〜沖縄の旅〜 平成12年11月 発行
県立鈴蘭台高校 久保 治
2年生の修学旅行のお手伝いという形で沖縄に行ってきました。小生にとって沖縄、というより南国に旅行するのは初めてだったので、まずサンゴ礁に囲まれたエメラルド色の海に感激。伊丹空港を出るまで嵐のような雨風だった真夏のような太陽の輝きにも驚きました。
目次
沖縄に着いてまず訪れたのが、ひめゆりの塔とガラビ壕。ひめゆり平和祈念資料館へ行って、色々なことがよく分かりました。ひめゆり学徒看護隊というのは、沖縄師範学校女子部(国立)と県立第一高等女学校の生徒で構成されていたが、両校は同じ敷地内にあって教室も併用、師範女子部長と第一高女の校長が兼任であり、教員も多くが兼任していた。そして共に「姫百合」を愛称にしていたのである。また学徒の看護隊は「ひめゆり」のほか第二高女の「白梅学徒隊」、昭和高女の「学徒隊」など学校別に6部隊もあったことです。その中で「ひめゆり」が特に有名なのは、人数も多く、師範の生徒は学校の性格から「半強制的に」動員されたということがあるのでしょう。もっとも、応募に際して「無理はするな」と言われた第二高女にしても55名が応募している。親の反対を押し切って志願した生徒もいたらしい。いずれにしろ、名目上は志願制であったことが意外でした。この頃は徴兵年齢に達していない学徒が勤労動員されて工場などで働いていましたが、直接軍に動員される法的根拠がなかったため、名目的に志願の形をとっていたようです。ただこの点はもう少し調べてみないと、よくわかりません。
○沖縄戦にそなえて
太平洋戦争の終盤、沖縄が米軍の攻撃目標となった昭和20年の末、沖縄の男子学徒は通信技術の訓練を受け、女子学徒は看護技術の訓練を受けることが、軍と県当局の間で決定された。そして3月の卒業式を終えるやいなや、男子は師範学校はじめ10校から1780名(人数は資料により異なる)が鉄血勤皇隊として砲兵隊や通信隊に配属された。女子は7校430名が沖縄の各軍に配属され、ひめゆり隊222名は沖縄を守る第32軍の陸軍病院(通称陸軍病院)で勤務することになった。陸軍病院といっても、防空壕に分散した野戦病院です。
【証言1】 ここに着いてじきの驚きは忘れることはできません。「学生さん」と患者が弱々しい声で呼ぶので 行きましたら片足を上部で切断され 幾重にも巻かれた包帯は 痛々しいくらい一面にどす黒い血で汚れています。「痛くてたまらない 何かが傷口をんでいる 開けて見てくれ」と言うのです。切断患者の包帯は出血するから開けるな と軍医に強く言われていました。しかし確かにカサカサ音がします。気持ちが悪く ためらっていたら「痛いよ痛いよ」と訴え続けます。気休めに形だけ解くことにし 血とでべっとりした包帯をこわごわ解きました。そしたら太ったが三,四匹っているんです。悲鳴の出るのをぐっとこらえました。を払い落とし「何もいません 包帯が汚れて痛むのでしょう。今日は包帯交換日ですから それまで我慢しましょうね」と包帯を元に戻しました。心がきました。
やっと治療班が来てホッとしましたが 敵の砲撃が止む短い時間帯に壕を渡り歩いての治療ですから 超スピードの包帯交換です。患者を座らせ 私たちは後ろから抱えます。患部の下に洗面器を置き 血とでべっとりになった包帯を手早く解くと ころころと太ったが転がり落ちます。傷口に群がるはピンセットで洗面器にき落しますが 筋肉の奥深くまで潜り込み 骨までしゃぶっているはき出さねばなりません。患者は顔面になり油汗をませ 身体をくねらせて唸ります。私達は満身の力で 患者の身体を押さえつけます。戦場とはつきものでした。せこけてしまった患者とコロコロ太った蛆は ほうとうに対照的でした。
吉村秀子さん(師範本科2年、当時19歳)の話
○米軍の攻撃と応戦
まもなく米軍の沖縄上陸作戦が始まる。艦船約1400隻、艦載機1700機、人員45万人余という大兵力である。上陸部隊は18万人余であった(司令官はバックナー中将)。アメリカ軍は上陸する1週間前から艦砲射撃で沖縄を守備する日本軍に雨アラレと降りそそいだのであった。この時、陸軍病院も大きな被害を受けている。4月1日米軍は日本側の裏をかき、島西の方面から上陸した。日本軍の反撃が始まったのは、1週間後であった。@菊水作戦と名づけられた必死の攻撃〔菊水とは何を指しているか、またどういう意味があるか〕がしかけられる。〔 A 〕特攻隊が本格的に編成されたのもこの時である。海軍は虎の子の戦艦〔 B 〕さえ出撃させた。しかしたいした戦果を挙げることはできず、物量にまさる連合国軍に対し沖縄守備軍(第32軍約7万5千人、司令官牛島中将)は持久戦に持ち込まざるをえない。飛行場も譲り渡し、壕にこもってゲリラ的な戦いを挑む。それでも大本営の要請を入れて、何度か総攻撃をしかけたが、被害の割に効果が少ない。米軍の反攻により日本軍は南下することになり、司令部も首里城の地下に設けられていた壕から、島南端のの丘に移動せざるを得なくなった。5月の下旬である。この時当然ながら、ひめゆり学徒の属する陸軍病院も守備軍と行動を共にする。ひめゆり隊の女学生たちも各々分散勤務していた各壕から、看護資材を背負い、歩ける患者たちを誘導しながら南部に移動した。
○逃避行
軍関係者だけでなく、住民の多くも南に逃げた。その間も艦砲射撃が容赦なく発せられ、命をなくす者、重傷者も出る。置き去りにするしかない。死体を踏み分けながら逃げ落ちた。地獄の逃避行である。
逃げ落ちた先は自然(沖縄ではガマと呼ぶ)を利用した壕であるが、そこも安全な場所ではなかった。本部の置かれた山城壕は6月14日艦砲射撃の直撃弾、6月17日には伊原第1外科壕が至近弾を受け多くの犠牲者が出た。さらに18日には糸州壕が包囲されて攻撃を受け、19日には伊原第3外科壕がガス弾攻撃を受け、ひめゆり学徒隊46名を含む80名が亡くなっている。今、ひめゆりの塔が置かれ、平和祈念資料館が建てられているのは、その伊原第3外科壕跡である。
その間、6月18日にひめゆり学徒隊に解散命令が出された。(戦闘のさなか壕を出なければならなくなった彼女らは、軍に裏切られた思いをもつが、軍自体この頃は指揮系統が分断され、崩壊していたのである。23日の未明にはの司令部壕が攻撃され、牛島司令官らは自決を余儀なくされている)
ひめゆり学徒たちは、小グループに分かれて家をめざすことになったが、米軍の包囲網を突破して北に戻ることは不可能になっていた。敗残兵や避難民共ども南の海岸に追いつめられる。しかし海からは「鉄の爆風」と呼ばれて恐れられた艦砲射撃が軍人・民間人の別なく襲ってくる。小さな洞窟(ガマ)を探して隠れるか、林の中に身を潜めるしかない。米軍の投降の呼びかけも始まったが、捕虜になる事は恥と教えられ、女性は凌辱を受けると思い込んでいた当時の日本人はスンナリとはそれに応じられなかった。そんな中でまだまだ悲劇は起こる。米兵の攻撃を受けたガマに隠れていたひめゆり学徒9人と引率の先生が手榴弾で自決したのだ。
【証言2】 それから後は岬の海岸を 潮が引いたら歩き 満ちたら蟹のように岸壁にへばりついて逃げていたんです。岸壁の下はい波しぶきでした。怖かったですよ。精も根も尽き果てた私達は もう皆で自決しようと話し合っていました。特に3年生は「先生 今のうちに死にましょう」と先生を追いつめるんです。先生は先生で 十一人の運命を託されている という責任感と悲壮感で とてもしているようでした。宮城貞子、宮城登美子、良子と私の四名は「もう最後だから 歌をうたおうよ」と海に向かって“ふるさと”を歌ったんです。皆かすれ声で は声にもならなかったんです。すすり泣きに変わってしまいました。
6月21日の朝...皆が怖がっている放送が また始まりました。投降呼びかけのその気味悪い声だけがりに響きわたりました...その時です。突然私の所に 血だらけの兵隊が転がり込んできたんです。米兵に手榴弾を投げつけたため、逆にやられて こちらに逃げ込んできたのです。「敵だ!」と言う叫び声が起こると同時に 先生が反射的に九名のいる穴の方へ飛び込んでしまったんですよ。私と初枝さん二人は すぐ隣の穴に倒れるように逃げ込んだのです。松助先生のグループがそこにいました。次の瞬間 どこから現れたのか 米兵が私達に自動小銃で乱射しました。目と鼻の至近距離からです。いでした。あそこもパーン、こちらもパーンです。そばの子さんはウーンとって私に寄り掛かってきました。仲本ミツ子さんと上地さんの二人も即死。右側の兵隊も即死して私の顔の上に倒れてきました。
私と比嘉さんが平良先生の穴の方へ駆け寄りましたら 一面血だらけで十人が倒れていました。手榴弾による自決です。ほんとにいものでした。地獄そのものでした。
宮城喜久子さん(一高女4年、当時16歳)の話
○悲惨な結果
沖縄戦では、ひめゆり学徒隊222名のうち123名が亡くなるという悲惨な結果となった。日本の勝利を信じ、「国のために」という純粋な彼女らの献身を今の我々はどう受け止めればいいのだろうか。沖縄戦のことを記した本には軍隊や「国体」に利用されただけの死、であったかの如く書いているものが多い。彼女ら以外にも沖縄の民間人、軍人合わせて20万にのぼる人達が命を失っているのである。
十分紹介する余裕がなくなったが、この時の沖縄県知事・島田は兵庫県(神戸二中=現兵庫高校)出身である。戦場となることが必至の沖縄に、この年の1月赴任したのである。死を覚悟してのことであった(島田知事はじめ沖縄戦で殉職した県職員の慰霊碑が島守の塔として、摩文仁の丘に建っている。
沖縄戦のことを語るには何万語を費やしても足りないだろう。しかしそれだけに、沖縄についての学習を深めると共に、このような事態に至った経過、またその結果としてある日本、そして日本のあるべき姿についてじっくりと考えてほしいと思います。
石まくら固くもあらん安らかにねむれとぞ祈る学びの友は(姫百合の塔)
ふるさとのいや果て見んと摩文山のに立ちし島守の神(島守の塔賛歌)
秋を待たでれゆく島の青草はの春にらなむ(牛島軍司令官)
矢弾き天地染めて散るとてもかへりつつらむ( 同 )
ひめゆり学徒に関する資料はひめゆり平和祈念資料館ガイドブックによる
ひめゆりの塔が建つ ひめゆり資料館で
伊原第3外科壕入り口 生存者の話を聞く本校生
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