秋の山路俳句の再考 へのコメント
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前川整洋さんは No.102「秋の山路俳句の再考」で書きました。 >山の掲示板「山SIG」で、あきちゃさんから次の批評の掲載があったので、私 >の解説とともに紹介します。 >http://www5a.biglobe.ne.jp/~YAMASIG/ > >以前評論していらした次の句 > > 縦走路 木もれ日浴びて 一休み………おがた > >この句、初秋の山、きっと寒い日で、体調が悪く疲れていて、 >そんな時樹林の間から漏れてくる微かな木漏れ日の温かさがあ >りがたく、嬉しくて書いた句ではないかと思われます。 >実際山を歩いているとそういうシーンって結構あると思います >が、そういう時の心の鼓動の愛おしさ、皮膚から抜けていく樹 >液のような汗の焦り、そんなものが伝わってきます。 >マエカワさんは「浴びて」は合わないとと評されて、添削とし >て > > 休憩を木漏れ日見つつ秋の山 > >と、観察者としての視点を提案しておられるようですが、私の >個人的な感想としては原作者の句の方により息づかいが感じら >れ親近感を覚えます。 >「ああ、俺もあの時の木漏れ日、嬉しかったな」と。 > >芸術的とされる作品を評論、または添削することって難しいこ >とですね > >あきちゃさんの批評を読み、俳句作者というか俳人とは違った意見と思われ >ました。原句は季語がありません。秋の山での句なので、縦走路は秋の山か >何か秋の季語を入れなくてはなりません。「浴び」で良いとのご意見です >が、「浴び」からは水浴びなどのイメージが強く、びしゃびしゃ浴びる感じ >で、秋の落ち着きのある光には合わないはずです。それから俳句では、次に >示すように季語が動いては、俳句の芸術性が無いことになります。掲句では >次のようになります。 > 夏の山木漏れ日浴びて一休み > 新緑の木漏れ日浴びて一休み > 若葉風に木漏れ日浴びて一休み >この中では2句目がベターといえますが、秋のでも、夏の季語でももってこ >れる、のでは困ります。また、秋の木漏れ日でも「浴びる」と感じられた、 >というのは主観的表現であり、写生句としてはどうかということになりま >す。主観ではなぜ駄目なのか、という意見もあるわけですが、作者とういか >人中心主義か、季語すなわち自然中心主義か、という作法基盤の置き方に関 >係しています。 >山の俳句では、美観と季語の秘めた深淵をどこまで追求できているかに句の >評価が決まってきます。季語と一般的にはいわれていますが、高浜虚子は季 >語とは言わず、必ず季題と言っていました。 > 俳句を作る人、作らない人では、解釈というか鑑賞のスタンスが違うとい >えます。これからもいろいろな批評がでてくると思います。
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