俳句の基本U

1. 句またがり

 俳句は五七五の定型であるが、一音節内の言葉が次ぎの音節にまたがってひとつの意味を形づ
くる場合、これを句またがりという。
   明ぼのやしら魚しろきこと一寸     松尾芭蕉
 「しろきこと」で意味が区切れる句またがりとなっている。リズムのストレスは各音節の頭に
くるが、意味が区切れは3音節の途中にある。リズムに乗って読み下してきたのがここでつまず
く。その結果、「一寸」が強調されている。

2. ものによる表現

秋元不死男は、
   少年工学帽古りしクリスマス
という句を作ったことがあった。この句を西東三鬼に見せて意見をただしたところ、
「少年は工学帽をかむっているのか」
「もちろんかむっているのだ」
「それなら<かむり>としなさい」
と一喝されて、
   少年工学帽かむりクリスマス
と改めた。不死男は、俳句は「こと」すなわちことあげするものではなく、「もの」をはっきり
見つめ、しっかりつかむものだと思いあたったという。
 この「もの」説は、「もの」に即いて本体をしっかりつかめば、「もの」の本体に伴う連想が
浮かび上がり、「こと」に即けば、その説明に終わり、説話的にかつ概念的になるおそれがある
ということである。

3. 二句一章と一句一章

 二句一章は、一ヶ所に置かれた休止によって二つの概念が複合して一章をなすもの、一句一章
は、断切れを入れずに、十七音でできるかぎり自由に表現するものをいう。
 大須賀乙字が大正三年ころ「二句一章論」を発表している。これに対し臼田白亜は大正十二年
に「一句一章論」を主張する。
 正岡子規以来の写生句が平面的な表現になりがちなことへの批判として、乙字は二句一章論を
掲げた。二句二章は「取合わせ」、一句一章は「一物仕立て」に合い通じている。どちらが俳句
作法の主流であるかは、芭蕉の時代から論争されてきたことであった。
 二句一章の例としては。
     菊の香や奈良には古き仏達        水原愁櫻子
 一句一章の例としては。
     冬菊のまとふはおのがひかりのみ     水原愁櫻子

4. わび・さび

 わび(侘び)は「侘ぶ」という動詞が名詞化された言葉で、侘びしい、すなわちつらい・貧し
い・やりきれないなど、不満不足を感じて心細く思い煩う気持ちを表わす言葉として、古くから
和歌などの文学上の用語として使われていた。それが名詞化され、もともとの意味であるつらさ
・貧しさなどの不満を肯定した上で、簡素閑寂の心境の美的理念を表わすようになった。
 さび(寂び)は「わび」と同様に「さびし」が名詞化したものである。喜怒哀楽の一表現であ
る「さびし」が、天地自然の幽玄の中にあって閑寂な境地を愛し、俗悪華美な富や権力に対抗す
る寂寥寂の精神をそだて、静枯淡に洗練された情緒をこころざす美的理念を表わす名詞となった
。わび、さびともに蕉風俳諧の理念とされた。
 わび・さびの表われた芭蕉の句には次ぎのものがある。
   おもしろうてやがてかなしき鵜船哉
   此道や行人なしに秋の暮れ
   旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

5. 軽るみ

 日常身辺のさりげない事象をきっかけにして、自然や人生の深みへ入っていく境地と考えられ
る。
     秋深き隣は何をする人ぞ
 この句は軽るみの境地をよく表わしているとされている。
     夏草や兵どもが夢の跡
     荒海や佐渡に横たふ天の川
 これらの句は歴史的背景の上に成り立って、その重厚さが芭蕉の代表作までに押し上げている
。これらは「重くれ」とする作風と考えられ、ここからの脱却が「軽るみ」であったともされて
いる。 「軽るみ」は芭蕉が晩年に説いた俳諧理念であることから、至りつくべき境地と考えら
れがちであるが、芭蕉にとって最高の芸術の境地であったかは定かでない。

6. 無季の句

 俳句は「季節感」を表わす内容で作られてきた。季語はそのためのものであるから、欠かせな
いものされている。一方、「季感」(季節感)があれば季語はなくてもよい、という考えもある

 俳句に季語を入れる決まりは連歌(五七五と七七を別の人が作り付け合うもの。のちに連句と
いう)からきている。俳句は連歌の発句(最初の五七五)が独立したものであるが、発句には必
ず季題を入れる約束がある。これは「時」を通して挨拶を示すという考えである。時の挨拶とは
季節の挨拶ということである。このことを俳句は引き継いでいる。
 俳句に季語があるべきかどうかは、その人の立場ごとの問題と考えられる。しかし、無季の俳
句で名句として残っているものは極めて少ない。このことからも俳句には季語が必要といえる。
 また川柳と俳句の違いであるが、誰もが知っている一般てきなことに風刺や皮肉を効かせたも
のが川柳である。一方、俳句は誰もが気づかなっかことを、詩として表現したものである。
     行列に顔なし息をしつつ待つ     西東三鬼
 戦後の食料難の時代、何の希望も持てない人々に感情を失った様子を、端的に表わしている。
    ラグビーの頬傷ほてる海見ては    寺山修司
 頬傷ができるまで打ち込んだラグビー。海の広さに通じるものがある。夕暮れ海は虚無的でも
あることが、この場面への共感を誘われる。


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