タイトル: 「現代詩と歩んだ自然の概念」
投稿者 : 前川整洋Locked!
URL : 未登録
登録時間:2006年6月4日10時35分
本文:
6月1日の横浜文学学校で拙筆「「現代詩と歩んだ自然の概念」の合評があ
りました。そこで日本の自然主義文学は山野の自然をベースにしている、と
している箇所に対し、自然主義文学はあくまでも、「ありのまま描く」こと
で、それはおかしいとの意見がありました。
そこで、昨日(6/3)、小説家・三田誠広の『天気の好い日には小説を
書こう』、『深くておいしい小説の書き方』、『書く前に読もう超明解文学
史』の三部作を引き出してきて見直してみました。
確かに、『天気の好い日は小説を書こう』には次のように書いてありまし
た。
立松和平が北海道の原野を歩きながら、「自然は生きているんですねえ」
(笑)という、あの「自然」ではないですね。
ところが、『書く前に読もう超明解文学史』のP42に、次のよに書かれ
てあって、そこから解説は変わってきます。
正直なところ、私はわりあい、ツルゲーネフが好きですが、明治時代の日
本の文人たちも、ツルゲーネフにハマッてしまったようなところがありま
す。
そして次のようにこの論評をまとめています。
ツルゲーネフは、不幸な作家です。ロシアの文壇では、あまり評価されな
かった。しょうがないので、田舎で狩をしている。そこで自然に出会う。
つまりこういうことです。「自然はいいなあ」という思い。これは、都会
で傷ついた人にとっては、特効薬みたいな「癒し」になるのです。
現在でも、立松和平がテレビに出て、、「自然は生きています」というよ
うなことを言うと、まあ、ウケるわけですね。こういう自然観、自然という
のはなかなかのものだという価値観は、昔からあったわけではなく、ツルゲ
ーネフによって伝えられたのです。
日本の文壇では、こういうツルゲーネフ的な「自然」と、ゾラ的な「自
然」とが、いっしょくたんになったようなところがあります。
私としては、この解説を加味して、「現代詩と歩んだ自然の概念」での我
が国の自然主義文学を紹介した次第です。
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