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◇-現代詩創作集団「地球」新年研究会1月27日-前川整洋(1/28-21:23)No.261


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261現代詩創作集団「地球」新年研究会1月27日前川整洋 1/28-21:23

「現代詩創作集団「地球」新年研究会が1月27日、北浦和労働会館で開か
れました。
 秋谷豊代表の挨拶では次の話しがありました。
 かっては地球グループと呼んでいたのを、創作集団としたのは、1人1人の
創作活動を主体としていることからである。それは人間の歴史的総意でもあ
る。
 次に石原武氏による同人誌集講評では、中島登氏の訳詩集『螺旋階段の
虹』、大石規子氏の詩集『学童疎開』などの紹介がありました。
 『地球143号』掲載詩に対する諸先輩の講評がありました。印象に残っ
た指摘として、次のことを挙げておきます。
・詩は形式と個性、リズムと調べだけではない、文字による総合芸術であ
り、感動の文学である。どこに感動があるかに、注目しながら詩を読むこと
にしている。
・ 紀行詩は難しい。映像主体になりやすい。
・ フィクションの世界にも感動を入れ込まなくてはならない。時代の閉塞感
にぶつかるものがあった方が良い。
・ 渓谷の観察から作者の世界を創っている。作者の渓谷を期待したが、他人
の渓谷になっている。
・ 政治と国家の体制批判の詩は常套的になりやすく、成功は難しい。
・ 「第三の男」の映画を思い出させるために、映画の場面を詩にしている
が、場面が芸術となっているので、それは詩になりずらい。
・ 現実の重みが詩になっている。
・ どう感じたが詩になっている。山頭火的。
・ 流通していない言葉に注がないと、ひとり言のなってしまう。
・ 全体がきれいに書いてあるが、もどかしい感じ。ひとつの事をもっと詳し
く。
・ 故郷の郷愁が書かれているが、抒情的な流れだけでは物足りない。もっと
厚みがほしい。
・ 韻文というと、短歌、俳句の方が一般的になっている。なぜそうなのか、
文学を専攻してきた者たちに聞いたことがある。短歌、俳句の方が、現代が
盛り込まれ、読者にぶつかってくるものがある、といった意見であった。
・ トンボが左手に止まった後、神社の風景描写になっている。展開の意味が
はっきりしていない。トンボを神の象徴にするような工夫が必要である。
・ 娘さんが結婚したときの詩。「私がいなくなっても大丈夫?」と言った後
に、トイレの掃除のことが書いてある。これでは、大丈夫の問題が、トイレ
の掃除のことなのか、になってしまう。出し方を考えるべき。
・ 形容詞で整えようとすると、読者はしらける。場面でうったえる。
・ 鯨浜海岸に泊まり、途中、世界最大の刈羽原子力発電所を見学したときの
詩。宿からの眺めは、説明的になっているが、見た順に書けば説明的でなく
なる。講評者・S氏も、この発電所を見学したとのことで、そのときバスと宿
泊を無料で用意すると言われたが、わるい事をするわけでもないので、宿泊
費は自分たちで出した、との話があった。

 私の詩「風雨の羅臼岳」については堀込武弘氏の講評がありました。簡単
に書いておきます。
 人生こもごもであるが、ここでもなぜ風雨の山に登ろうとしたのかについ
て書いている。山登りと人生を対比させたことで、こういう書き方もあるの
では思った。散文詩にこういう書き方があってもいい。

 この詩の裏話を書いておきます。
 風雨の羅臼岳で居合わせた、あまり山には慣れていないような若い女性
が、登るというので登ったエピソードである。後日、知床自然センターの公
園を散策しているとき、アマチュアの動物カメラマンに出会った。彼との雑
談で、羅臼岳に登ったけど雨でさんざんだったと言いった。彼が、センター
が開催した自然観察会に参加したとき、参加者の女の子もそんなことを言っ
ていた、と言う。その子と一緒に登ったということになった。彼女は知床で
キャンプ生活をしていて、もう1ヶ月くらい過ごしているとの話であった。
変わった女の子もいるもんだ、ということになった。


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