詩集『瞼を彩りて消えず』 へのコメント
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前川整洋さんは No.237「詩集『瞼を彩りて消えず』」で書きました。 >現代詩創作集団「地球」同人の浪本琢夫氏から詩集『瞼(まなうら)を彩り >て消えず』(能楽書林、2006年)をお送り頂きました。浪本さんは詩誌 >『地球』にいつも能をテーマにした詩を掲載されています。今回の詩集も能 >をテーマにした詩が8割くらいを占めているようです。 > 能については、私もそうなのですが、知らない方が多いと思われるので、 >簡単に書いておきます。 > 能の物語の最も一般的なパターンは、死者が甦ってきて現世での苦しみを >語る、語る相手は旅僧が多いようです。創作劇はほとんどなく、『源氏物 >語』、『平家物語』、『伊勢物語』を典拠としています。 >浪本さんは趣味として能に凝っている方と思っていましたが、詩集の略歴 >に、観世流能楽師範とありました。神楽は民衆芸能ですが、能の高度な技と >なるとプロに限られたことと思っていましたが、そうではないようで、驚き >ました。私は能については少し本を読んで知っている程度です。 > 『瞼を彩りて消えず』から2篇紹介します。 > > 弱法師(よろぼうし) > >《満目青山心にあり》 >寂び寂びと父親(わき)は登場した >難波の天王寺 >如月、梅が咲き匂う > >盲目の少年弱法師、杖を突いて揚幕に寄りかかる >夜昼の区別つかぬ >三ノ松に立ち尽くして >見えぬ目に春の海を見 >音を聞く >石の鳥居まで橋懸は長い >杖を左に突き 右に叩き行く >木に花匂う天王寺に、杖でさぐり着き >袖を広げて散る花びらを集めた > >鐘の響きに面を俯け >扇で空を切り >さし回して須磨・明石を眺め >扇を胸に当て満目青山を籠めた >長柄の橋を行き交い >貴賎にぶつかり >転(まろ)び >よろよろとつまずき >またも歩み行く > > >平等院の秋 > >池の水は澱んで >秋空を沈めている >源融(とおる)の >昔語りも沈んで >岸に沿って歩く私の足先から >小石が少しずつ >ずり落ちてゆく >京の河原の院の汐汲(しおくみ)には >うす暗い檜の舞台を >からころと転がる釣瓶の音が走り > >夢さめて 風を聞(か)げば >目の前は昼の秋 >歴史の鵄尾(しび)は空高く瓦を踏み >紅葉の秋をばら撒きつつ瓦の波を空に押し返した > > > 簡単に詩評を述べておきます。 > 作者が能に精通しているからと思われるが、能についての詩は、ストーリ >ーの一場面をオーソドックスに表現している詩が多いようい思えた。能自体 >が詩的表現形式をとっていて、それをさらに詩で著していることになる。能 >以外の詩のほうが、詩的飛躍に溢れているようだった。日常の見慣れたよう >な風景を、詩の場面へと変転させている。 >弱法師は少年の法師で、親との再会のドラマである。目は見えないものを、 >気配や辺りの様子で、景色を感じたりイメージしたりして歩いている。弱法 >師の「弱」は、見かけのことで、内面はしっかりしているということなので >あろう。 > 「平等院の秋」にある汐汲は、能の「松風」を題材とした歌舞伎舞踊と辞 >書には書いてあった。平等院に能舞台があるのか、イメージで出てきている >のか。どちらにしても能と平等院とは、その重厚な妙趣が重なり合ってい >る。最終連は巧みな表現で、歴史の重さを浮き彫りにしている。 > >「弱法師」を拝読して一句思いつきました。 > > 梅雨空によろけ倒れず弱法師
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