◇-「現代詩と歩んだ自然の概念」-前川整洋(6/4-10:35)No.234
234 | 「現代詩と歩んだ自然の概念」 | 前川整洋 | 6/4-10:35 |
6月1日の横浜文学学校で拙筆「「現代詩と歩んだ自然の概念」の合評があ りました。そこで日本の自然主義文学は山野の自然をベースにしている、と している箇所に対し、自然主義文学はあくまでも、「ありのまま描く」こと で、それはおかしいとの意見がありました。 そこで、昨日(6/3)、小説家・三田誠広の『天気の好い日には小説を 書こう』、『深くておいしい小説の書き方』、『書く前に読もう超明解文学 史』の三部作を引き出してきて見直してみました。 確かに、『天気の好い日は小説を書こう』には次のように書いてありまし た。 立松和平が北海道の原野を歩きながら、「自然は生きているんですねえ」 (笑)という、あの「自然」ではないですね。 ところが、『書く前に読もう超明解文学史』のP42に、次のよに書かれ てあって、そこから解説は変わってきます。 正直なところ、私はわりあい、ツルゲーネフが好きですが、明治時代の日 本の文人たちも、ツルゲーネフにハマッてしまったようなところがありま す。 そして次のようにこの論評をまとめています。 ツルゲーネフは、不幸な作家です。ロシアの文壇では、あまり評価されな かった。しょうがないので、田舎で狩をしている。そこで自然に出会う。 つまりこういうことです。「自然はいいなあ」という思い。これは、都会 で傷ついた人にとっては、特効薬みたいな「癒し」になるのです。 現在でも、立松和平がテレビに出て、、「自然は生きています」というよ うなことを言うと、まあ、ウケるわけですね。こういう自然観、自然という のはなかなかのものだという価値観は、昔からあったわけではなく、ツルゲ ーネフによって伝えられたのです。 日本の文壇では、こういうツルゲーネフ的な「自然」と、ゾラ的な「自 然」とが、いっしょくたんになったようなところがあります。 私としては、この解説を加味して、「現代詩と歩んだ自然の概念」での我 が国の自然主義文学を紹介した次第です。 |