現代詩を通しての自然 へのコメント
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前川整洋さんは No.208「現代詩を通しての自然」で書きました。 > 山と自然に係わりのある文芸についての評論にも取り組んでいます。横浜文学学校(講師・宮原昭夫先生)の合評・講評に「立原道造の詩を通しての自然」「中原中也の詩を通しての自然」「三好達治の詩を通しての自然」の3編を提出しました。10月6日にそれらの作品の合評が行われましたが、10月20日には宮原先生の講評が行われる予定です。予想したことですが、合評については賛否両論でした。 > 昨年まで受講していた文藝学校の現代詩講座で、長谷川龍生先生により、私の作風に対し全面的に否定するかの批評を受けました。長谷川先生は社会思想をテーマにした現代詩の第一人者であることからも、私の自然諷詠をベースにした作風を否定されるのは、当然の成り行きともいえます。 > そこで、自然描写を中心にした現代詩の意義を再認識したいこともあり、積極的にそれらを探求すべき評論も書いています。 > 確かに自然描写に終始していたのでは社会性や思想性に乏しく、それにこだわりすぎると時代の潮流に取り残される、といえないこともありまん。一方、自然に佇み、身を置くことに生きていることの実感を味わうことができ、そのことにより発展的な世界観、社会観、歴史観、宗教観、自然観を身に付けることができる、ともいえます。 > 合評では次のような論評があり、考えさせられました。 > > 教科書的に書かれてあって、普段読むことのない詩の勉強になった。しかしながら、3編ともに言えることだが、最後の結論が雄大というか、大きな問題の提起になっていて、その解説がなされていない。例えば、「立原道造の詩を通しての自然」においての結論として、「道造の詩は、はかない人の一生であっても、自然のもつ幻想感やリズムに佇みゆらめくことで、悠久の魂が得られることを伝えている」としている。この結論がどのように導き出されたのか分かりかねた。そこのところをもっと論考してもらいたい。 > > 私としては、結論については漠然と感じたことを書いたともいえることですが、考えを深めて書き加える必要があるといえます。
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