ファームステイ体験記
 その乗馬クラブは、景色が最高な山腹にありました。がんばってくれよな、とオーナーに突然抱擁され、ちょっとビックリして
私のファームステイが始まりました。

 クラブスタッフは4人。
精神鍛錬の為に幼い頃にこの乗馬クラブで乗馬を始め、そのままここに居着いた人と、
放浪の旅で乗馬を知り、それがきっかけで乗馬クラブにおり、再度の旅立ちを目指す人と、
自己破産して乗馬クラブに逃げ込んだ形になってしまった人と、
体力自慢の牛好きで、以前バイトしていた乳牛牧場スタッフになりたいと憧れている人。

 ファームステイで乗馬クラブ運営をお手伝いする事により、乗馬クラブ会員では知り得ない調教や、乗馬技術の盗み見を期待していたので、
その顔ぶれと実状にショックを隠せませんでした。
精神鍛錬の目的が、結果、乗馬クラブに半分引き籠もった様な状態になり、
旅先の乗馬クラブで触れ合った馬達とは違うといって困惑し、
破産前に飼っていた小型犬と同じペット感覚で馬に接し、
馬は牛と違って神経質だから嫌いという…
 頼みの綱のオーナーはめったに厩舎には顔をみせず、厩舎に来る時は、スキーのストック、山道で拾った木の棒、ムチ等の武器を
必ず携帯し、気に入らない事をしている馬の頭やお尻をいきなり叩いていました。

 そんな訳で、気楽なファームステイ気分はどこへやら、十分な知識や経験もないままに、私も労働力の1人としてカウントされるという、
とんでもない事になってしまったのでした。

 引き籠もりの人は、長く知る乗馬クラブだし、馬達の事を一番良く知っていたし、馬にも乗れるので、厩舎作業を担当する一番の適任者に
思えましたが、宿泊施設管理と事務補佐を担当していて、厩舎に来る事はありませんでした。
それを不思議に思っていたのですが、夕食後の定例茶会で、おぼろげに理由がわかりました。
 幼い頃から気が弱くて決断力に欠けており、その点をオーナーに指摘されて乗馬を始めたそうですが、クラブスタッフになってからは、
その点を素直さや従順性に置き換えて求められてしまった様です。
休日でも家族同然に仕事があり、古友の老馬が無理な接客で死亡したのを責める事も泣く事も許されず、挙げ句の果ては、
酔ったオーナーに胸をつかまれると言うセクハラ行為で、心が壊れかけているみたいでした。茶会の間も盗聴行為を常に心配していました。
 そんな訳で、その人は内勤に従事する事で、ビジター客や私達と距離を置かれていたらしいのです。

 放浪の人は、元の会社員に復帰する事なくクラブスタッフになった経緯から、よほど馬が気に入ったのかと思いきや、
自分になつかない馬達にとんでもない事をしていました。リーダー不在の人的環境で、馬達もどこか不安な精神状態にあったのですが、
その人はわざと鉄柵を落としたりして馬達を怖がらせ、トラブルを誘うのです。
会社員時代に人間関係で悩んだ事や、クラブスタッフになってからも落馬を理由にオーナーから騎乗を禁止された等、
その人なりの原因はあったのでしょうが、何でこんな人がクラブスタッフでいるのか不思議でした。乗馬クラブの法律であるオーナーに対して
YesManであった事が理由の一つかとも思います。
 私達に対してもたまに意味不明の言動があり、馬を虐待している乗馬クラブがあるからと言って、とっぷり日が暮れた夕食後に
山奥に誘われた時は、身の危険を感じてしまいました。

 破産の人は、乗馬クラブにいる事でオーナーに借りを作っており、ボロ運搬トラックに傷をつけた(私には傷がわかりませんでした)、
牧柵修理に良質木材を使った(朽ちかけた放置木材だったのです)と言っては、オーナーのいじめの対象になっており、
元自営業者のプライドや創造力は更にひどい状態になっていました。
 でも、元来の動物好きで、馬の危険性や扱い方がわかった後も、心と体で優しく馬に体当たりして笑う姿には感動しました。
こんな人が厩務員になってくれたらいいのにな…と思ったものです。

 牛好きの人は、どうして馬を牛の様に棒でたたいて追ってはいけないのかが理解できず、細かに厩舎掃除をしなければいけない事も
めんどくさかった様です。馬の危険性や扱い方がわかった後も、持って生まれた丈夫な体と体力に助けられていました。
もともとは牛を扱っていた牧場が方向転換して馬を扱う様になった牧場で、馬達が見当違いな扱いを受けて不幸な日々を送っている事が
ありますが、何だかわかる様な気がします。
 でも、その人が馬を少し憎んだ理由の一つが、馬を人間の指導者として扱うオーナーが馬達を叩く姿を見たり、
オーナーに体を触られるというセクハラ行為を受けたりして、矛盾を感じたせいもあったのだと思います。


 ファームステイ期間中、私をずっと助けてくれたのは馬達でした。運動といえば放牧と調馬索だけの毎日だったのに、来て間もない私を
従順に乗せ、落とされた鉄柵に驚いた時も、私の制止に耳を傾けてくれました。初めて馬を扱うクラブスタッフにも、辛抱強く付き合って
くれました。でも私は、オーナーや鉄柵ショックを一番嫌って私を頼りにしてくれたある馬を裏切る、ひどい事をしてしまったのです。
 複数ビジター客が訪れた時、珍しい客を意気揚々と引き連れたオーナーに対して、やっぱり彼は特にビクビクしていたらしいのです。
その為、その日の接客には彼を使えないと判断したオーナーは、彼のお尻を自分に向ける形で、対面に彼を繋ぎました。
 彼にしてみれば、怖くてたまらない人が自分から見えにくい真後ろにいるのですから、ますます不安だったのでしょう。
全身がピクピクしている彼のそばを私が通りかかった時、私を見つけた彼の目が本当にホッとしていたのです。
でも私は、彼を移動しなかった。彼を動かそうとすれば、ビジター客の前であろうと、オーナーにひどく咎められるのが分かっていたので
出来なかったのです。声もかけず通り過ぎる私を追う彼の目が、悲しいあきらめに変わっていくのがわかりました。

 それは、今でも思い出す度に両手で頭を抱えてしまう出来事です。それ以来、二度と、二度と、馬の心を裏切る様な事は、決して、決して、
したくないと思っています。短いファームステイ体験でしたが絶対に忘れません。