タイトル: 詩集『ワルシャワの雨』より
投稿者 : 前川整洋<mae_sei@mwb.biglobe.ne.jp>Locked!
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登録時間:2004年5月12日21時38分
本文:
現代詩創作集団「地球」同人の中島登氏から詩集『ワルシャワの雨』(砂子屋書房、2000年)をお送り頂きました。中島さんは詩誌『地球』の編集委員もされています。ま
た、「地球」の研究会では、私の詩についての詩評もして頂いたりもしてい
ます。
『ワルシャワの雨』から2篇紹介します。
海辺の微風
せみしぐれ
海べの茶屋の昼さがり
なつかしい顔
はなやいだ声
ひとは集い来て
歌を詠み
ひととき
暑さをわすれる
ふたたび
会うこともない
ひともいる
このひとときの
ひとときの
せみしぐれ
(海辺の歌会にて)
悲しみの庭
泣いている人がいる
悲嘆にくれて泣いている人がいる
しかし人は悲しいから泣くのではない
身のやり場がなくて
己に対する憤りで泣いているのだ
人は悲しみだけでは泣かない
悲しみに打ちひしがれる
涙はむしろ自分のなしえなかった
かずかずの悔恨からわいてくる
泣く女を見よ
彼女は泣いているのではない
彼女は感情が昂ぶって
激しているだけだ
激情の渦のただなかで
この世の無表情にやり場を失っている
泣いている人がいる
気違いのように正体もなく
いつまでも泣きわめいている人がいる
大勢の人々のまえで
悲しみを誇示するように泣いている人もいる
いくら嘆いても
いくら涙を流しても
枯れ落ちた病葉を
もとの枝にもどすことができないように
帰らぬものは逝ってしまう
この冷厳な事実から人は逃れることは出来ない
遠く遥かに魂が永遠の旅立ちをする時に
柩にすがって泣き叫ぶ女を見よ
いっとき涙は悲しみをやわらげる
しかしほんとうの涙はおさえてもあふれてくる
ほんとうの涙は流れないでわいてくる
人生は悲しみの庭だ
「年年歳歳花あいにたり
年年歳歳人おなじからず」
そしてまた人生は悲しみの劇場だ
人々は幕が下がるまでの一瞬に
思い思いの悲喜劇を演じている
やがて自分も舞台から消えて行くのも知らずに
ほんとうに泣くために人は空を仰ぐほかはない
簡単に詩評を述べておきます。
シュリアリズムではない抽象的内容の詩が、何篇かあった。これらの詩で
は、作者の意図するところを読み解くのはなかなか難しいようで、読者の視
点で考え、理解するしかないであろう。多くの詩からは、人生の何げないひ
と時に、意義を見出そうとする思想が読み取れた。
「海辺の微風」では、海辺は砂浜なのか、磯なのか書かれていない。「せ
みしぐれ」に海のもつ郷愁が、託されている。「ふたたび会うこともないひ
ともいる」とは、この海辺に再びくることはないかもしれないことにもつな
がる。このひとときを大事にするしかないのだ。
「悲しみの庭」という題名は、なかなか凝った題名といえる。中島さんに
は私の詩の詩評において、題名をもう少し工夫した方が良い、というアドバ
イスを頂いたことがある。泣いている人がいる、その人の悲しみは、ある事
件に対してだけのものではなく、やがては朽ち果てる自分への悲しみでもあ
る、とこの詩は言っている。「人生は悲しみの庭だ」としている。悲しみを
昇華してこそ、人生は価値を帯びてくるということでもある、と考える。
「悲しみの庭」を拝読したところで、一句思いつきました。
悲しさをおのずと忘れ新樹光
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