「現代詩を通しての自然」の講評 へのコメント
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前川整洋さんは No.209「「現代詩を通しての自然」の講評」で書きました。 >10月20日、横浜文学学校(http://art.upper.jp/yokobn/)で宮原昭夫先生による、「立原道造の詩を通しての自然」ほか2編の講評がありましたが、なかなか厳しい批評でした。まずは、結論へのプロセスを強化する必要がある、ということです。 > それから、なぜだか分からない断定が多かった、との指摘がありました。そこがまた面白かった、とも付け加えられていました。一例として立原道造のところでの、「山から上がる烟からは、ドラマの始まりか終わりを連想させられる。火の山の麓での失恋物語には、哀愁が漂う。それは街中での失恋物語が無味乾燥の悲哀だけであるのに対し、いつまでも心に沁みるほのかな灯が点っている」とあるが、街中での失恋物語が、いつも無味乾燥とはいえないのでは、という指摘でした。 > > この問題の上がった詩は、浅間山麓での次の立原道造の詩です。彼の代表作でもあります。 > > はじめてのものに > >ささやかな地異は そのかたみに >灰を降らした この村に ひとしきり >灰はかなしい追憶のやうに >音を立てて >樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきった > >その夜 月は明るかつたが 私はひとと >窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた) >部屋の隅々に 峡谷のやうに 光と >よくひびく笑ひ聲がもれてゐた > >―人の心を知ることは……人の心とは…… >私は その人が蛾を追う手つき あれは蛾を >把へようとするのだらうか 何かいぶかしかった > >いかなる日にみねに灰の煙の立ち初めたか >火の山の物語と……また幾夜さかは 果たして夢に >その夜習った*エリーザベトの物語を織つた > > *「エリザベートの物語」は、ドイツ浪漫派の詩人シュトルムが、「みずうみ」で書いたはかない失恋物語である。 > > 私としては、アウトドアー派の一般論的に考えていました。なぜそう言えるのか、となると戸惑ってしまいます。改めて考えてみますと。自然の中には人の感情とは別の温もりがあり、明日につながるほのかな灯を点してくれはずであろう、と言いたいと思います。
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