「世界名馬ファイル」より、目次のご紹介がわりに本文を部分抜粋しました。

























アラビア最高の名馬:ゴドルフィン・アラビアン(1724〜1753 牡馬 黒鹿毛 イエメン産?)


 いわゆる三大ファウンデーション・サイアー(基礎種牡馬)の中で、最も彩り鮮やかなエピソードを持つのがゴドルフィン・アラビアンである。
 ゴドルフィン・アラビアンは1724年生まれ。イエメン(アラビア半島南西端)の有名な純血アラブ、シルファン系の出身で、当初の名を
シャム(SHAM)と言った。アラビアでも滅多にいない名馬と言われ、シリア経由で来たアフリカのチュニス(チュニジア)の総督の元へ
送り届けられたが、総督は1730年(1729年説もある)他のアラブ馬3頭と一緒にシャムをフランス国王ルイ15世に献上した。
 しかし、パリに着いた4頭は痩せこけて見栄えがせず、気性が荒くて乗りこなす事もできなかった為、シャムを除く3頭は馬匹改良の目的で
パリ西方のブルターニュ地方に送られた。シャムはと言えば、英国人のエドワード・コークに買われ、英国ダービー州ロングフォード・ホール
の彼の牧場に迎えられた。パリに着いたのと同じ1730年の事だとされている。


 コークがどの様な経緯でシャムを手に入れたのか、それは謎である。一説によると、パリで水運びの馬車を曳いていて、そこを通りかかった
コークの目に止まったのだと言う。
 コークが1733年に死亡すると、シャムはロジャー・ウィリアムズに引き取られたが、ほどなく第2代ゴドルフィン伯爵が購買、シャムは
”ゴドルフィン・アラビアン”(ゴドルフィン伯爵のアラビア馬)となり、1753年に30歳で死亡するまで、伯爵所有のゴグマゴグ牧場
(ニューマーケット近郊)で過ごした。
 ゴドルフィン・アラビアンには出走歴がなく、最初から種牡馬として供用された。但し、当初は試情馬(アテ馬)だったと言う説もあって、
先輩種牡馬のホブゴブリンが名牝ロクサーナとの配合をイヤがった為、代役で起用さえたのが最初の種付けだとされる。そうではなく、
ロクサーナを巡ってホブゴブリンと格闘になり、ケンカに勝ってロクサーナを手に入れたという説話もあり、その格闘シーンを描いた有名な絵
が残されている。
 いずれにせよ、この種付けから生まれたラスは競走馬として大活躍し、2年後の1734年に同じ配合で生まれたケードは種牡馬として
マッチェムを送り出した。マッチェムは種牡馬として大成、ゴドルフィン・アラビアンの直父系は”マッチェム系”と呼ばれる様になった。
アメリカの名馬マンノウォー、日本ダービー馬クライムカイザー等が、この父系に属している。
 ゴドルフィン・アラビアンについては、大家ジョン・ウートンを始め、多くの画家が油絵を残している。そのどれにも共通しているのは、
黒鹿毛の堂々たる馬体を誇り、頸さしの逞しさ、たてがみの豊かさに於いて比類がないという点。ゴドルフィン・アラビアンは
バイアリー・ターク、ダーレー・アラビアンの両馬を凌駕する名馬だとされるが、それは馬体の良さにもよく現れている。
体高は149.9センチ説と152.4センチ説がある。


 残された絵画の中には、猫のグリマルキンと向き合ったものがある。ゴドルフィン・アラビアンはグリマルキンが大のお気に入りだったが、
先に死なれると、一転して猫を毛嫌いする様になり、猫の姿を見かけると飛びかかって殺そうとしたと言う。もっともこれには異説があって、
先に死んだのはゴドルフィン・アラビアンの方であり、猫のグリマルキンはその死を嘆き悲しむあまり、すぐに死んでしまったと、
こちらの説は言う。
 ゴドルフィン・アラビアンは”ゴドルフィン・バルブ”と言われる事もあるが、これはバルブ馬で知られる北アフリカ経由で欧州に渡った為、
バルブ馬だろうと勘違いした人がいたから。今はあまりそう書かれない。
 ゴドルフィン・アラビアンは22年間に90頭の産駒を残して没した。遺体は牧場に埋葬され、その死を悼んで多くの人が墓参りに訪れた
と言う。