◇-地球の詩祭2003-前川整洋(12/6-19:41)No.112
112 | 地球の詩祭2003 | 前川整洋 E-mail | 12/6-19:41 |
第28回地球賞 鈴木有美子『水の地図』について 11月23日、アルカディア市谷での現代詩創作集団地球が主催する「地 球の詩祭2003」に参加しました。次のプログラムでした。 第1部 第28回地球賞贈呈式 第2部 東京の川とその源流紀行 このテーマについて、多くの詩朗読とトークがありましたが、新川和江さん の「多摩川の源流」を要約しました。 多摩川の近くし住んで25年くらいになる。20年ほど前に多摩川の源流を 訪ねたことがある。そのときの体験から、源流に住んでいる人たちとの会話 を中心とした詩「源流へ」を作った。私の住んでいる所では、玉の玉川で す。多摩川は街中を流れているのではないので、隅田川や神田川のような抒 情性はなく、万葉調の川だと思う。 第3部 記念パーティー 第28回地球賞は、 鈴木有美子氏の詩集『水の地図』でした。その中から 一篇紹介します。 水の地図 川の足跡を消すことはできない 山を登る 一足ごとに 想いが入れ替わっていく 確かに わたしたちが辿っているのは川ではなかった 「道筋には一面にクマザサが繁り ブナやミズナラが無限に続く雑木の森でした 杉林はむしろ人臭くって そのときだけ山にいることを忘れることができました ひっきりなしにぬかるみに足をとらえて滑りました でも とうに尾根を滑り落ちる心を見殺しにしてきたのですから わたしたちは 一向に平気で進むことができたのです」 山頂からひと思いに一本の線を描いて それがただ一筋の川であったら けれども日ごとにその姿を変える 蠱惑的な灯りの下では 今夜もきみが存るはずもない水を眺める 地図に埋もれた水脈を探り当てては 夜ごと晴れ晴れと笑うおとこよ きみを 地獄下りの旅に連れて行っても良いのだろうか 「中の沢、鹿又沢、小中沢 そして極楽沢とわかれて走る水は 思いがけないほどの冷たさでわたしたちのあしうらを浸し ました 遡れば遡るほど 地獄下りの旅は深くなるのに わたしたちは笑って 無関心に両足を水に濡らし そして再び笑いあったのです いつも鳥が鳴いていました けれど源流に着いたとき鳥は死んで もう わたしたちに 時を知らせてくれるものはいなくなってしまったのです」 ゆうべの雨で水嵩が増したから もうどれが極楽沢なのか分からなくなってしまったね 林床に戸惑い その出自を幾度も変えながら 川は決して一筋の川ではない ひちつの夜を跨いだだけで こんなにも 川が姿を変えるとは想像もできなかったわたしたちは きのうまでは まだ戻れないのだと思い込んでいたのだ この川をきみと下っても良いのだろうか きみの魂を汚しているのはわたしの中の水ではない この川も自らを問うためだけに流れているわけではない そう言いきれるはずもない「わたし」であるのに この川はだれと下れば良いのだろう 振り向いた途端 幽霊のような身軽さで 一散に山から逃げ下りゆくきみよ 詩評を述べておきます。 最初の一行「川の足跡を消すことはできない」は、川が特別なもの、すな わち暗示的であったり、示唆的である何かを秘めている、ということであろ う。「わたしたちが辿っているのは川ではなかった」ということは、地理的 な存在ではなく、人生行路でもあると訴えている。 四連目の「それがただ一筋の川であったら」とは、川がひと筋ではない戸 惑いである。川を遡ることは、地獄へのというより死への下りでもある。登 り詰めることは、終焉でもある。 川を二人で辿りたい、しかし、きみは逃げて行く。川は流れるとともに、 辺りの様子は変幻する。あたかもそれは人生の行路でもある。きみの存在は あてにはならない、一人で歩んで行かなければならない。言葉を通して、川 が自然界の存在から、人のフィールドに引き寄せられている。 私の一句も書いておきます。 詩を思ふ詩の大会へ枯葉道 俳句は自然諷詠、現代詩は思想探求といえるようです。 |