「競走馬の文化史 優駿になれなかった馬たちへ」より、本文を部分抜粋しました。
☆競走馬から乗用馬への転職

 あまりにも特殊化された体の作りやトレーニングは、競走馬達の転身の道も狭めている。
これは戦前から引きずっている問題だが、サラブレッドの改良や調教の方針は、実用的な乗馬とは反対に近い
方向を向いているのだ。
 わずかな合図で疾走する様に幼いうちから訓練され、その為の能力と感受性を研ぎ澄まされた競走馬は、
そうした鋭敏さを好む人を別にすれば、初心者向けの乗馬としては人気がない。
 最近の調査によれば、国内の乗馬は約一万頭、その大半は元競走馬ではないかと言われているが、この頃では
外国産を中心とする乗馬専用種(主に中間種やポニー)が増えていて、レベルの高い競技会や、ウエスタン式のクラブでは、
かなりの数がこうした馬だ。子供や初心者、観光用の乗馬にも、在来種を含めたポニーや、中間種の需要が増えている。

 乗馬の普及は、競走馬の再就職先を増やす事につながってきたし、競技会は、自分達の乗馬施設でも、たくさんこうした馬を
使っている。全国の乗馬クラブに、関連団体を通じて多額の助成金も交付している。ところが、現在の乗馬愛好家達が、
今、一番欲しがっているのは、鋭敏は競走馬よりも、人間のパートナーとしておとなしい馬に育てられ、色々な目的や用途に
順応できる馬達なのだ。もちろん元競走馬でも、調教の仕方さえよければ、立派に乗馬として通用する。
「サラブレッドだから全てダメ、とい訳ではないんです。仔馬の時から乗用馬として調教すれば、トップレベルの馬術競技でも
十分通用しますし、イギリスには、十頭生産して、三頭競走馬に売れたら、残りは乗馬にすると言う生産者もいるんですよ。
引退した競走馬でも、じっくり時間をかけて再調教すれば、良い乗馬になる馬はいます。ただ問題は、いったん競走馬として
受けた教育を忘れさせる事が、かなり難しいという点なんです」
 元日本馬術連盟常務理事の千葉幹夫氏から、記憶力の良い馬という動物にとって、いったん決めたルールを変える事が
どんなに大変かを伺った。

 確かに、競走馬の再調教は大変な仕事だ。でももし、本気で元競走馬を乗馬にして、長く楽しみたいなら、決してそれを諦める
必要はない。競馬場から来たばかりの馬は、確かにちょっとした事で興奮しやすく、うっかり駆歩をさせれば、
なかなか止まらない事もある。でもそれは、馬がダメなのではない。そうする様に教育されてきたからなのだ。
そんな馬達を、のんびり放牧してやったり、散歩に連れ出したりしながら、気持ちをほぐし、体をほぐして、新しいルールを
教える人間を信じさせる事ができたなら、再調教の第一歩は成功だ。その後は、乗り手の体重を背中でしっかり受けられる様に、
徐々に筋力をつけていく。
「体さえ丈夫なら、乗馬にできない馬なんていませんよ」
と断言する人もいる様に、良い調教者のもとで時間をかけて教えていけば、たいていの馬は落ち着いた乗馬になるし、
馬術競技に出てトップレベルまで進む馬だって少なくない。そして、乗馬に向く、向かないは、競馬の成績とはほとんど関係がない
と思って良い。

 競走馬としては未勝利だったが、馬場馬術の名馬となって、法華津寛さんとのコンビで日本選手権に五連覇したキャスパーという
馬がいる。十年以上も同馬に付き合って来たインストラクターのグール・ワディアさんによると、同馬の良いところは、
性質がとても素直で、学習意欲が旺盛なところだと言う。
「性質がおりこうさんなら、能力はかなりカバーできますね。馬術では、馬の体の自然なゆがみを治すのに、柔軟体操の様な事を
やりますが、これは馬にとって苦しい事です。素直な馬なら、それを良く我慢してくれる。それと、競走馬の場合、若い時から
激しい運動をするので、脚や筋肉を痛めている事がありますね。そうした悪いところが出ない様に、出ない様に、馬と話しをしながら、
ちょっとずつ上に進んでいく事が大切です」
 乗っていて「ちょっとおかしいな」と感じたら、獣医さんや装蹄師さんと相談しながら、悪いところを治していく。
あまり先を焦ったら、馬を壊してしまいかねない。引退競走馬は、この手間ヒマが乗馬専用種と比べれば大きいけれど、
その様にして、愛馬が一歩一歩成長してゆく歓びは、何物にもかえがたい。

 大分県の中津競馬場の近くに、九州ファームという競走馬の休養牧場がある。競走馬の生産過剰が深刻になっていた93年春、
ここを訪ねて、場長の阿南哲也さんに馬達の乗馬転用について聞いてみた。
「確かに競馬場からはどんどん馬が出ます。でも実際問題として、乗馬に調教しても田舎ではほとんど需要がないんです。
九州全体でも年に20〜30頭ぐらいじゃないでしょうか。管理馬が肉用になるとわかると、パートの奥さん達に泣かれてしまう事も
ありますけれど…」
 阿南氏はかつて、学生馬術でトップクラスの専修大学で技術を磨き、乗馬クラブで子供達の指導をしていた経験もある。
「この馬だって、時間をかければ治せないではないし、まだ五歳なんですが」
 栗毛の馬が一頭、先ほどから馬房の後ろから顔を出し、キョトンとした表情でこちらを見ている。流星のある、きれいな馬だ。
「引退馬を調教して乗馬にする事が、現状では仕事として成立しない。東京あたりでは、まだしも乗馬クラブにお客さんが集まるかも
知れないけど、地方では馬に乗る人はまれだし、オーナーになる人も少ないですから。そういう場所で乗馬を増やし、
クラブを開いたとしても、職員の給料まで出ないかも知れませんね」
乗馬に仕立て直してやりたいと思っても、とてもできる状況にない。全国の競馬場の周辺で、同じ事が日常的に起こっている。

 「乗馬クラブの経営の難しさ」はよく耳にするけれど、日本の場合、何よりもまず、地価が高すぎる事、人口が大都市に集中しすぎる事
がその原因である。それに加えて、これまでの傾向として、乗馬が特権階級のスポーツの様に思われてきた事も、普及を妨げてきた要因
だろう。こういうことが、一つ一つ解決されていく中で、地域の人達に親しまれる馬のいる施設を増やしていく事はできるだろう。


☆最後の家(肥育場)

 鉄筋コンクリート作りの大きな畜舎に、数え切れない程の馬達がいる。外光がいくらか差し込むコンクリートの囲いの中で、
互いに身を寄せ合って、静かに立っている大型の馬達。そのかたわらに寝そべっている肥満した馬。そわそわと不安なそぶりで
こちらを凝視している馬。人が近づくと甘える様に顔を寄せてくるまだあどけない若駒もいる。
 福岡県久留米市にある木稲畜産牧場は、約800頭の馬を飼育する、地域で最大の馬の肥育場だ。青々とした田んぼが広がり、
カササギが舞うのどかな風景の中。ここには色々な馬がいる。種類も、性格も、そして、ここにやってくるまでの経歴も。
 経営者の木稲直美氏にお願いしえ、馬達の暮らしぶりを見学させていただいた。
「こっちの大きいのが重種。馬のセリで買ってくる。肥育期間は当歳なら1.5年。2歳は1年。霜降り(サシ)を
つけるには1年みないと。これが軽種。全体の3分の1ぐらいがこういう馬です。競馬の上がり馬もいるし、競馬に
使っていない馬もいる。大人の馬は、大体3ヶ月から6ヶ月ぐらい肥育する。」
 馬の肥育には、体重を増やすのと、肉質を良くすると言う目的がある。筋肉質な競走馬では、適度に脂肪の混じった柔らかい肉に
変えないと、色も黒っぽくて馬刺に向かない。

 鉄柵で仕切られた10メートル四方程の囲い(追い込み馬房)の中には、馬は18頭ぐらいずつ入れられている。これとは別に、
単独の馬房も少数あって、1、2頭ずつ分けられている。単馬房は窮屈そうだが、追い込み馬房はゆとりがあって、馬達は自由に
歩き回ったり、寝そべったり、毛つくろいができる様だ。
 床にはバークと呼ばれる木材の皮が敷かれている。まとめて3週間に1回、入れ替えるだけだというが、風通しが良い為か臭いは
少ない。こんなに密集させて、怪我や病気の心配はないのだろうか。専門書を見ると、神経過敏な元競走馬の肥育では、イライラとして
互いに蹴り合って怪我をしたり、疝痛をおこす馬が少ないくないと書いてある。その為、馬の性格や相性を見極め、一頭一頭きめ細かい
管理が欠かせない。もちろん、牡でまだ去勢していない馬は、肉を柔らかくし、臭いをとる為にも、去勢をする。
 ここでも、買ってきてから2週間ぐらいは、相性を見てあちこち馬を入れ替えるのが大変な手間だそうだ。信州や関東近辺では、
1頭ずつ単馬房で飼う所が多いが、ここ久留米では、重種も軽種も、広い囲いに多頭数を飼っている。どうしても仲間と一緒に
できない馬だけ、無口頭絡をつけてつないだり、個別の馬房に分けているが、それらの馬は、ソワソワとして表情も不安そうだ。
 バークの下はコンクリート。蹄が適度にすり減るから、削蹄はしていないと言う事である。買った時すでに病気や管理ミスで蹄が
変形している馬は、長期の肥育には耐えられない。病気や怪我、神経質な性格の為、体重の増える見込みのない馬も、早い段階で
出荷される。運んできたばかりの馬が、輸送直後にひいたカゼから、リンパ腺をはらす事がよくあるが、これは薬でだいたい治るそうだ。
後は疝痛が時々でる以外、馬はおおむね健康だと言う。


 別の肥育場では、肥育中に蹄葉炎を起こす馬がいると言う話しも聞いた。これは、蹄の発熱と激痛を伴う病気で、悪化すると馬は
立っている事もできなくなる。原因は、ムギ、フスマ等の濃厚飼料の食べ過ぎ、養分の多い牧草の過食、蹄への過重その他があると
言われている。あのテンポイントやトウショウボーイが最後にかかった病気もこれだった。
「3ヶ月ぐらい食べるだけ食べさせると、動けんごとなる病気が出る。1日1キロ体重を増やすのが目安だけど、少しアキを作って、
腹八分目か九分目がいい」
と木稲さんは説明する。じっくり肥育した方が、馬の健康にも、経済的にも良いと言う。
 肥育用の飼料は、フスマ、穀類、干し草、ワラ等で、出荷の日までひたすら体重を増やしていく。朝は麦やフスマ等の濃厚飼料、
夕方は主にワラ等の粗飼料をたっぷり食べて、脂肪ののった馬達の皮膚はつやつや光、特に重種は穏やかな顔つきだ。
「ずいぶんリラックスして、毛並みもつやつやとしていますね」と正直な感想を話すと、
「安心してゆったり暮らしてるからね。広い所のは良く動くから、互いに擦れ合ってきれいになるし。でも、これはまだ過密だよ。
本当なら一つの囲いに十頭ぐらいに減らして、外でも運動させた方が、経済性もいいし、馬の為にもそれがいいとよ」
良く見ると、重種の中にはしっぽが短くなった馬がいる。
「する事ないから、尾ぐいをする」
 尾ぐいとは、やはり密飼いされるブタとか、乗馬クラブでも時々見られる行動で、良くオーナーを嘆かせる。退屈を持て余し、
草のかわりに他の馬のしっぽを食べてしまうのだ。畜舎内には、馬を外部の騒音に慣らす為、いつも歌謡曲やポップス等の音楽が
流れている。これには馬をリラックスさせ、食欲を増進させる効果もある。
「いつもイライラしているのは、肉も良くないんですよ」と奥さんも話す。
 木稲畜産牧場では、熊本の食肉センターや組合経営の食肉処理場に馬を運び、処理してもらった後、自営の店で小売りしている。
口コミでお客さんが増え、近郊の消費地にも出荷しているそうだ。重種は主に刺身用。軽種は薫製もおいしいが肥育して柔らかくなって
いるから、刺身用にも好評だと言う。

 こうして見ると、馬の肥育と言っても、行われる事は基本的に牛、豚等と変わらない。違うのは、競争馬の様に神経の過敏な種類では、
管理にあたって相応のきめ細かさが求められると言う事ぐらいだろうか。
 何カ所か肥育施設を見せていただいて思ったのは、施設の環境や管理方式には少しずつ違いがあると言う事だ。久留米の様に、戸外には
出さなくても、馬が割と穏やかに暮らしている所もあれば、小さなパドックに若馬を出し、日光浴をさせている所もあった。
 その反対に、馬房が狭く、日当たりも悪く、床に敷いたオガクズが糞尿で汚れている様な所に、馬が終日入れられている施設もある。
馬の心がまるで無視されている様な施設の中に、競馬場や乗馬クラブから来た馬達を見つけると、胸に迫るものがある。
 ただ、この様な不適切な環境は、乗馬用に馬を飼っているはずの施設とか、観光地の小動物園にも、時々見られるものなのだ。ワラも
オガクズも敷いてやらず、ゴムマット一枚だけとか、むき出しのコンクリートに積もったボロと尿で、田んぼの様になった床。
蹄の手入れも満足にされず、そんな薄暗い馬房に、ずっと閉じ込められるよりは、環境のいい肥育場の方がいいのではないか、と思う事
すら時々ある。
 何ヶ月も過ごす自分の「家」がどの様な環境か、そこを管理する人達からどんな取り扱いを受けるかは、敏感でデリケートな動物で
あればある程、大事な事に違いない。