現代詩創作集団「地球」新年研究会1月27日 へのコメント
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前川整洋さんは No.261「現代詩創作集団「地球」新年研究会1月27日」で書きました。 >「現代詩創作集団「地球」新年研究会が1月27日、北浦和労働会館で開か >れました。 > 秋谷豊代表の挨拶では次の話しがありました。 > かっては地球グループと呼んでいたのを、創作集団としたのは、1人1人の >創作活動を主体としていることからである。それは人間の歴史的総意でもあ >る。 > 次に石原武氏による同人誌集講評では、中島登氏の訳詩集『螺旋階段の >虹』、大石規子氏の詩集『学童疎開』などの紹介がありました。 > 『地球143号』掲載詩に対する諸先輩の講評がありました。印象に残っ >た指摘として、次のことを挙げておきます。 >・詩は形式と個性、リズムと調べだけではない、文字による総合芸術であ >り、感動の文学である。どこに感動があるかに、注目しながら詩を読むこと >にしている。 >・ 紀行詩は難しい。映像主体になりやすい。 >・ フィクションの世界にも感動を入れ込まなくてはならない。時代の閉塞感 >にぶつかるものがあった方が良い。 >・ 渓谷の観察から作者の世界を創っている。作者の渓谷を期待したが、他人 >の渓谷になっている。 >・ 政治と国家の体制批判の詩は常套的になりやすく、成功は難しい。 >・ 「第三の男」の映画を思い出させるために、映画の場面を詩にしている >が、場面が芸術となっているので、それは詩になりずらい。 >・ 現実の重みが詩になっている。 >・ どう感じたが詩になっている。山頭火的。 >・ 流通していない言葉に注がないと、ひとり言のなってしまう。 >・ 全体がきれいに書いてあるが、もどかしい感じ。ひとつの事をもっと詳し >く。 >・ 故郷の郷愁が書かれているが、抒情的な流れだけでは物足りない。もっと >厚みがほしい。 >・ 韻文というと、短歌、俳句の方が一般的になっている。なぜそうなのか、 >文学を専攻してきた者たちに聞いたことがある。短歌、俳句の方が、現代が >盛り込まれ、読者にぶつかってくるものがある、といった意見であった。 >・ トンボが左手に止まった後、神社の風景描写になっている。展開の意味が >はっきりしていない。トンボを神の象徴にするような工夫が必要である。 >・ 娘さんが結婚したときの詩。「私がいなくなっても大丈夫?」と言った後 >に、トイレの掃除のことが書いてある。これでは、大丈夫の問題が、トイレ >の掃除のことなのか、になってしまう。出し方を考えるべき。 >・ 形容詞で整えようとすると、読者はしらける。場面でうったえる。 >・ 鯨浜海岸に泊まり、途中、世界最大の刈羽原子力発電所を見学したときの >詩。宿からの眺めは、説明的になっているが、見た順に書けば説明的でなく >なる。講評者・S氏も、この発電所を見学したとのことで、そのときバスと宿 >泊を無料で用意すると言われたが、わるい事をするわけでもないので、宿泊 >費は自分たちで出した、との話があった。 > > 私の詩「風雨の羅臼岳」については堀込武弘氏の講評がありました。簡単 >に書いておきます。 > 人生こもごもであるが、ここでもなぜ風雨の山に登ろうとしたのかについ >て書いている。山登りと人生を対比させたことで、こういう書き方もあるの >では思った。散文詩にこういう書き方があってもいい。 > > この詩の裏話を書いておきます。 > 風雨の羅臼岳で居合わせた、あまり山には慣れていないような若い女性 >が、登るというので登ったエピソードである。後日、知床自然センターの公 >園を散策しているとき、アマチュアの動物カメラマンに出会った。彼との雑 >談で、羅臼岳に登ったけど雨でさんざんだったと言いった。彼が、センター >が開催した自然観察会に参加したとき、参加者の女の子もそんなことを言っ >ていた、と言う。その子と一緒に登ったということになった。彼女は知床で >キャンプ生活をしていて、もう1ヶ月くらい過ごしているとの話であった。 >変わった女の子もいるもんだ、ということになった。
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