タイトル: ある知人の俳句と登山活動について
投稿者 : 前川整洋<mae_sei@mwb.biglobe.ne.jp>Locked!
URL : 未登録
登録時間:2004年4月25日13時33分
本文:
5年ほど前に句集『遠賀川』(ふらんす堂、1999年)をお送り頂いた
広渡敬雄氏から、山行記録が郵送されてきました。『遠賀川』には能村研三
先生の次の紹介文が載っていました。
「平成九には沖の同人として推薦を受け、湖鳴集同人となった。仕事の方で
も、銀行の支店長という重責を負いながら沖の中央の例会には殆ど出席する
ほど熱心で、東京句会の幹事役も現在では務めている」
広渡さんはマッターホルンの登頂を果たされているとのことではあります
が、職業がら登山の方は、ほどほどに楽しんでおられるであろう、と思い込
んでいました。
ところが今回の山行記録には、登った全ての山々が記載されているととも
に、次のコメントがありました。
「現在、100名山残り3山、300名山残り26山(但し登山禁止の焼山
も含む)、一等三角点100名山残り9山と言うところですが、ぼちぼちや
ろうかというところです」
エリート銀行員とは裏腹な登山活動に仰天しました。300名山は、15
年ほど前には日本に3人くらいしかいなかった、と聞いたことがあります。
それは、登山道がなくて、残雪期にしか登れない山も幾つか含まれているこ
となどによります。奥美濃辺りの山が、登山道がなくて、最も難しいようで
す。300名山踏破は登山というより、記録への挑戦といった観があり、な
ぜそこまで目指されているのか、分かりかねるところです。危険も大きい、
体力の負担も大きい、趣味でそこまでという精神的圧迫も大きい、費用負担
も大きい、家庭サービス不足からの家族の不満も大きい、それを乗りこえて
までチャレンジする価値のあることなのか、一般論では議論できなことのよ
うです。百名山もそうですが、三百名山もある種の宗教的発想が、私には感
じられます。
広渡さんからの年賀状には次の俳句が印刷されていました。私とはまった
く別な道のエリート銀行員の俳句という先入観から、あまり真剣に拝読しま
せんでした。ここで再拝読してみました。改めて鑑賞したところ、なかなか
味わい深い句であることが、読み取れました。
壬生狂言鬼女の鞐の光りけり
海にかえす蛸壺の汐朝ぐもり
余震なお夜のいちじくの匂ひをり
角切の波打つ腹でありにけり
鋸引いて雪を呼ぶなり宇陀の杣
私の句評を書いておきます。
全体的に小気味よく内容がまとまっている。自然や風土の幻想感を切り取
り、余韻へと反響させている、といえる。
1句目の壬生狂言と鞐が、分からなかった。辞書には次のように書いてあ
った。壬生狂言は、京都市壬生寺の大念仏会で行う黙劇狂言。鞐は、足袋・
脚絆・帙などの合わせ目を留める爪形のもの。黙劇狂言の不気味さと演じら
れている寺の幽玄さが、鞐の光りで象徴されている。
2句目は、広々とした砂浜がイメージされる。沖では蛸壺漁が行われてい
る。自然の豊かさが伝わってくる。
3句目は、余震の不気味さと、いちじくの妖美な趣とが呼応している。余
震の平穏への収斂が、予期される一場面である。
4句目の腹は、波の腹なのか、岩場の腹なのか、波が膨れ上がりながる寄
せてくる景がイメージされる。
5句目の杣は、木こりのことである。辞書に宇陀は、奈良県東部、宇陀郡
一帯の地名、とあった。この地名からは民話や伝説が、連想される。鋸を引
く音が、それらを呼び起こしているようである。
それから、NHK大河ドラマ「新撰組」では、京都に残るこ・134
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