詩集『ワルシャワの雨』より へのコメント
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前川整洋さんは No.137「詩集『ワルシャワの雨』より」で書きました。 > 現代詩創作集団「地球」同人の中島登氏から詩集『ワルシャワの雨』(砂子屋書房、2000年)をお送り頂きました。中島さんは詩誌『地球』の編集委員もされています。ま >た、「地球」の研究会では、私の詩についての詩評もして頂いたりもしてい >ます。 > 『ワルシャワの雨』から2篇紹介します。 > > 海辺の微風 > >せみしぐれ >海べの茶屋の昼さがり >なつかしい顔 >はなやいだ声 > >ひとは集い来て >歌を詠み >ひととき >暑さをわすれる > >ふたたび >会うこともない >ひともいる > >このひとときの >ひとときの >せみしぐれ > (海辺の歌会にて) > > > 悲しみの庭 > >泣いている人がいる >悲嘆にくれて泣いている人がいる >しかし人は悲しいから泣くのではない >身のやり場がなくて >己に対する憤りで泣いているのだ > >人は悲しみだけでは泣かない >悲しみに打ちひしがれる >涙はむしろ自分のなしえなかった >かずかずの悔恨からわいてくる > >泣く女を見よ >彼女は泣いているのではない >彼女は感情が昂ぶって >激しているだけだ >激情の渦のただなかで >この世の無表情にやり場を失っている > >泣いている人がいる >気違いのように正体もなく >いつまでも泣きわめいている人がいる >大勢の人々のまえで >悲しみを誇示するように泣いている人もいる > >いくら嘆いても >いくら涙を流しても >枯れ落ちた病葉を >もとの枝にもどすことができないように >帰らぬものは逝ってしまう >この冷厳な事実から人は逃れることは出来ない >遠く遥かに魂が永遠の旅立ちをする時に >柩にすがって泣き叫ぶ女を見よ > >いっとき涙は悲しみをやわらげる >しかしほんとうの涙はおさえてもあふれてくる >ほんとうの涙は流れないでわいてくる > >人生は悲しみの庭だ >「年年歳歳花あいにたり >年年歳歳人おなじからず」 > >そしてまた人生は悲しみの劇場だ >人々は幕が下がるまでの一瞬に >思い思いの悲喜劇を演じている >やがて自分も舞台から消えて行くのも知らずに > >ほんとうに泣くために人は空を仰ぐほかはない > > > 簡単に詩評を述べておきます。 > シュリアリズムではない抽象的内容の詩が、何篇かあった。これらの詩で >は、作者の意図するところを読み解くのはなかなか難しいようで、読者の視 >点で考え、理解するしかないであろう。多くの詩からは、人生の何げないひ >と時に、意義を見出そうとする思想が読み取れた。 > 「海辺の微風」では、海辺は砂浜なのか、磯なのか書かれていない。「せ >みしぐれ」に海のもつ郷愁が、託されている。「ふたたび会うこともないひ >ともいる」とは、この海辺に再びくることはないかもしれないことにもつな >がる。このひとときを大事にするしかないのだ。 > 「悲しみの庭」という題名は、なかなか凝った題名といえる。中島さんに >は私の詩の詩評において、題名をもう少し工夫した方が良い、というアドバ >イスを頂いたことがある。泣いている人がいる、その人の悲しみは、ある事 >件に対してだけのものではなく、やがては朽ち果てる自分への悲しみでもあ >る、とこの詩は言っている。「人生は悲しみの庭だ」としている。悲しみを >昇華してこそ、人生は価値を帯びてくるということでもある、と考える。 > >「悲しみの庭」を拝読したところで、一句思いつきました。 > 悲しさをおのずと忘れ新樹光
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