地球の詩祭2003 へのコメント
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前川整洋さんは No.112「地球の詩祭2003」で書きました。 > 第28回地球賞 鈴木有美子『水の地図』について > > 11月23日、アルカディア市谷での現代詩創作集団地球が主催する「地 >球の詩祭2003」に参加しました。次のプログラムでした。 >第1部 第28回地球賞贈呈式 >第2部 東京の川とその源流紀行 >このテーマについて、多くの詩朗読とトークがありましたが、新川和江さん >の「多摩川の源流」を要約しました。 >多摩川の近くし住んで25年くらいになる。20年ほど前に多摩川の源流を >訪ねたことがある。そのときの体験から、源流に住んでいる人たちとの会話 >を中心とした詩「源流へ」を作った。私の住んでいる所では、玉の玉川で >す。多摩川は街中を流れているのではないので、隅田川や神田川のような抒 >情性はなく、万葉調の川だと思う。 >第3部 記念パーティー > >第28回地球賞は、 鈴木有美子氏の詩集『水の地図』でした。その中から >一篇紹介します。 > > 水の地図 > >川の足跡を消すことはできない > >山を登る >一足ごとに >想いが入れ替わっていく >確かに >わたしたちが辿っているのは川ではなかった > >「道筋には一面にクマザサが繁り >ブナやミズナラが無限に続く雑木の森でした >杉林はむしろ人臭くって >そのときだけ山にいることを忘れることができました >ひっきりなしにぬかるみに足をとらえて滑りました >でも >とうに尾根を滑り落ちる心を見殺しにしてきたのですから >わたしたちは >一向に平気で進むことができたのです」 > >山頂からひと思いに一本の線を描いて >それがただ一筋の川であったら > >けれども日ごとにその姿を変える >蠱惑的な灯りの下では >今夜もきみが存るはずもない水を眺める >地図に埋もれた水脈を探り当てては >夜ごと晴れ晴れと笑うおとこよ >きみを 地獄下りの旅に連れて行っても良いのだろうか > >「中の沢、鹿又沢、小中沢 >そして極楽沢とわかれて走る水は >思いがけないほどの冷たさでわたしたちのあしうらを浸し >ました >遡れば遡るほど >地獄下りの旅は深くなるのに >わたしたちは笑って >無関心に両足を水に濡らし >そして再び笑いあったのです >いつも鳥が鳴いていました >けれど源流に着いたとき鳥は死んで >もう わたしたちに >時を知らせてくれるものはいなくなってしまったのです」 > >ゆうべの雨で水嵩が増したから >もうどれが極楽沢なのか分からなくなってしまったね > >林床に戸惑い >その出自を幾度も変えながら >川は決して一筋の川ではない >ひちつの夜を跨いだだけで こんなにも >川が姿を変えるとは想像もできなかったわたしたちは >きのうまでは >まだ戻れないのだと思い込んでいたのだ > >この川をきみと下っても良いのだろうか >きみの魂を汚しているのはわたしの中の水ではない >この川も自らを問うためだけに流れているわけではない >そう言いきれるはずもない「わたし」であるのに >この川はだれと下れば良いのだろう >振り向いた途端 >幽霊のような身軽さで >一散に山から逃げ下りゆくきみよ > >詩評を述べておきます。 > 最初の一行「川の足跡を消すことはできない」は、川が特別なもの、すな >わち暗示的であったり、示唆的である何かを秘めている、ということであろ >う。「わたしたちが辿っているのは川ではなかった」ということは、地理的 >な存在ではなく、人生行路でもあると訴えている。 > 四連目の「それがただ一筋の川であったら」とは、川がひと筋ではない戸 >惑いである。川を遡ることは、地獄へのというより死への下りでもある。登 >り詰めることは、終焉でもある。 > 川を二人で辿りたい、しかし、きみは逃げて行く。川は流れるとともに、 >辺りの様子は変幻する。あたかもそれは人生の行路でもある。きみの存在は >あてにはならない、一人で歩んで行かなければならない。言葉を通して、川 >が自然界の存在から、人のフィールドに引き寄せられている。 > >私の一句も書いておきます。 > >詩を思ふ詩の大会へ枯葉道 > >俳句は自然諷詠、現代詩は思想探求といえるようです。 >
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