作者にとって、句がどのように読者に鑑賞され、評価されているかは気になるところである。 そのことは句評によって端的に知ることができるだけでなく、句評によってその俳句に新たな生 命が吹き込まれることもある。また、作者が句に託したこと以上のことが語られていることもあ る。俳句誌「山火」においての、私の句について句評を次に紹介する。 |
雷鳥は這松地帯のある高山に棲む。人への恐れを知らず夏、雛を連れお花畑の直ぐそばを歩い て来る。この鳥のそういう特性を現している。単独行の登山者であろうか、疲れた身にひと時な ごみ慰められた心持がある。遠々と続く登山道を思わせる句である。 (俳句誌「山火」、坂井多嘉氏) |
二輪草はきんぽうげ科の多年草。一輪草と同じように山野の陰地に自生し群生する。晩春、葉 の上から長い花梗を出し、二、三輪の白い花を開く。花は一輪のこともあれば三輪、五輪と開く こともあり、かならずしも二輪とはかぎらない。 白馬岳の雪渓に行くまでの山路の渓と渓の出合いのところにたくさんの二輪草の群落に出合っ たことがある。向きも丈も違えて咲く二輪草の清楚な白い花を思い出した。 「丈も違えし」は「丈の違へし」ではないかと思えたが、いかがなものか。 (俳句誌「山火」、田上悦子氏) |
日没前の夕日に薔薇色に染まった雪山が日没と共に刻々色を変えていく美しい時間の経過が目 の前に見えるようである。日没やと切れ字をつかって句に奥行きがでた。 (俳句誌「山火」、田上悦子氏) |
戸隠神社は宝光社、中社、奥社からなり、それぞれ天ノ岩戸の神話にまつわる神を祀る。掲句 は奥社であろう。その社を囲む杉木立は亭々と聳え、初夏のころには、戸隠山の空へ直立した栃 の巨木の花が咲く。 奥社の脇には、細い渓流が涼しげな音をたて落下、身も心も清々しくなる。くどくどした表現 をしないで「かな」といいきったところに戸隠らしい余情がある。 (俳句誌「山火」、雨宮美智子氏) |
前川氏も岳人であり、アイヌの里や幌尻岳などバイタリティーに詠まれている。「星涼し」は あきらかに高地での情景で、私は上越線石打駅辺りで同じようなものを見た覚えがある。国鉄時 代に活躍した客車は宿泊所としてリフォームされ、貨車は倉庫代わりに使用されている。着想が 非凡で把握が確かである。 (俳句誌「山火」、研斎史氏) |
武奈ヶ岳は比良山系の最高峰。この比良山系は琵琶湖の西側に位置し、南北凡そ二十五キロに 及ぶ連峰を形勢している大きな山脈である。 武奈ヶ岳の標高は一二一四メートル、高くはないが、その山域は闊葉樹が多く、新緑の季節、紅葉 の季節は、近在の山でこれに匹敵する山は少ない。 さて揚句は「稜線も谷も新緑」と簡単に述べて、この山の新緑の大きさ、深さを表現してい る。この把握は一見無造作なようにも思われるが、武奈ヶ岳の頂上に立って四方を眺めてみれ ば、この表現が適切であることが判ると思われる。率直簡明に述べられていて、こころに迫って くるものがあるようだ。 (俳句誌「山火」、大原雪山氏) |
「のけぞりて崩れて」はスキーヤーがバランスを崩したことを指しているのであろう。バラン スを崩せば転ぶしかないのである。こんな転びかたをするスキーヤーは、多分スキーの経験の浅 い人と思われる。 初めてスキーを履いた人は、板の上に立つのがやっとという感じである。スキーが滑りだす と、上体が残るので「のけぞって」しまうのである。スキーの技術があがってくると、のけぞる ことはなくなってくる。どんな急斜面でも、雪が付いている斜面なら怖くはなくなってくるので ある。 スキーは、転んでも転んでも楽しいスポーツである。そんな楽しさがこの句から窺えるように 思われる。 (俳句誌「山火」、大原雪山氏) |
町の明かりの少し見える向こうで、ぽっかりと花火が浮かび、音が後れてやってくる遠花火は とても情緒がある。けれども、間近で迫る迫力に圧倒される花火もまたよいものである。色―火 が作り出す色は、電飾とはちがってどこか優しい。形―花火師が、一玉一玉手作りで仕上げた玉 はふたつとして同じものはなく、それだけ見ていて飽きない。 途中から雨がぱらつき出し、やがて大雨となってきたが、相変わらず花火は揚げつづけてい る。花火師の情熱も、観客の歓声も、花火の艶やかさも、はかなさも、そして花火が消えたあと のもの哀しさも、雨にはまったく関係がない。 (俳句誌「山火」、中川忠治氏) |
私は経験したことはないが、句意はじゅうぶんわかる。昨年『秘境の縦走路、穂高岳と後立 山』という書を上梓しておられる。まさに岳人である。手近に『岡田日郎 昭和篇全句集』とい う良き手本があるのだから更に突っ込んだ作を発表して欲しい、期待に応えてくれる作者と信じ ている。 (俳句誌「山火」、中川忠治氏) |