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◇-俳句について一考-三田(7/23-13:15)No.195
 ┗添削句についての考え方-前川整洋(7/23-21:40)No.196


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195俳句について一考三田 7/23-13:15

 俳句と短歌についてを読んで、思ったことを言わせてもらいます。俳句でも
ぬくもりのある柔らかい作品はたくさんあります。俳句派、短歌派の問題では
ないと感じます。たとえば、この掲示板に「秋の山路での一句」があります。
   縦走路 木もれ日浴びて 一休み   おがた
 この句を前川さんは、
   休憩を木漏れ日見つつ秋の山
 と添削しています。前川さんの句は、似た句がたくさんあります。おがたさ
んの句の方が好きです。俳句は理屈だけではありません。読み手に伝わらない
限り何の意味もありません。添削した時点で、休憩を〜の句は前川さんの句で
あり、おがたさんの句とは、まったく違うものになりました。
 俳句を作る人、作らない人というより、感動{読み手に、ああいい句だなあ
という}が伝わるかどうかが、一番大事です。理屈ばかり言っていると、個性
が無くなり、退屈でどこかで見たことのある、似たような句ばかりになって
つまらないですよ。俳句を鑑賞するのは、その道の専門家以外の人が多いので
すから。基本云々も大事かもしれないが、せっかくの新鮮ないい句を、おかし
くしないように願います。
 前川さんは、これを読んでまた俳句云々述べるかも知れませんが、それより
前川さん自信が、ぬくもりのある感動できるいい句を作ってほしい。

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196添削句についての考え方前川整洋 7/23-21:40
記事番号195へのコメント
原句
  縦走路 木もれ日浴びて 一休み   おがた
添削句
  休憩を木漏れ日見つつ秋の山

まず原句には季語が抜けています。季語がなくても季感あれば俳句とみなされますが、プロレベルでの話しになります。
 次にどちらの句に、情景が浮かぶかが、大きなポイントとなります。俳句は伝統の文芸で、歴史的に淘汰された作風があります。そのセオリーからは、主観的表現は避けなくてはなりません。「あびて」が主観的であり、常套的である、といえます。主観的であって客観的であればそれにこしたことはありませが。
 それから、縦走路で切れをいれると、縦走路が強調されます。木漏れ日のほのぼのとした明るさにどうかな、と思いました。また、縦走路というと、高山が連想され、高山では潅木林か針葉樹林となります。檜の木漏れ日は、鮮明に切れ切れしていて、体験的にはのんびりしながら浴びてという雰囲気ではありませんでした。人それぞれの経験からも句の捉え方が違ってきます。
 添削句は添削者の作風と経験によるもので、それを受け入れなくてはならないものではありません。


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