで広げられていた。車窓から、農地のスプリンクラーが盛大に水を撒き散らすさまが見えた。



 再びマドリード

  7日の夕食は、ホテルのすぐそばの「パラドール・デル・ハモン」という店のカウンターでメヒヨーネス・エン・ビナグレ(ムール貝のマリネ)とトマトサラダを食べた。ムール貝は一皿1000ペセタとやや高かったけれど、大きなむき身が10個以上あってふたりともおなかいっぱいになった。
  通りの向かいにコンビニエンス・ストアを見つけた。入口に怪しげな男が張り付いていたので、そいつが歩道のベンチに腰かけた女性に気を取られている隙に店内に入り、ミネラル・ウォーターを買ってそそくさとホテルにもどった。


  9月8日土曜日。オドネル通りのホテルの周りは寂しいが、ゴヤ駅のほうに歩いていくとブティックの並ぶしゃれた通りに出た。旧市街とは違ってコンクリートとガラスの建物が続く。「エル・コルテ・イングレス」(あちこちにある!)前のやけに広い道路のつきあたりに、ダリ作のガラ像が立っていた。これをカメラに収めたところで九本目のフイルムが終わった。
  今回の旅行では、夫の希望でスペインやスペイン語の資料となる写真をできるだけ撮ることにしていた。夫は望遠つきのデジタル・カメラを持参し、私はオートフォーカスの銀塩カメラと36枚撮りのフイルム十本を用意した。私はもともと建物を撮るのが好きだ。レストランのテーブルで料理を撮影する度胸はないけれど、看板や標識がおもしろくてシャッターを押した。マンホールの蓋にもそそられる。気が付いたら、結婚十周年記念旅行だというのに私たち夫婦のツーショットが一枚もなかった。
  メトロでグラン・ビーアに出た。夫は留学時代にこの近所の安宿を根城にしていた。土地勘のある場所に戻ってきたのがうれしいらしく、足取りが軽やかだ。一週間前には見かけなかった日本人観光客がたくさんいる。中国語もときどき耳に入ってくる。週末の繁華街は物乞いが多かった。大道芸人なのか乞食なのか判然としないことがままある。
  予定していた観光を前日までに無事終了し、最終日はゆっくり買い物をした。夫はマドリードの市街図とスペイン語学関係の本を購入した。私は実家とアルバイト先へのお土産を物色した。旅行の記念として自分用に選んだ品が一番多かったが……。
  土産物はコルテのスペイン土産コーナーで揃えるのが楽だ。キーホルダー、ステッカー、カスタネット、置物、各種細工物、Tシャツ、ショール、扇子にアクセサリー、なんでもある。地下のスーパーマーケットで売っている普通のお菓子やおつまみの缶詰もよろしい。ヨーロッパ製の「ポッキー」(
MIKADOという商品名だった)や「コアラのマーチ」でウケをねらうという手もある。
  夫が鞄のファスナーに付けていた鍵をホテル内で無くした。旅行鞄のコーナーで探したがサイズの合うものがなく、代わりに鞄の腹に巻く鍵付きベルトを買った。私たちは比較的大きな店で買い物をしたので個人商店の様子はわからないが、値札にはユーロとペセタの両方の記載がある。レシートも、手書きの伝票を除いてほとんどの場合ふたつの通貨単位で合計金額が記される。
  
“ZARA”(「サラ」と読んでください)という衣料品店の看板を何回か見た。人気のブランドのようで、ロゴ入りの紙袋をさげている人が多かった。帰国後に雑誌で偶然“ZARA”に関する記事を見つけた。必ずしも上質とはいえないが安くてデザインの種類の豊富な衣料品が消費者に支持され、急成長を遂げているそうだ。日本にもすでに進出しているとは知らなかった。スペイン版ユニクロというからには私にも買えたかもしれない。
  夫は留学中によく中華料理屋で食事をしたそうだ。どの店も安くておいしいと聞いて、連れて行ってもらうことにした。ミゲル・モヤ通りの「ムニェーカ・チーナ」でメヌーを注文した。ふたりとも青椒肉絲のような料理とチャーハンにした。チャーハンを一口食べて感激した。脂っこさがまったくない。さらりとした米粒にしっかりした味付けが私の好みにぴったりだった。二人分を盛り付けた大きな皿がドンとテーブルに置かれたときはあまりの量にめんくらったが、平らげてしまった。食事中の飲み物と食後のジャスミン・ティー(他の飲み物も選べる)が付いて1100ペセタ。チャーハンはマドリードに限る。
  プエルタ・デル・ソルのくまさんに会いに行き、「また来るね」と挨拶した。それからアイスクリームを買って、なめながら歩いた。一度やってみたかったのだ。でも悲しいことに私は歩きながら物を食べるのに慣れていない。親の躾が体に染み付いている。いくらも行かないうちに立ち止まり、食べ終わるまで動けなかった。


  夕方、一週間前に入った「カフェテリーア・サハラ」にまた寄った。ここはビールの専門店だ。グラスでなくビア・マグを使っているのが珍しい。他の店よりも一杯の量が多くて値段が高かった。二階はインターネット・カフェだ。夫はバレンシアのホテルのバーで知人のホームページの掲示板に書き込みを試みたがうまくいかなかった。もう一度挑戦してみたいと言う。
  パソコンデスクのスロットに硬貨を投入すると画面が立ち上がった。見たこともないブラウザーで使いにくそうだ。夫が
URLを入力しようとしたらチルダのキーがどこにもない。探しているうちに画面上に表示される持ち時間がどんどん減るので、気が気ではない。適当なところからコピーして貼り付け、やっと目的のページにたどり着いた。当然日本語のテキストは文字化けしている。メッセージをスペイン語でタイプして投稿ボタンをクリック。書き込みできない。再度クリック。行かない。もう一回クリック。だめだ。悔しかったが諦めた。
  メトロでオドネルに戻った。私たちが宿泊しているホテルの一階にはいろいろなテナントが入っている。その中で異彩を放っていたのがラテン・アメリカの物産を扱う店だ。各国の民芸品や食料品がたくさんあって欲しくなった。私の買い物に付き合うのに疲れた夫が「今回の旅行の趣旨とは違うということで」と言うので、買わなかったが。男女の絡みをリアルに表現しているメキシコ製の木彫りの像が愉快だった。ああいうものをレジに持っていくときにはどういう顔をすればいいのやら。
  近所のバールでスペインでの最後の夕食をとった。ガンバス・アル・アヒーヨ(えびのにんにく炒め)の熱々のオリーブ・オイルがすごくおいしい。太るなあと思いつつ、パンでさらってきれいに食べた。ケソ・マンチェーゴ(チーズ)は柔らかくて匂いがおだやかだ。塩味も強くないので日本人にはとっつきやすい。食べきれない分は翌朝の食事の足しにするために、紙ナプキンに包んで持って帰ることにした。
  地元の客がテレビのサッカー中継に見入っていた。マドリードのチームの試合だった。帰りにいくつかの飲食店の中を窓越しにのぞいたら、やはり客がみんな同じ方向を注視しているのがわかった。視線の先はテレビなのだろう。スペイン人のサッカー好きを見た気がした。



 乾燥と陽射しとファッション

  街角でよく電光時計兼温度計を見かけた。現在の時刻と気温が交互に表示される。すでに一番暑い季節を過ぎているとはいえ、午後3時台には34〜36℃に達することがあった。でも温度計の数字を見て「うそ、そんなにないんじゃない?」と思うことがしばしばだった。湿度が低いので、同じ36℃でも東京とはまったく異なる。汗をかいているのだろうけれど皮膚がべたつかない。日陰に入ればとたんに楽になる。だから水分さえ適宜補給すればいくらでも歩けるのだ。街角で飲むグラス一杯のビールのうまいことといったらない。
  私たちは横着して、ジーンズを十日間洗濯せずに着用していた。(下着とTシャツは毎日取り替えた。念のため。)この時期に東京を歩き回ったら、一日でドロドロになる。
  私は毎年夏季に収斂性の高いムース状の化粧下地を使用する。しかしこの旅行には下地にも使える日焼け止めクリームを持っていった。日本で下地代わりに使うとどうしてもべたべたするのだが、スペインではこれでも目の周りが乾燥でピリピリしたほどだ。日本にいるときと同じように一日に何回も手を洗っていたら、指先がガサガサになった。ハンドクリームを用意しておいて本当によかった。
  体感温度がたいして高くなくても陽射しは肌に突き刺さる。私は日光にあたりすぎると発疹が出るので、腕にも毎日日焼け止めを塗りたくり、なるべく長袖の綿シャツをはおって歩いた。さいわいアレルギーは最小限に抑えられたけれど、やっぱり腕も顔も日に焼けた。日焼け止めによる肌荒れもあり、帰国後しばらくは自分を見ると憂鬱になった。
  実は傘を持参していた。ところが、夏の日本ではごく普通に見られる日傘がスペインでは皆無なのだ。一度だけどうしても陽射しが我慢できなくて広げたけれど、とても恥ずかしかった。帽子もかぶらず肌はあくまでもむきだしにしてサングラスをかけるのが現地の流儀なのだと気づき、以後自粛した次第だ。
  人々が身に付けているものは、色合いこそ鮮やかだが質素だ。身だしなみ以上の装いを見かけなかった。(週末の夜は別。)女性の化粧も薄い。日本女性のように、「気合入れて顔作ってます」というのはいない。観光客も似たようなものだ。こういうところに日本人が来ると、金持ちと間違われてスリや強盗に狙われるのだろう。街で出会った同胞女性の何人かは一見地味でも質のよさそうな服を着ていた。お気をつけてと声をかけたくなった。
  10代の男の子たちは、流行なのか学校の規則でもあるのか、髪がとても短い。どの子も同じように見える。女の子たちは日本の基準からするとかなり太っており、よく発達した胸とお尻を揺さぶって歩いている。白人は顔が小さいので、椅子に腰かけていた子が立ち上がると、「まあ、こんなにおデブだったのね」と驚かされる。だが、あの景気よく突き出たおっぱいだけは羨ましかった。
  子供の時分に西洋のおとぎ話を読んでいて、「雪のような肌」「陶器のような額」「バラ色の頬」という表現がよくわからなかった。たまたまメトロの中で10代の女の子たちを近くから観察する機会があった。彼女たちの顔を見てようやく昔読んだフレーズが腑に落ちた。こういう顔色のことを指すのだ。見とれてしまった。だが体を必要以上に日光に晒す習慣がこのクリームのような肌を傷めるのかと思うと残念でならない。
  よく言われることだが、スペイン人はそれほど身長が高くないので威圧感を感じないですむ。(のっぽの男女はたいていドイツ人などのゲルマン系の観光客だ。)でも、レストランのテーブルにつくたびに私は自分がチビであることを思い知らされた。椅子が高すぎてかかとが床につかない。なかなかみじめだった。ラテン・アメリカ系のおばちゃんたちが私と同じくかかとを浮かせて食事をしているのを見て、ほんの少し安心したのだった。





6.旅の終わり

  9月9日、日曜日。毎日朝寝坊を決め込んでいたが、きょうはそういうわけにいかない。残念だけれど日本に帰る日がやってきた。6時半に起き、前日スーパーで買ったパンと牛乳、バールから持ち帰ったチーズで腹ごしらえをした。
  ホテルのフロントはいつ見ても行列ができているので、チェック・アウトで待たされたら困ると心配したのだが杞憂だった。8時にはタクシーに乗り込み空港に向かった。
tveを過ぎるともう郊外だ。建築中の集合住宅が散在する。柱は鉄筋コンクリートだが、壁となるはずのところはブロックを積み上げているだけのように見える。地震がないそうだからあれでかまわないのだろう。道が空いているので速い。あっという間にバラハス空港に到着した。
  手続きを終え、カフェで一息ついた。朝なので、コルタードではなくカフェ・コン・レチェ(カフェ・オ・レ)にした。夫はスペインの濃厚なコーヒーをこよなく愛する。自分でコーヒーを淹れるときにその味を再現しようとして粉を気前よく使うから、我が家のストックはいくらももたない。こんなに濃くしたら胃に悪いのではないかと思っていたが、四年前の旅行で実際にスペインのコーヒーを味わって夫の嗜好が理解できた。食後に飲む少量の濃いコルタードは文句なくおいしい。マグカップでがぶ飲みする液体とは別種の飲み物だった。
  「出発の時刻が早いから空港内のお店は開いてないかも」と夫が言っていたので、買い物はきのう済ませてきた。ところがどの店も営業している。朝5時から夜の11時ぐらいまで利用できるようだ。考えてみたら、国際空港だもの当たり前である。悔しいので時間の許す限り見て回り、マサパンと鞄の鍵を買った。夫はどうにも鍵が気になるらしい。「日本で買うより安いから」とサムソナイトを選んだ。すでに荷物を預けた後だったので、機内持込のリュックサックに付けて喜んでいる。免税店の商品を空港内で使うのはまずいのではなかったっけ。ちなみにリュックサックはバレンシアのコルテにて3450ペセタで購入したものだ。買い込んだ本と
CDが旅行数日にして鞄に収まらなくなっていた。


  アムステルダムの天候が悪く、予定の時刻よりかなり遅い出発となった。上空から見るスペインの大地は、緑がないわけではないのにやはり赤茶けていた。それに比べて数時間後に到着したアムステルダムの風景は、海と運河と緑の木々がみずみずしく美しかった。それに、空港内の空気が清浄で呼吸しやすい。
  スペインでは常に煙草の臭いがしていた。女性もよく煙草を吸う。手をつないで街を歩いたりレストランで食事したりするカップルの、女性の方だけがプカプカ煙を吐き出しているのをよく見た。
  接続便の出発時刻が迫っていて、またしても早足で歩く羽目になった。おもしろそうなお店がたくさんあるのに行きも帰りも入れなかった。それもこれもアムステルダムが雨で、運行に影響が出たせいだ。気温が15度しかないとのこと。
  出国審査で日本人男性が引っかかった。所持していたパスポートが古くて現行のものと形態が異なっていたために、係員が不信に思ったらしい。正規の旅券と確認されるまで少し時間がかかり、彼の後ろに並んでいた私は待たされた。
  私たちは再びエコノミーの狭い座席に押し込まれてヨーロッパを後にした。機内サービスのサテライト版朝日新聞のトップ記事は、女子中学生手錠放置事件の犯人逮捕だった。普段は見向きもしない俳壇・歌壇までじっくり読み、それにも飽きると次は空港で買った「セマーナ」というゴシップ週刊誌に挑戦した。スペインの皇太子のロマンスが大きく扱われていた。まだ学生のノルウェー人モデルと交際中だそうだ。
  私のスペイン語の知識は学生時代に初級文法をちょろっと勉強しただけの頼りないもので、今ではほとんど忘れてしまった。たかだか5ページほどの、しかも写真の多い記事をひとつ読んで力尽きた。あとはまた食事して、眠って、トイレに行って、水分をとっての繰り返しだ。往路のように客室の温度が低すぎることもなく、観光の疲れもあってよく眠った。出発後しばらくビデオ・デッキが不調でモニターが使用できなかったが、たいしたことではない。
  日本海を南下するにしたがって揺れが激しくなり、シートベルト着用のサインが点灯した。本州に接近中の台風15号の影響である。少し怖くなった。けれども客室乗務員たちが静かなほほえみを浮かべて黙々と仕事をこなしているのを見て、気持ちが落ち着いた。シートベルトをしっかり締めて最後の機内食を食べた。


  9月10日朝、成田は雨だった。飛行機から降りたとたんになんともいえない重たい空気が体中にまとわりついた。しばらくご無沙汰していた湿気というやつだ。空気がかび臭い。空港内は空調が働いているはずなのに、ぬるま湯の中を歩いているような感じだ。アムステルダムでの接続時間が短すぎて荷物の積み残しがあるという。最後の最後まで気が抜けない。幸い私たちの鞄はすぐ見つかった。
  10時5分発のスカイライナーに乗った。沿線に木々が鬱蒼と茂っている。いまや東京近郊は亜熱帯なみの気候だと聞いたことがある。空気の重さと緑の濃さからして、本当にそうなのかもしれないと思った。
  自宅の最寄り駅に着く頃には風雨がさらに激しくなった。とんでもない日に帰ってきたものだ。スペインでは出番のなかった折り畳み傘をさして歩いた。傘からはみ出した旅行鞄がたった5分の間にすっかり濡れてしまった。
  うちはこんなに広くて明るくて清潔だったろうか? 照明の十分でないホテルに九泊もしたせいで、我が家がこれまでになく素敵に見えた。荷物の整理は後回しにして、まずシャワーを浴び、それから自分のベッドにひっくり返って夕方までぐっすり眠った。
  とんでもない日に帰ってきたものだ―私も夫もそう思った。だが、この日でよかったと翌日になって考え直した。11日午前中に台風が東京を直撃し、昼過ぎまで土砂降りとなった。飛行機はさぞ揺れたことだろう。傘だって役に立たなかったに違いない。
  夜遅くテレビが速報を流し、やがて報道特別番組が始まった。ニューヨークの高層ビルに飛行機が突っ込む映像が、戦争の始まりを告げていた。


  「スペインのコーヒーはおいしかったね」
  「マドリードの教会にはとうとう行かなかったな」
  「闘牛やフラメンコも見たい」
  「また行こうね」
  「ソルのくまさんにも約束したし」
  帰ってきたばかりだというのにもうこれだ。現在の国際情勢では海外旅行など危なくて臆病者にはとても無理だけれど、私たちの貯金が再びたまる頃には気軽に飛行機に乗れる世の中にもどっていてほしいと思う。身勝手な希望と承知の上で、そう願わずにいられない。
                     (2001年9月17日―10月29日 記)

                     (2002年3月31日 改訂)




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