「現代詩と歩んだ自然の概念」 へのコメント
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前川整洋さんは No.234「「現代詩と歩んだ自然の概念」」で書きました。 >6月1日の横浜文学学校で拙筆「「現代詩と歩んだ自然の概念」の合評があ >りました。そこで日本の自然主義文学は山野の自然をベースにしている、と >している箇所に対し、自然主義文学はあくまでも、「ありのまま描く」こと >で、それはおかしいとの意見がありました。 > そこで、昨日(6/3)、小説家・三田誠広の『天気の好い日には小説を >書こう』、『深くておいしい小説の書き方』、『書く前に読もう超明解文学 >史』の三部作を引き出してきて見直してみました。 > 確かに、『天気の好い日は小説を書こう』には次のように書いてありまし >た。 > 立松和平が北海道の原野を歩きながら、「自然は生きているんですねえ」 >(笑)という、あの「自然」ではないですね。 > ところが、『書く前に読もう超明解文学史』のP42に、次のよに書かれ >てあって、そこから解説は変わってきます。 > 正直なところ、私はわりあい、ツルゲーネフが好きですが、明治時代の日 >本の文人たちも、ツルゲーネフにハマッてしまったようなところがありま >す。 > そして次のようにこの論評をまとめています。 > ツルゲーネフは、不幸な作家です。ロシアの文壇では、あまり評価されな >かった。しょうがないので、田舎で狩をしている。そこで自然に出会う。 > つまりこういうことです。「自然はいいなあ」という思い。これは、都会 >で傷ついた人にとっては、特効薬みたいな「癒し」になるのです。 > 現在でも、立松和平がテレビに出て、、「自然は生きています」というよ >うなことを言うと、まあ、ウケるわけですね。こういう自然観、自然という >のはなかなかのものだという価値観は、昔からあったわけではなく、ツルゲ >ーネフによって伝えられたのです。 > 日本の文壇では、こういうツルゲーネフ的な「自然」と、ゾラ的な「自 >然」とが、いっしょくたんになったようなところがあります。 > 私としては、この解説を加味して、「現代詩と歩んだ自然の概念」での我 >が国の自然主義文学を紹介した次第です。
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