285 | 白檜曽 | 前川整洋 | 7/8-10:18 |
横浜文学学校の講評(7月5日)で、拙作随想「ブナの森」に出てくる白檜曽(シラビソ) について、宮原昭夫先生から一般的に馴染みが薄い、との指摘がありまし た。ある程度の高い山に登らなければ見かけない木です。海抜1500mから 2500mの亜高山帯に分布しているので、2000m前後では頻繁に見かける樹木で す。今年の5月連休に登った恵那山で、萬岳荘の管理人に山頂部はほとんど 樅だと言われました。頂稜への急斜面はどうも白檜曽のようでした。下山し てから管理人に白檜曽ではないか、ときいたところ、そうかもしれないと言 われました。とにかく亜高山帯に多い木です。白檜曽と大白檜曽(青森椴松 で蔵王の樹氷で有名)の区別はかなり難しいとされていますが、白檜曽の高 木は幹がかなり白いので、わかるようです。 次のHPに白檜曽の特徴の出ている写真がありりました。 http://www.ootk.net/cgi/shikihtml/shiki_1592.htm 奥秩父の国師岳から甲武信岳の縦走路で次の句を作ったことがあります。 白檜曽の幹の白さに秋澄めり |
284 | 日本国憲法第21条 | 前川整洋 | 7/3-20:17 |
先日、横浜文学学校のある若い受講生が、小説を勉強したくて集まってきて いるので、合評・講評への拙作提出拒否を主張しましたが、今度は横浜文学 学校HPの掲示板への書き込みはまかりならない、と言ってきました。小説だ けが、文学と考えているのかもしれません。 しかしながら、日本国憲法で「第21条 集会、結社及び言論、出版その他 一切の表現の自由は、これを保障する」と掲げられています。この条文があ って、文学活動の発展も成り立つわけです。 |
283 | 現代詩創作集団「地球」6月30日研究会 | 前川整洋 | 7/1-10:46 |
現代詩創作集団「地球」研究会が6月30日、北浦和労働会館で開かれまし た。 秋谷豊代表の挨拶では次の話しがありました。 今年の「地球の詩祭」はMホテルを利用する予定であったが、宿泊費が少々 高いので止めにした(宿泊する参加者もいる)。池袋駅から7分の、会場施 設のあるビルで行うことにした。そこはパーティの食事が出ないので、食事 業者に依頼することになった。そのビルにはまだ行っていないので、場末の ビルかもしれないが、そういう所でやってみるのも勉強であろう。 佐々木久晴氏から8月に中国・雲南で開催する第10回アジア詩人会議の 中国側参加者についての説明があった。 『地球144号』掲載詩に対する諸先輩の講評がありました。印象に残っ た指摘として、次のことを挙げておきます。 ・ 何が言いたいのか、はっきりしていない。死者が出てくるが、死者にどん な思いがあるのか。風のあとに死者が出てく詩は、今は書かないほうがよ い。「千の風になって」という歌がはやり、そのイメージが強するぎるか ら。 ・ オリジナルの感性で言葉を拾うことに躊躇がある。 ・ ピエロの詩は多く書かれてきているので難しい。ピエロそのもが芸術であ ることからも難しい。 ・ メッセージがあって、多くのことが詰まっていると、説明的、解説的にな りやすい。詩はフィクションでもよいので、「日本の大阪で見る「ポンペイ の栄光」と題する展覧会で」という正直な告白はいらないのでは。 ・ イスタンブルーの地理案内としてできあがているが、作者が何に感動した かがはっきりしていない。 ・ 詩は何かを感じられればよい。一字一字の説明は必要ない。 ・ 焚火、竈を焚くなどの火を燃やすことがなくなっている。現代は精神の火 を燃やすことが語られている。 ・ 作者のYさんはベテランであるが、年もだいぶとられた。時代とのずれが 大問題になってくる。小さなことが大問題をはらんでいる。「ぼけ」は老い における生活の知恵でもある。 ・ 少し言葉を変えるだけ、上手になれる。 ・ 花は詩に何万回と書かれてきた。花が音、音符で詠まれていて、作者の独 自性が出ている。 ・ 焦点を絞り、デフォルメさせて盛り上げる。 ・ 消しゴムの詩、子供に詩を指導していたことがあったが、子供は消しゴム の詩を書くことが多い。個性が出にくい。 ・ 自然動物園の詩は、自然動物園の不自然さを追求している。 ・ いい主題を追求していても、作品の平凡、非凡がある。平凡な言い方をし ても芸術にならない。修辞が有効なこともある。 私の詩「厳冬の横岳」については中島登氏の講評がありました。簡単に書 いておきます。 横岳の特徴が簡潔に書かれている。厳冬となっているので、もっと厳冬の 厳しさを書いてほしかった。 |
282 | 仏像と哲学の関係の追記 | 前川整洋 | 7/1-10:43 |
横浜文学学校HP掲示板に書き込んだ「仏像と哲学の関係について」に対し、 「何言っているか分からないので、書き直してくれますか」との返信があり ましたので、次の追記をしました。 仏像と哲学の関係は、はっきりとは分かりかねる、言葉では解説できかね る、と言ったつもりです。仏教哲学となると「空」の理論ということになり ます。親鸞は、「空」を民衆に説いても理解されない、念仏を唱えさえすれ ば成仏できる、ということを教義としています。仏像を見、祈ったときに、 個々人の仏教哲学、根本原理が垣間見えてくるのかもしれません。「空」ま ではなかなか到達はできませんが、一歩二歩は近づけるかもしれません。 |
281 | 仏像と哲学の関係について | 前川整洋 | 6/30-09:59 |
6月21日(木)の横浜文学学校で、拙作「木像と木の魅力」の合評があり ましたが、哲学との関係の考察に欠けているとの意見がありました。仏教は 悟りの哲学ともいえます。しかし、仏像が仏教の哲学を表象しているか、と なると少々分かりかねます。仏像とはもともと仏教布教の方便(手段)であ ったものです。芸術的陶酔から宗教的法悦へと導かれます。仏像による哲学 の表象については、あまり考えていなかったので、頭をかかえていますが、 芸術性が哲学とも結びついているのでは、といえそうです。昨秋の「仏像 展」での句です。 木のまるみとともに仏像秋きざす |
280 | 「大回顧展モネ」入場者、60万人突破 | 前川整洋 | 6/25-20:19 |
東京・六本木の国立新美術館で開催中の「大回顧展モネ」(読売新聞社な ど主催)の入場者数が25日、60万人を突破した。 60万人目となったのは、神奈川県鎌倉市の津田千江子さん(69)で、 主催者から「モントルグイユ街、1878年パリ万博の祝祭」(オルセー美 術館蔵)の複製画など記念品が贈られた。 同展は午前10時から午後6時まで、木曜と金曜は同8時まで開館。火曜 休館。7月2日まで。 (2007年6月25日10時57分 読売新聞) 100点近いモネの作品が並べられていると、ドラマが感じられました。 詩人・宋左近先生は、「ルーアン大聖堂」などでは、現実の光景だけである にかかわらず、霊的なものが伝わってくる、といったことを書いています。 今月の東北山行では、蔵王山にも登りました。ロープウェイも利用してで すが、そのロープウェイからは残雪の月山が茫々と見えていました。月山は 山名から霊的で、茫々としていると、さらに強調されるようでした。 梅雨空にぼやけいくらかひずむ月山 |
279 | 国立新美術館・モネ展 | 前川整洋 | 6/15-21:21 |
今日は、東北山行から帰る予定の日でしたが、2日前に帰宅してしまい、 もっと山に居るべきであったようです。早速、千代田線乃木坂駅にある国立 新美術館のモネ展に行ってきました。 多くの作品を一挙に見ることで、モネというより印象派は、いろいろ画法 を模索しながら描いていたことが分かりました。ゴッホ風の絵あれば、セザ ンヌ風の絵もありました。モネならではの絵は、「日傘の女性」(1886 年)、「ルーアン大聖堂」(1893)、「睡蓮」(1907)であろう、 と思いました。 美の極限表現への感動はありましたが、平日にもかかわらずの観客の多さ に呆れました。入場待ち時間は約8分でしたが、会場が広いので、ダビンチ の「受胎告知」以上の人出でした。 文学からの影響を含めた美術史は次のようです。 ダビンチ 1452〜1519 ツリゲーネフ 1818〜1883 セザンヌ 1839〜1906 モネ 1840〜1926 ゴッホ 1853〜1890 ピカソ 1881〜1973 ゴッホ、セザンヌは後期印象派ですが、意外とモネが20世紀に入ってか らも描いていたことになります。1900年以後の「睡蓮」では、かなり踏 み込んだ抽象化が図られています。100点近いモネの作品を見学しての印 象は、ルネッサンス以来の写実主義の、また、19世紀に完成した自然主義 の極地といったことでした。この画法的完成に至った19世紀芸術の呪縛を 打ち破ったのがピカソだ、と岡本太郎は述べています。 どんなに世の中が近代化しても、19世紀の芸術は不滅といえそうです。 ピカソ展が開催されたならば、人出はどちらが多いの予想がつきかねます。 |
278 | 芸術への取り組みと登山 | 前川整洋 | 6/15-09:59 |
受講している横浜文学学校は自主運営であることか、受講生の運営委員が運 営を行っていますが、運営委員から横浜文学学校HP掲示板に次の書き込みが ありましたが、運営委員は事務方であった作品の内容に立ち入る立場ではな いと思っています。芸術とはそういうものです。 >今後、横浜文学学校で取り扱う作品分野の内容(小説、詩、随筆、評論等) について話し合います 結局は自己責任です。合評・講評での意見・批評もそれを取りいれるかど うかは作者の判断しだいです。作品の評価は後世に委ねられている、といえ ます。学校ではなく、同人会であれば、主宰の先生の作風に会わないと、退 場を迫られることもあるようです。 今週は永年勤続休暇を利用して東北山行をしました。4座登る予定が残雪 と天候で2座しか登れませんでした。鳥海山が最も厳しい状況と考え、地元 の遊佐(ゆざ)役場に縦走は危険かどうか問い合わせたところ、登ることじ たいが危険だから登らないようにと警告されました。しかし自然界の危険に 挑むことは、法律などでやめさせることはできないようです。 11日に鳥海山山頂の新山(しんざん)2236mまで登ってきました が、登山というより雪渓からの登山道入口を捜す危険なゲームのようでし た。雪渓には赤布付きの細竹が雪面に立ってありますが、重要な箇所ほど倒 れていました。次ぎの登山者のために、倒れている細竹を立てようとしまし たが、1センチくらいしか雪面にめり込まず止めました。それが下山時の厳 しい状況を起こしてしまいました。縦走はとてもできそうもなく、泊まった 大平山荘に戻ることにしました。大きな雪渓が6箇所あり、忘れてしまった 箇所では途方にくれることになりました。しかしながら、晴れていて、慌て ずに体力の消耗を恐れず同じ辺を行ったり来たり、地図も見ながら遠くまで 見通したりしていると、自ずからなんとかなるようでした。登山者は山頂近 くで一人とすれ違っただけでした。 雪渓が尽きてまたもや道捜す |
277 | 絵画と山の景観の観賞 | 前川整洋 | 5/24-20:47 |
国立東京博物館でレオナルド・ダビンチの『受胎告知』を見学したわけです が、詩人の宋左近先生が述べているマリアと天使との対決、神と作者との対 決に表出された、氷が裂ける直前の緊張感といったことは伝わってきた、と は言いがたかったとの感想です。もの凄い人出でガードマンがいて、立ち止 まって見てはいられなかったことが、絵以上に印象に残ったようです。ゆっ くりでも視点が移動しながら見ていると、絵画の弱点である2次元性が顕わ になってしまって、絵画の中に入り込めないということのようです。 登山では歩きながら景観を眺めることは、普通にあります。この場合は結 構味わいがあります。3次元の景観を移動しながら見ていても、景観の変化 に不自然さがなく、ダイナミックに絵巻を観賞していることになります。ま た、稜線歩きでは360度、景観に囲まれていることになります。歩いてい ると景観に引き込まれてゆく感じもします。 レオナルド・ダビンチは作品数が凄く少ない、一点への人の集中。観賞は 二の次でも、本物を見たことに満足できるのかもしれません。 |
276 | レオナルド・ダビンチの『受胎告知』 | 前川整洋 | 5/20-13:19 |
5/19(土)、国立東京東京博物館にレオナルド・ダビンチの『受胎告 知』を見に行ってきました。学生のときの友人も見に行ったと言っていまし たが、日曜で40分並んだとのことでした。私のときは20分くらい並びま した。 キリスト教というより宗教の澄明な趣があり、古典的な優雅さがありまし た。詩人の宋左近先生は、この絵にはマリアと天使との対決があり、それは 神と作者との対決でもある、と『私の西欧美術ガイド』(新潮社)で書いて います。ここでの神は神以前の神である、とも言っていて、神というより霊 的なものを指しているようです。私にはそのような緊迫感は、いまひとつ感 じられませんでしたが、立ち止まって見ていては、ガードマンから注意され てしまう状況で、絵は数分間凝視していないと秘めているものは伝わってこ ない、と残念な思いに駆られます。 別館ではダビンチが先駆した科学上の業績の展示もありましたが、人が多 すぎてどんなものが展示されているかを、一応見てきたという状況でした。 三重県全国俳句募集最優秀句が、次の句であったことが思い出されます。 受胎告知雲雀は空に上がりけり 丑丸敬史 |