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◇-秋の山路俳句の再考-前川整洋(11/15-16:32)No.102


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102秋の山路俳句の再考前川整洋 E-mail 11/15-16:32

山の掲示板「山SIG」で、あきちゃさんから次の批評の掲載があったので、私
の解説とともに紹介します。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~YAMASIG/

以前評論していらした次の句

   縦走路 木もれ日浴びて 一休み………おがた

この句、初秋の山、きっと寒い日で、体調が悪く疲れていて、
そんな時樹林の間から漏れてくる微かな木漏れ日の温かさがあ
りがたく、嬉しくて書いた句ではないかと思われます。
実際山を歩いているとそういうシーンって結構あると思います
が、そういう時の心の鼓動の愛おしさ、皮膚から抜けていく樹
液のような汗の焦り、そんなものが伝わってきます。
マエカワさんは「浴びて」は合わないとと評されて、添削とし


  休憩を木漏れ日見つつ秋の山

と、観察者としての視点を提案しておられるようですが、私の
個人的な感想としては原作者の句の方により息づかいが感じら
れ親近感を覚えます。
「ああ、俺もあの時の木漏れ日、嬉しかったな」と。

芸術的とされる作品を評論、または添削することって難しいこ
とですね

あきちゃさんの批評を読み、俳句作者というか俳人とは違った意見と思われ
ました。原句は季語がありません。秋の山での句なので、縦走路は秋の山か
何か秋の季語を入れなくてはなりません。「浴び」で良いとのご意見です
が、「浴び」からは水浴びなどのイメージが強く、びしゃびしゃ浴びる感じ
で、秋の落ち着きのある光には合わないはずです。それから俳句では、次に
示すように季語が動いては、俳句の芸術性が無いことになります。掲句では
次のようになります。
 夏の山木漏れ日浴びて一休み
 新緑の木漏れ日浴びて一休み
 若葉風に木漏れ日浴びて一休み
この中では2句目がベターといえますが、秋のでも、夏の季語でももってこ
れる、のでは困ります。また、秋の木漏れ日でも「浴びる」と感じられた、
というのは主観的表現であり、写生句としてはどうかということになりま
す。主観ではなぜ駄目なのか、という意見もあるわけですが、作者とういか
人中心主義か、季語すなわち自然中心主義か、という作法基盤の置き方に関
係しています。
山の俳句では、美観と季語の秘めた深淵をどこまで追求できているかに句の
評価が決まってきます。季語と一般的にはいわれていますが、高浜虚子は季
語とは言わず、必ず季題と言っていました。
 俳句を作る人、作らない人では、解釈というか鑑賞のスタンスが違うとい
えます。これからもいろいろな批評がでてくると思います。


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