臥龍桜



昔、この地方がまだ美濃や尾張と呼ばれていた頃、その国境に一本の桜があった。
臥龍桜と呼ばれる、樹齢はゆうに百年を超えていそうな、大層立派な山桜だった。
その桜は何年かに一度気まぐれに、真紅の花弁の花を咲かせることで有名だった。
桜は近くで大きな戦があると、翌年の春には決まって真っ赤な花を咲かせたので、
人々は、戦で死んだ者の怨念がこもった血を吸って咲いているからだ、と噂した。
だが誰も気味悪がりはせず、紅い花が咲くと、供養を兼ねて花見を盛大に開いた。
人が死んだ時「あまり嘆くと死んだ人がこの世に未練を残して成仏出来なくなる」
と、信じられていたからだ。この妖樹の噂は遠く京の都にも伝わっていたと云う。
人々は知らなかったであろうが、数百年の時を経、この樹には魂が宿る様になった。
心を持ち、人の言葉を解し、時には疲れた旅人の傘となり、村人たちの集いの場と
なり、稀ではあったが、臥龍の言葉を解す者とは共に語り、時には戦へ赴く男達を
見送り、家族と共に、その無事を祈った。臥龍は人々を愛しく思っていた。しかし、
戦でなくとも、時が経てば彼らは臥龍をひとり地上に残し、死んでしまうのだった。
もう何度紅い花をつけたことだろう、何度人々の葬送の列を見送ったことだろう。
臥龍も時が経てば、彼らの居るところに往けるのだと信じていた。だが、それが
何時なのかは分からなかった。桜はまだ「死」をはっきりとは分かっていなかった。
人が死ぬのはいかにも恐ろしいことのように思われた。しかし、己に訪れる「死」
は少しも恐ろしくはなかった。いつだったか、行きがかった傀儡子が言っていた。
「人は、刻々と死んでいるのだよ」
この頃にはまだないが、染井吉野が七、八十年、山桜は数百年の樹命と言われる。
臥龍桜は、段々と朽ち始めた我が身に「死」が迫るのを感じていた。
しかし「死」は臥龍を魅きつけて止まず、逆に歓迎すべきものである様に思えた。
臥龍の元に死神が闇い影を落としていた。まさに臥龍の命は尽きようとしていた。
しかし。
ある日突然、一人の人間が、臥龍を美しい死神の前から連れ去ってしまったのだ。

少年がいた。
漆黒の馬を駆ってやって来ては、臥龍の周りをくるくると回り、ある所で止まる。
春だけでなく、例え冬枯れして雪が降っていても、やって来て同じ事を繰り返す。
だが止まるのはいつも同じ場所だった。そして、臥龍をじっと見上げるのである。
ため息をつくでもなく、うっとりするでもなく、ぎらぎらした瞳で見つめていた。
いつだったか「俺は天下を取るぞ!」と自分に叫んでいった青年によく似ていた。
一年以上も来ないかと思えば、ひと月と間をおかずに、通ってくることもあった。
その少年と初めて逢ったのは、珍しく二年続けて紅い花をつけた、その翌年の事。
薄暮に横たわる森に浮かび上がる臥龍は、えもいわれぬ艶やかさを漂わせていた。
今が盛りと咲き誇った花々が、東風に誘われるまま次々と空に吸い込まれていく。
そんな花吹雪の中を、森の暗闇から抜け出してきた様な青馬が、駆け抜けてきた。
馬は桜の前で止まった。一体何処から駆けてきたのか、体から湯気が昇っている。
すると、馬の上から真っ赤な塊が転げ落ちた。いや、正確に言えば、飛び降りた。
それは、臥龍が咲かせるのと変わらぬ程、鮮やかな紅い着物を纏った少年だった。
袴もはかず、髪も風に乱されるまま。まるで森から小鬼が現れたかのようだった。
しかし美しい鬼だった。髷を結う黒髪は豊かで、乱れた髪の掛かる肌は雪の様に
白く、スッと通った鼻筋に、きりりと上がった眉、少し薄い唇、そして何よりも、
澄んだ瞳をしていた。臥龍はぽつりと漏らした。
「鬼だ・・・・・・」
小鬼はスゥと目を細めた。一寸の隙も無く、すっくと立ち、辺りの気配を窺った。
しかし、声の主は見当たらない。
「誰か」
彼の瞳のように澄んだ、凛とした声だった。勿論彼の誰何の声には誰も応えない。
「こなたか?」
彼は臥龍の方に向き直った。臥龍は驚いた。樹が言葉を話すと思う人間がいるとは。
「いかにも・・・・・・・」
小鬼は少しも臆する事無く、臥龍に対面した。逆に臥龍の方が気圧されてしまう。
「こなた、鬼を見たことがあるのか」
「いや、ない」
「では、何故鬼だと」
「・・・・・・・人と違う。お前は美しい」
「・・・・・・・」
風がざっと吹き抜け、臥龍の白い花を攫って行った。花瓣は小鬼の足元に積った。
「それに・・・・それにお前には私の声が聞こえる」
「だから何だ」
「何故驚かぬ、私が怖くは無いのか」
「こなたに何が出来る、俺を殺すか」
彼は笑った。
「死より怖いものはない。樹が口を利いたとて、何が恐ろしい。己が目で見たもの
ならば信じるまでだ」
突然、一陣の風が吹き抜けたように、臥龍は枝を震わせた。また、花びらが少年に
降り積もった。少年は眉をひそめた。
「何だ、笑うておるのか?」
臥龍は笑ったのではなかった。突然自分を襲った「生への情熱」に体が震えたのだ。
臥龍は思ってしまった。この少年の行く末を見届けたい。それまでは死ねないと。
臥龍がそう言うと、少年は微笑った。
「阿呆・・・・」

やっとつぼみが膨らみかけてきたある穏やかな日。少年はまた一人でやってきた。
先客がいた。
その先客は少年がいつも立ち止まる場所に床几を置き、従者を侍らせ座っていた。
少年は先客の男には目も呉れず、いつも通り馬を繰り、やがて男の前で止まった。
「退け」
少年は吐いた。従者達は驚いて立ち上がり、太刀を抜き放って少年を取り囲んだ。
「何者か!御屋形様に向かってなんたる無礼!」
「そこは俺の場所だ」
従者の言葉など聞いてはいなかった。少年は目の前のその男にだけ言葉を向けた。
男は手を差し出して従者達を留めると、鋭い視線を向けた。少年は動じなかった。
「そこが一番綺麗だ」
男は初め首をかしげた。どういう意味だろう?
男のいる場所が、特別綺麗な訳でもなく、かといって他の場所が汚い訳でもない。
が、男は理解った。少年は「そこから見る櫻が一番綺麗だ」と言っているのだと。
なによりも、自分が其処に座っているのも同じ理由からだった。興味をそそられた。
「ならば、先ず馬を降りよ」
男は微笑った。少年はにこりともしなかったが、素直に従って馬から飛び降りた。
男は立ち上がり、少年を抱え上げると、自分の膝の上に乗せ、床几に座り直した。
「これでよかろう?」
少年はコクリとひとつ頷いた。男はまた笑い、二人は長いこと臥龍を眺めていた。
従者は何故二人が花も咲いていない枝ばかりの桜を見に来るのか分からなかった。
何時経っただろう。帰る、と少年は言った。膝から降りた少年を男は呼び止めた。
「おい小僧。お前はなかなか面白き奴じゃ。儂に、美濃の蝮に仕える気はないか」
少年は目新しいものを見た様な、驚いた様な顔をした。が、すぐに顔をしかめて、
「嫌だ」
と言った。男は横っ面を張られた様な衝撃を受けた。断るとは思っていなかった。
「何故じゃ」
男は率直に訊いた。自分にはこの少年を心服させるに足らぬ所が有るというのか。
少年はまた顔をしかめた。お前ほどの男が何故解らぬのかとでも言いた気だった。
「人に仕えるくらいなら、腹割っさばいて死んだ方がましだ」
言い終わるか終わらないかの内に、少年はピィと指笛を吹いた。馬を呼んだのだ。
ひらりと馬に跨ると肩越しに男を振り返った。その時少年は初めて笑顔を見せた。
「我が名は三助!近く戦場で会う日もあろう。それまで達者で居られよ、蝮殿!」
カッカと笑うと尾張の国の方へと駆けて行った。生暖かい風がサッと吹き抜けた。
臥龍は葉のない枝を細かく震わせた。男はさっと臥龍を見上げ、苦々しく笑った。
「臥龍めが、笑っておるわ。分かっておる。儂ともあろう者が、このザマだ・・・・」
男は少年の駆け去った方角を見遣り、久しくなかった心沸くような快感を覚えた。
何と苛烈な信念の持主だろうか、男は思った。何としてでも少年を手に入れたい。
男は城に戻るとすぐ、細作を何十と放ち、尾張の国の「三助」なる者を探させた。
数日して、細作が報告に戻って来始めたが、どれも芳しくないものばかりだった。
珍しい名前でもないから当たり前だが、武家の子供に絞っても十数人はいるのだ。
しかし、おかしな事になった。男の言う特徴に当てはまる者はいないというのだ。
婆娑羅な格好であったし、かなり立派な青馬に乗っていた。見つからぬ筈がない。
男は念の為、三河、遠江まで探らせたが、結果は同じだった。 「三助」はいない。
やがて尾張が攻めて来た為「三助」探しに何十も細作を使っていられなくなった。
仕方なく男は「三助」探しを中断したが、折りに触れては三助の事を思い出した。
神など全く信じない男ではあったが、まるで風のように去っていったあの少年は、
もしかしたら、神の使いだったのではないかと思った程だった。しかし、数年後、
男は少年と意外な再会を果たすのだが・・・・それは臥龍の知り置かぬところである。

その後も男は足繁く通い続け、少年は相変わらず、気の向くままにやって来たが、
それきり、彼らが臥龍の元で会うことはなかった。運命も少年並に気ままだった。
時と共に男は年老い、髪も薄くなって、白いものが混じり始め、又、皺も増えた。
しかし外見よりも何よりも、老いが男の内面を変えた。彼は実に穏やかになった。
彼の瞳は、もう自分は完了してしまった男だ、とでも言うように黒く澄んでいた。
少年も見る間に成長し、逞しい偉丈夫になった。が、色白の肌はそのままだった。
少年のぎらぎらした鳶色の瞳は、少し狂気を帯び、血の匂いが混じる様になった。

武家の男子として生まれたからには、何処かの(普通、親の仕える所にそのまま、
というのが多い)武将もしくは有力な家臣に仕官して、立身出世を目指すものだ。
三助も、どうやら例に漏れず仕官を果たし、どんどん出世しているように見えた。
尾張の国主、織田信長と云う人は、家柄でなく能力を重んじる人だと聞いている。
きっと、そこに仕えているのだろう。臥龍はそう思っていた。三助にはわるいが、
どう見ても、彼は由緒ある家柄の人間には見えない。良家のお坊ちゃんにしては、
顔に覇気がありすぎる。三助のあのぎらぎらした目は常に何かに飢えている目だ。
ふらりとやって来る三助を、若い男達が迎えにくる事がしばしばあった。三助は、
「折角、お前の事は秘密にしておったのになぁ・・・・」と、愚痴をこぼしていたが、
結局、彼等とわあわあ騒ぎながら、こちらを振り返りもせず帰っていくのだった。
三助の事を「御屋形様、御屋形様」と呼んでいたから、多分三助の家臣であろうが、
どちらかと言うと、遊び仲間のような雰囲気だった。三助が御屋形様と言う事は、
彼はもう、城を任されるようになったのか、そう思うと、御屋形様という響きが、
恥しい様な、くすぐったい様な、妙なものに感ぜられた。人の子の親というのは、
こう思うものなのだろうかと嬉しくも思った。だが一方で、臥龍の心の片隅では、
三助が、初めて蝮殿に逢った時に言ったあの言葉が、いつまでもくすぶっていた。
『人に仕えるくらいなら、腹割っさばいて死んだ方がましだ』
これ程の信念の持主だったからこそ、自分は三助に魅かれたはずだし、その彼の
行く末を見届けたいが為だけに、一度は尽きたはずの命を長らえさせてきたのに。
彼は忘れてしまったのだろうか。大人になるという事は妥協するという事なのか。
それとも、彼の主君は、彼の信念を捨ててまで仕える価値のある人なのだろうか。
織田信長。
臥龍は初めて人に敵意を持った。

また幾年月が過ぎ、若葉の青が目に眩しくなった頃、三助はぶらりとやって来た。
頬はこけ、目は落ち窪み、平素の憂鬱気な顔が、いつもにも増して青ざめていた。
まるで落ち武者の様だった。彼はがっくりと両膝を着いた。臥龍は葉を震わせる。
「蝮殿が死んだ・・・・」
彼は答えた。そのまま崩れるように突っ伏すと、地面に力一杯、拳を叩きつけた。
「くそっ、尾張の小伜が!何故間に合わなんだ・・・・速さを求めるのは貴様の信念
 ではなかったか!!」
怒りに体を震わせている三助の目から涙が溢れ出した。拭ってもとまらなかった。
初めて人を斬った日から、非情の鬼となって生きていくと心に決めたその日から、
誰にも見せなかった彼の涙は、頬を伝って点々と臥龍の根元に染み込んでいった。
「何故死んだっ!!くそっ・・・・く・・・・・・・・・」
彼は大声をあげて泣いた。声も涙も涸れ果てるまで、泣き続けた。臥龍も泣いた。

後になって、伝え聞いたところによると、蝮殿は美濃の国主、斎藤道三といって、
美濃一円を掌中におさめ、絶大な権力を誇る大大名だったそうだ。しかし息子の
義龍に居城を攻められ、長良川河畔で戦となったが、明らかな劣勢に立たされた。
義理の息子となっていた織田信長が、家中の反対を押し切り援軍に駆けつけたが、
援軍の到着を待つ事無く、道三は討たれた。我が身の終わりを悟っていた道三は、
出陣前、信長に「援軍無用、戦は義の為にするものに非ず」との書状を送ったが、
信長はこれを無視した。二人は固い絆で結ばれていたとか、義龍が実の親である
道三を討とうとしたのは、道三が義龍よりも、信長の方を愛していたからだとか、
特別目をかけている信長に損害を与えぬ様、道三は討死にを早めたという噂まで
流れていた。しかし人々がどんな噂をしていても、臥龍だけは真実を知っていた。
(蝮殿は三助を死なせたくなかったのだ)
蝮殿の気持ちは三助に伝わっていただろうか。
翌年、臥龍は真紅の花を咲かせた。

十数年が経ち、美濃が織田信長の手中に落ちると、辺りで戦は起こらなくなった。
自然、臥龍は紅い花を咲かせなくなり、臥龍の周りでは穏かな日々が過ぎていった。
しかし、その一方で三助は戦場での日々に追われていた。血の匂いを洗い流す間も
無く、また戦場へと赴く。手に残る人を斬った感触が消えぬ間に、また人を斬る。
信じて進んで来た道だけれど、本当にこれでいいのか、不安になる。
ふと、臥龍の姿が目に浮かんだ。
「俺は・・・こなたの紅い花が見たいのだろうか・・・・」
臥龍の面影を振り払い、三助はまた戦場へとその身を投じた。
三助の瞳に宿った狂気は、彼を突き動かす。

その日は風が強かった。
空気が震え、轟々とうなりを上げながら森を揺らしていた。緋縅の鎧を身に纏い、
漆黒の陣羽織を風にはためかせながら、三助は珍しくゆるゆる馬を進めやってきた。
俯いたまま、まるで居眠りでもしているかのように三助の身体は左右に揺れていた。
「また、やつれたな・・・・」
「うん・・・・」
馬を降りた三助に臥龍がそう言うと、三助は疲れているのか、気のない返事をした。
三助はここ数年、大きな戦の度に、憔悴しきった様子でやってくることが多かった。
三助は自分からは何も話さないから、後で、臥龍は旅人や商人たちの話しを聞いて、
戦があったことを知るのだが、最近は三助の顔を見るだけで、戦があったかどうか
分かるようになった。やつれ方があまりにも酷いので、痛々しくて見ていられない。
それが、あの織田信長の命令かと思うと、臥龍は胸をかきむしられる思いだった。
「臥龍よ、人は死ぬと如何なる?」
甲冑を鳴らし、崩れる様に臥龍の胴に体を預けると、三助は突然、ぽつりと言った。
「身体から心が離れ、死人の国へ行くのではないのか」
臥龍は答えた。そう、其処には先に死んでしまった仲の良い村人たちが居るのだと。
そうか、と三助は息を漏らした後、云った。
「人は死ねば土塊になるだけだと、極楽など・・・魂の不滅など無いと、
 俺は思っておった。しかし、其れを信じて止まぬ者もおる」
「退けば地獄、進めば往生・・・か」
長島の一向一揆の事だと臥龍は分かった。打倒、仏敵織田信長、と反信長包囲網の
一翼を担っている一向宗本願寺が、尾張清洲城に近い長島の地で一向宗徒を煽動し、
一揆を起こさせている。戦う者は極楽へ逃げる者は地獄へ。まったく非道い教義だ。
「糞坊主共にいいように扱われておるだけなのだ」
三助は毒づいた。三助の脳裏に鍬や鎌を手に向かってくる一向宗徒達の姿が浮かぶ。
南無阿弥陀仏、と唱えながら目を血走らせ鎌を振り上げてくる。幼い子供までもが
倒れた足軽の首を掻き切る。斬っても斬っても際限なく涌いてきて首を狙ってくる。
だが振り返ればそこに山を築いているのは、鎧さえ身につけていない民の屍だった。
不快なこと極まりない。
武将と太刀を交え、勝利をもぎ取った時の、あの魂の高ぶるような爽快感は無い。
耳に残る怨念と呪詛の言葉が三助の精神を蝕む。
「何故死が怖くない。何故命を賭けてまで信じられるんだ!?」
振り払うように三助は叫んだ。
「あれ程の意思に遇うと、俺の意思が揺らぐ。死が分からなくなった」
身体を縮こまらせ、引き寄せた膝に顔を埋めた三助の背中が、酷く小さく見えた。
空の紅、炎の紅、血の紅、人の焼ける臭い、硝煙の匂い、場違いに香る甘い鬢の香。
  「三助・・・」
血の匂い、臥龍の花瓣の紅。
「何故こなたは紅き花を咲かす?どうしたら紅き花を咲かせることができる?」
「わからない何故紅くなるのか。わたしはあまり好きではない。自分では如何にも
 出来ない。戦があると紅くなるのだ。皆の血を吸って咲いているようで・・・・厭だ」
いや、か。そう呟いて三助は足元の落ち葉を握り潰した。ゆっくりと指を解くと、
砕けた葉は風に攫われていった。その行方を見つめながら三助はひとり肩を抱いた。
「死んでからこなたの紅になれるなら救われるだろうか」
「何を云っ・・・・」
「死んだらこなたの紅になりたいものだ」
臥龍は戦慄した。魅入られている! 何故!だが往かせない、お前は私の命なのに!
「さん・・す・け・・・・・・?」
震える言葉に臥龍の動揺に気付いたのか、三助は気遣う様にそっと表情を和らげた。
「なに、疲れておるだけよ」
三助は微笑った。
「少し、休ませてくれ」
笑うのさえ辛いとでも言うように、三助は微笑みを消し、臥龍に体をもたせかけた。
導かれるまま、静かに両のまぶたを下ろすと、彼は吸い込まれる様に眠りに落ちた。
自分が人間だったら着物をかけてやる事もできるのだが・・・叶うべくも無い願いに、
口惜しさを噛み締めながら、臥龍はせめてもと、三助の身体に葉を降り積もらせた。
しかし、無情にも、落ち葉の布団は次々と、荒れ狂う風の中に剥がされてしまった。 
半時も経たないうちに三助は目を覚ました。がばっと起き上がり、辺りを見渡した。
「臥龍、馬の音がせなんだか?」
「・・・・・・いや、風の音しか聞こえない。お前の馬ではないのか?」
三助の馬は離れたところで草を食んでいる。主人の異変に気付いたのか頭を上げた。
「違う、駆ける音だ。いかんな。臥龍、しばし匿え」
三助はするすると臥龍に登り、その葉々の陰に身を隠した。一体どういう耳なのか、
この風では人と言葉を交わすのすら難しい。
すぐに、三助の言った通り、馬が一騎駆けてきた。後には黒い母衣を背負っている。
「内蔵介か・・・・厄介な奴が来たな」
三助はそう呟いて顔をしかめた。騎馬武者は一直線に臥龍に向かって駆けて来ると、
臥龍の真下で馬を降り、降り掛かる落ち葉を払い退けながら臥龍をきっと見上げた。
「こんなとこ・・・何をしておいでです!織田軍の・・・・・将ともあ・・う方が、陣を抜け
 ・・・・・・なさる!!」
「煩い!俺一人いないくらいで何だ!」
「御屋形!・・れは屁理屈と・・すもの!ひと・・で無防備な!!もう三・・・・頃とは違う
 ・・・・すよ!」
武者の叫びも、荒れ狂う風に掻き飛ばされてしまう。三助はふと真率な顔を見せた。
「・・・・同じさ、あの頃のままだ」
「御屋形・・」
三助の憔悴の原因を知っている武者は、言葉を詰まらせて口惜しそうに眉を寄せた。
「くくく」
三助の漏らした忍び笑いが、この時だけ上手い事風に乗って騎馬武者の耳に届いた。
やられた!という顔をして彼は目を剥いた。上では三助が意地悪そうに笑っている。
「やーい、引っ掛った引っ掛った!ばーかばーか!」
「御屋形ぁ!!自分の御歳をわきまえなされ!!」
叫び、武者は枝に手を掛けた。全くこれが同じ人間か?戦場での面影は微塵も無い。
「さ、お戻りを!」
「厭だ!帰らんぞ!」
逃げようと、更に上の枝に足を踏み変えた途端、突風が吹いて三助の身体が傾いだ。
はっとして武者が腕を広げる。
地に吸い寄せられる様に、宙に浮いた三助の背がゆっくりと近づいて視界に広がる。
まだ来るなと突き放された様に天が遠ざかる。
このまま・・・・
臥龍はこの時の三助の表情を生涯忘れることは無かった。臥龍は咄嗟に叫んでいた。
駄目だ!
気付いた時、三助の腕はしっかと臥龍の枝に掛り体を支えていた。臥龍は安堵する。
武者が三助の足を引いた。
「そのまま・・降り下され、地は・・近に御座る・・・」
束の間に掴みかけた安らぎは見失われ、彼は又暗い霧の中に引き戻されてしまった。
まだ来るなと、まだ往くなと云うのか
彼は風に揺られながら暫く枝に掛けた手を見つめていたが、諦めた様に指を解いた。
「・・幾ら樹の上から・・・・言え、危のう・・・・りましたな」
地上に帰ってきた主君に武者は声を掛けた。そうだな、と呟いて三助は臥龍を見た。
吹き荒れる木の葉の合い間に見えた彼の顔は、何かを決意した様な厳しい顔だった。
「暴れ狂う風は人の魂をさら掠って行くと言う。帰れ、三助。まだお前を掠われる
 訳にはいかぬ」
三助は破顔して、いつものように白い歯を覗かせた。
「哈々、ならば俺が風になろうぞ」
三助の目が一気に赤く濁った様に見えた。鎧の緋糸が映ったのか、落ち葉の赤か。
三助は、ぱっと踵を返し馬に跨ると、黒母衣の武者に向かった。
「明朝出陣。根切りにいたせ」
「はっ、畏まり候」
黒母衣の武者の顔が強張った。
臥龍はハッとした。違う、いつもの三助ではない。口調も声音も、まるで別人だ。
その時、臥龍と三助の通い合っていた心がふっつりと切れた。いや、拒絶された。
「三助・・・・?」
彼は馬に鞭をあてた。
「どうしたんだ、三助!何故何も言ってくれない!三助!!」
彼にはもう聞こえなかった。いや、聴こうとしなかった。お前は知らなくていい、
欺瞞や怨讐に満ちたこの世界も、もう一人の阿修羅のような自分も。突き放す様な
哀願する様な、そんな背中をしていた。三助は去って行った。顔が見えなかった。
先刻の三助の表情が浮かんで、臥龍は己の無力に打ちのめされた。
翌日、織田軍によって長島の一向宗徒二万人が、生きながらに焼かれた。

痛い程の夏の日差し。今日もまた、暑さに疲れた旅人が臥龍の木蔭に涼を求める。
「ほう、これは立派な・・・・」
重い荷を背負った商人がついと笠を持ち上げて濃緑の衣を纏った臥龍を見上げる。
足元に落ちた木漏れ日が綺羅と目にまぶしい。先客が臥龍の根元で汗を拭っていた。
額に浮かぶ汗に手拭を当て、先客はふうと息をついた。商人に気付いて顔を上げる。
「尾張の方から来られましたな。これから何れへ?あ、さあどうぞ」
勧められ、商人は先客の隣に荷を下ろした。慣れた手付きで笠を取り、腰を据える。
「安土に行こうと思っております。あちらでは、楽座のお陰で街が賑わっていると
 聞き及び、新しく商いを始めようと」
膨らむ希望に顔をほころばせながら、商人は右脇に置いた葛篭を誇らしげに叩いた。
「そうですか、安土と言えば、いま岐阜様が新しい城をお作りになっているとか」
「えぇ、それも楽しみにしております。天にも届かんばかりの大層煌びやかなお城だ
 そうですよ。それはそうと、お侍様はどちらへ行かれるのですか?」
「お侍などと・・今は浪浪の身なれば、それがし某は美濃で岐阜様に御奉公したいと。
 直臣が叶わぬならば、岐阜様の御家来衆に仕官してお仕えしたいのです」
「それはよろしいですなぁ。岐阜様は近い内必ずや天下を御取りなされるでしょう。
 しかし、もし仕官が叶わなかったら如何なさるおつもりですか?」
「はい、あ、考えておりませんでした。如何仕官しようかとそればかりを・・・」
先客の若い侍は恥しそうに頭を掻いた。まだ前髪を落としたばかりらしく初々しい。
さて如何致したものか・・・とふたりで知恵を絞っていると、天から声が降ってきた。
「俺が推薦状を書いてやろう」
天の声が聞こえるなど、熱さで頭が如何にかなってしまったのかと侍は頭を振った。
「上だ、うえ」
再び天の声がした。上といわれてふたりは見上げる。木漏れ日が目に入って痛んだ。
手をかざして目を凝らすと、ひらりひらりと人影が枝の中に揺れているのが見えた。
「貴殿は・・・?」
「名乗る程の者ではない」
木漏れ日を背負って顔は窺い知れなかった。眩しさに目を瞬かせながら商人が訊く。
「名乗る程の者ではない貴方が、何方に推薦状を書くというのです?」
「誰でも構わぬ。誰がいい」
「誰と申されましても、話が突然すぎて・・・貴殿は織田軍の方で御座りまするか?」
「織田軍?まあそんなところだ。ところで何故あれに仕えたい、何故武田や上杉、
 北条、徳川ではない」
「あれとは・・岐阜様のことで御座るか?」
「無論」
岐阜様をあれ呼ばわりするとは、侍は憤慨しながらも怒っては大人気ないと堪える。
「岐阜様には天下の先が見える様な気がするのです。武田や上杉には天下を取った先に
 何を成そうとするのか見えませぬ」
若い侍は、まだあどけなさの残る顔を紅潮させて力説した。樹上の男は畳み掛ける。
「では、何が見える」
何が、と問われて彼は返事に窮した。
「何と云われましても、なにが・・・・・・・・・・・絶対の秩序が治める新しき国・・・とでも
 申しますか・・・・巧く申せませぬ」
「青いな」
男は小さく笑った。
「青いとは!?」
だが、羨ましいことじゃ。その呟きは葉ずれの音に負けてふたりには届かなかった。
男は続ける。
「あれは叡山を焼き、長島の一向宗徒を根切りにした。僧兵、足軽はともかく、
 子供も女もだ。お前は斬れるか?めしいた翁の背を、稚児の首を、身重の女の腹を」
「!・・・・」
「あれについて行くなら更に酷きものを見るだろう。今なら引き返せる」
「・・・御忠告、傷み入りまするが、覚悟の上で申しております」
「お侍様・・・・」
商人が青ざめた顔で若い侍を見遣った。彼の黒い瞳は真直ぐか彼の人を見つめている。
「神仏に何が出来ましょう。この世の地獄を終わらせるのはあの方しかおられませぬ。
 地獄が続けば更に多くの者が死にましょう。終わりの見えぬ地獄の方が酷きものに
 御座りまする」
とんっと樹上の男が膝を叩いた。
「よし分かった、紙と筆はあるか?」
慌てて侍が背中の包を探っているうちに、商人が葛篭から巻紙と筆を取り出だした。
男は受け取った巻紙をさらさらと解くと、いきなり筆を下ろし、一気に書き上げた。
「城へ行き、堀秀政にこれを見せよ」
男が投げて寄越した書状には、この者を近習に迎えるべし、との旨が記されていた。
左端に書き殴られた署名と花押を見て、侍は男が只のほら吹きではないと確信した。
力強いが滑らかな手蹟に、書き慣れた観のある花押。只何と読むか分からなかった。
「三助殿と申されまするか、某、万見重元と申しまする」
「うん」
「真にかたじけのう御座りました。いつかまた御目にかかりとう存じまする。では、
 先を急ぎたいと存じます故、此れにて御免候え」
侍は書状を懐に収めると、笠を手に立ち上がった。商人も続いて葛篭を背に負った。
「岐阜は通り道ゆえ、お共いたしましょう。失礼申します」
ふたりは丁寧に頭を下げて、畦道を抜け、森に消えた。侍はずっと手を振っていた。
臥龍が見えなくなると、商人はほうと息をついた。気付いて、若い侍が話し掛ける。
「如何なされた?」
「いえね、あの男、一体何者だったのでしょう。織田の将があんなところで何を
 すると言うんです?それにその書状も・・・」
商人がいぶかしげに若い侍の懐を指すと、彼は大切そうに胸を押さえて微笑った。
「いいのです。此れが本物でも贋物でも。あの方が何方でも。あの方に訊かれて、
 より意志が固まりました。仕官が叶わなかった時の事など、もう考えませぬ。
 ひたすらに前を見て臨むのみで御座る。こうなっては居ても立っても居られませぬ。
 さ、参りましょう!」
二人の歩調が早まる。道は真っ直ぐ岐阜へと続いている。侍の道も彼に続いている。
陽炎に揺らめく濃緑の森に二人の姿が消えると、臥龍はざわざわと葉を揺らした。
「いい若者だったな。だが誰も彼も信長、信長、信長!何故だ!私には分からない、
 お前もそうだ!三助。何故彼に仕える!?私はあの言葉を忘れてはいないぞ!」
一段と激しく枝葉を揺らし、臥龍は問う。三助は物憂げに口をむにゃりと動かした。
「何のことだ」
「蝮殿に言ったろう。人に仕えるくらいなら腹割っさばいて死んだ方がましだ、と」
「ああ、そんなことも云ったか」
「三助!」
怒って臥龍が余りに激しく枝を揺すったので、地面に近い枝が一本折れてしまった。
「自分を傷付ける馬鹿があるか。桜は手折るとそこから腐るのだろう?」
三助は紅い小袖の右袖を口に当て、ピッと引き裂いて、枝の折れたところに巻いた。
三助は造作も無く裂いてしまったが、見れば紅絹の鮮やかな小袖で、その袂には、
見たこともない、たぶん三助がいつも言う、南蛮とか云う異国の刺繍が施してある。
「信長をあれと呼ぶのは、本当は心から信長に従っていないからなのだろう?」
すがる様に尋ねる。
「信長が嫌いか」
「お前を苦しめているのは信長だろう!?」
三助の頬が僅かに動いた。三助は答えず、暫くの間黙していた。やがて口を開くと、
「人の心を捨てられれば、迷うことは無いのだ。鬼ならば楽になれる」
言った。
「こなたを美しいと思う心を捨てたくはない・・・・・だが、あれを捨てる事もできぬ」
「なぜ・・」
「ふふふ、では何故こなたを捨てられんのだろうなぁ」
ひらりひらりと三助は日向に出た。一面の緑の中に、赤い姿が染みて花弁のようだ。
「こなたを捨てれば、俺は鬼になれるのに」

ある夏の暑い夜、一際明るく輝く星が、白い尾を引いて西の空へと流れていった。
禍々しい紅い光を発しながら、その星は引き寄せられる様に稜線の彼方へ堕ちた。
星が流れるのは凶兆であると云う。臥龍はそれを信じていたわけではなかったが、
その時は、不吉な予感がまとわりついて離れなかった。
世の中には、人の感覚では計り知れない不思議と呼ばれるものが、存在するのだ。
自分が人の心を持ち、人の言葉を解する様に。
間もなく、西の空が紅く染まり始めた。
西は、京の都。

翌晩三助は久しぶりに現れた。三助と初めて出逢った夜の様に東風が吹いていた。
何処で戦があったのか、彼は甲冑姿で、また何時もの様にやつれた顔をしていた。
三助の乗って来た青馬は、三助が降りた途端、泡を噛んで地面にどう、と倒れた。
馬は体の彼方此方に矢傷を負っていた。流れ出した血が固まって鈍く光っている。
三助は甲冑を脱ぎ捨て、臥龍の根元に腰掛けた。放り出した胴丸は闇に飲まれた。
彼の着物も半分血に染まっていた。彼の色白の肌が、いつも以上に青白く見える。
あれは全部三助の血だろうか、ふとそんなことを思った。
あんなに出血したら死んでしまう。
・・・・死ぬ?三助が?
三助の鎖骨の上辺りから木の枝のようなものが、三寸ほど生えているように見えた。
三助は今気付いたとでも云う様に、おもむろに枝に手を掛け、ずるりと引き抜いた。
そ其れは枝ではなく矢だった。抜けた痕から黒い液体が放物線を描いて噴き出した。
こみ上げてきた血が、くちびるの端からこぼれた。三助は小さくふたつ咳をした。
「臥龍、俺は疲れた。しばし寝る。誰も近づけるな」
そう云って、三助はいつもそうしてきたように、臥龍の根元に仰向けに寝転んだ。
しかし、地面はすでに黒い血だまりになっていた。ぱしゃと水のはねる音がした。
もういいだろう?
臥龍は三助がそう云ったように聞こえた。何か云ったか?と臥龍は聞き直したが、
三助はもう返事をしなかった。
天空に月が煌々と上がった。
森は闇を纏い、粛々と臥龍を包んでいる。
今宵は蛙の声も無く、蒼い稲穂の上を滑るように東風が吹く。
臥龍は風の囁きに耳を傾ける。
三助はもう息をしていなかった。
共に眠ろう、少年よ
かつて風吹く森に現れ出でた紅い小鬼は、紅い肉塊となって血溜りに浸かっている。
流れ出した血はとくとくと躯の下に滑り込み、池をつくり、其の表面に月を映し、
密やかに、苔むした樹下に蔓延りながら、どくどくと土を黒く染めて消えていった。
死んだら私の色になりたいと言っていたな。だがそれも叶えてやれない
私の命は尽きていたのだ
お前のために生きてきた
臥龍の意識は遠退いた。
さんすけ・・・・
臥龍を魅きつけて止まなかったあの美しい死神は、三助だったのか。
薄れゆく意識の中で三助に触れようと伸ばした枝が掴んだのは、真紅の花弁だった。
三助の身体はもう其処には無かった。ただ、紅い花びらが積っているばかりだった。
臥龍が最期に三助に伸ばした手も、崩れて花びらになってしまった。
東風が穏やかに吹いていた。

翌朝、村に絶叫がこだました。
「臥龍が、臥龍がっ・・・・・天へ帰ってまった・・・・!!」
人々は、一晩のうちに消え去ってしまった臥龍桜を見て驚き、そして酷く悲しんだ。
肉親を失ったかのように、村中が悲しみに沈んだ。臥龍が在ったはずの場所には、
馬の屍骸がひとつ倒れているだけで、臥龍の株や根すらも跡形もなくなっていた。
ただ、唯一臥龍だけが咲かせることの出来たあの紅い花びらが二片だけ残っていた。
村人達はその場所に祠を建て、花びらをその中に納めた。
数日後、京の都での政変が村に伝わると、村長はこう云ったという。
「臥龍は、先日京で亡くなられた、先の右大臣様が大変愛でておられた櫻だから、
 一緒に連れていきなさったんだよ」
現在、臥龍桜のあった場所は、木曽川の底に沈んでいる。